カルト(cult)の宗教にだまされた人を救うことの是非―救わないで、その人の自己責任でやって行くべきなのか

 たとえ悪い宗教にその人がだまされても、自己責任で何とかするべきなのだろうか。

 よくない宗教を信じる家にたまたま生まれた子どもは、自己責任で自力でなんとか生きて行くべきなのだろうか。

 親ガチャといわれているように、親の範ちゅう(集合)には、いろいろな価値がある。範ちゅうと価値を分けてみるとそう見なせる。たとえば、国の範ちゅうには、よい国もあれば悪い国もある。

 よくない宗教を信じる親もいるけど、そうした親から生まれた子どもは、自己責任でなんとかやって行くべきだとテレビ番組では言われていた。

 悪いカルト(cult)の宗教にだまされた人や、そうした宗教を信じる親から生まれた子ども(宗教二世)を救うための法律が作られるけど、法律の作りがとても甘いことが言われている。悪いカルトの宗教のほうをかえって救う(かばう)ような法律になっているのだとされる。

 どういうふうにしたら、悪い宗教にだまされてしまった人を救うことになるのかといえば、自己責任をもち出すのはのぞましくない。自己責任をもち出してしまうと、これまでの日本の社会の価値観が変わらないからだ。

 これまでの日本の社会の価値観をそのままにしてしまうのが、慣習の他律のあり方だ。自己責任をもち出してしまうと、慣習の他律のあり方になってしまう。悪い宗教にだまされた人が救われづらい。救われずに、そのままに放ったらかされてしまう。

 慣習の他律で、自己責任をもち出すのではなくて、反省の自律によるようにして行く。反省の自律によるようにして、日本にはびこるいろいろな悪い宗教を問題視して行く。政治と宗教とのゆ着を問題化して行く。宗教の一般のあり方を見直すようにして行く。

 日本の社会の中には、悪い宗教にだまされた人をふくめて、いろいろなことで困っていたり苦しんでいたりする人たちがいるものだろう。そうした困ったり苦しんだりしている人たちをすくうためには、自己責任をもち出すと、救うことになりづらい。慣習の他律になってしまう。

 反省の自律によるようにして、色々なことで困ったり苦しんだりしている人たちを救うようにして行きたい。自己責任をもち出して、これまでの日本の社会の価値観をそのままに温存して行くのではなくて、日本の社会の価値観をどんどん変えるようにして行く。

 社会の価値観は、自然なものではなくて、人為や人工の構築性があるから、それを変えて行くことができるものだろう。差別や偏見が日本の社会には色々とあるから、それらを改めて行く。劣の階層(class)に置かれている人たちが、生きて行きやすいように改めて行くことがいる。

 よりよい価値観になるようにしていって、等生化や等性化や平等化(equalization)や標準化(normalization)などになるようにして行くことが、弱者や被害者などを救うことにつながる。標準化とは、個人を標準に適合させることではなくて、社会のほうをよりよく変えて行くことだ。社会のあり方を問題化して行くことなのである。

 法律を作って、悪い宗教にだまされた人を救うようにするのは、とても大事なことであり、それにくわえて、これまでの日本の社会の価値観を変えるようにして行く。社会の価値観を変えるようにしないと、困ったり苦しんだりしている人たちを救うことができづらいから、それをやって行くことが肝心だ。

 参照文献 『事例でみる 生活困窮者』一般社団法人社会的包摂サポートセンター編 『社会的排除 参加の欠如・不確かな帰属』岩田正美 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『「責任」はだれにあるのか』小浜逸郎(こはまいつお) 『倫理学を学ぶ人のために』宇都宮芳明(よしあき)、熊野純彦(くまのすみひこ)編 『構築主義とは何か』上野千鶴子

日本の国と、宗教への甘さ―カルト(cult)などの悪い宗教(または宗教の一般)にたいしてきびしさが欠けている

 なぜ日本は宗教に甘さがあるのだろうか。国の政治と宗教とが結びついてゆ着しやすいのだろうか。

 日本は宗教と近しさがある。宗教は、価値によるものであり、何々するべきの道(何々道)のあり方だ。

 宗教は日本が好むところのものである。何々するべきだの道(何々道)を好む。

 日本できらわれやすいのが自由だ。自由主義(liberalism)がきらわれやすい。自由主義者はきらわれ者になりやすい。

 どんどん右傾化していっているのが日本の政治ではおきている。この右傾化は、反自由になっているのをしめす。反自由の政治になっていて、宗教化していっている。宗教とのゆ着が深まっている。

 対比して見てみると、もともと日本では自由よりも宗教のほうが好まれやすい。自由と宗教だったら、自由を捨てて、宗教のほうを取る。

 自由ではなくて、宗教のような、何々であるべきとか、道(何々道)のあり方をとるのが日本にはある。何々であるべきの道のあり方は、かくあるべきの当為(sollen)であり、上からの正義だ。

 かくあるべきの当為で、上からの正義による。そのことによって、かくあるの実在(sein)が軽んじられやすい。かくあるの実在を軽んじて、かくあるべきの当為をうんと重んじてしまう。

 世俗のあり方だったらまだわりあい安全性がある。世俗のあり方は自由主義功利主義のあり方だ。世俗のあり方であれば個人がとれる自由の広さが広めだから、個人の自由をほしょうしやすい。

 宗教のあり方だと、世俗のあり方を超えてしまい、正しさを強く持つことになる。正しいあり方を強く持つことになって、個人の自由がせばまってしまう。個人の自由をほしょうできなくなり、個人が得られる効用(満足)が減ってしまう。

 どういうふうな性格を持っているのが日本の国なのかがあって、それを見てみると、宗教や道(何々道)のあり方を好みやすくて、自由をきらいやすいから、それを改めるようにして行きたい。自由をきらうのが日本の国だけど、そうではなくて、自由を好む国であれば、日本の国の中の個人がもっと生きて行きやすくなるのではないだろうか。

 宗教と自由を対比してみると、宗教によりやすいのが日本の国だから、日本の国のことを良しとしてしまうと、宗教や道(何々道)のあり方をよしとすることになる。日本の国のことをうかつによしとするのではなくて、批判をするようにして、きらわれがちな自由を良しとして行く。

 自由主義がこわされているのを立て直すようにして、自由を良しとして行くことが、宗教への甘さを改めることにつながって行く。政治と宗教とのゆ着の深まりを改めることにつながって行くことになる。そう見なしてみたい。

 参照文献 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『現代倫理学入門』加藤尚武(ひさたけ) 『吉田秀和 音楽を語る 上・下』吉田秀和 『右傾化する日本政治』中野晃一 『増補 靖国史観 日本思想を読みなおす』小島毅(つよし) 『山本七平(しちへい)の思想 日本教天皇制の七〇年』東谷暁(ひがしたにさとし)

国の防衛と、発想のちがい―日本はどういう発想によるようにするべきなのか

 攻撃の力を持てるようにする。そうすれば、日本の国の安全は高まるのだろうか。危険性を低められるのだろうか。

 日本の国を防衛するためには、国の軍事の力を上げて、攻撃する力を持てるようにしても、よくはたらかない。悪くはたらく。そう見なしてみたい。

 なぜ軍事力を上げる強兵のあり方が、かえって悪くはたらくのかといえば、それがふつうの発想から出てきてしまっているからだ。日本の国から出てくるふつうの発想の延長線上にあるものだからである。

 ふつうの発想ではなくて、もっとちがった発想をもつ。ふつうとはちがう発想を持つようにすれば、日本の国の安全は高まる。国の防衛が強まって行く。

 いっぷう変わった、逆転の発想をもつようにすることで、国の防衛が強まるのがあり、それはどういったことなのかといえば、遠近法(perspective)によるものである。

 遠近法で、ふつうだったら遠いものはますます遠ざけて、近いものはますます近づけて行く。そういうふうにしないで、遠いものを近づけて行く。近いものを遠ざけるようにする(または、遠ざけるのではないにしても、ますます近づけるのではないようにする)。遠いものを近づけるのは、よき歓待(かんたい)や客むかえ(hospitality)だ。遠いものとの交通だ。

 何のへんてつもないふつうの発想によるのだと、遠いものは遠ざけて、近いものは近づけるだけだから、そこから自国にとっての敵を作り出してしまう。敵を作り出してしまうと、敵をやっつけるといった発想になってしまう。

 敵を作らないようにして、それを生み出さないようにすることが、いかにできるのかがある。そこに、日本の国の防衛のかぎがある。それができるかどうかによって、日本の国を守ることができるのかが左右される。

 たとえ軍事の力を高めて強兵にしたとしても、それはごくふつうの発想によるものだから、日本の国は安全にはならず、かえって危険性が高まって行く。ふつうの発想を転じることにはならず、それをますます強めてしまうから、どつぼにはまって行く。

 どういうふうな努力を日本の国はするべきなのかといえば、ごくふつうの発想から脱することだ。国の防衛では、それをやるように努力することがいる。発想を転じるようにして、へんなもの、おかしなもの、ずれたもの、日ごろ行なわれづらいもの、といったような発想によるようにして行く。

 発想を転じるようにすることがいるけど、日本はそれをやることができていなくて、努力が行なわれていない。怠慢によっている。遠近法を変えて行くようにすることについての努力がなされていないのが日本であり、努力ができていないから、国の防衛がどんどん弱まっていっていて、それが強まる見こみはぜんぜんたっていない。発想を転じるようにしないかぎりは、国の防衛が弱いのが改まる見こみはたたない。

 参照文献 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『目のつけどころ(が悪ければ、論理力も地頭力も、何の役にも立ちません。)』山田真哉(しんや) 『逆説の法則』西成活裕(にしなりかつひろ) 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや) 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき)

軍事と、現実と、非現実―現実の玉虫色さと、テクストとしての現実

 軍事を強めて行くのは、現実主義(realism)なのだろうか。軍備の縮小を言って行くのは、お花畑であり、現実から離れたものなのだろうか。

 軍事を強めて、強兵にして行くのは、現実主義に根ざしたものであるとは必ずしも言えそうにない。軍備の拡張は、どういうことによっているのかといえば、現実主義によっているのであるよりも、疑似の環境や、思想の傾向(ideology)によっているものだ。

 日本が置かれている東アジアでは、北朝鮮がいっぱいミサイルをうっている。中国は軍事の力をどんどん強めていっている。それで日本の国に危険がおきていて、危険性が高まっていると言われている。

 日本に危険性が高まっていると言われているのは、あやしさがある。それを丸ごと頭からうのみにはしづらい。現実主義そのものであれば、現実にまさに日本の国に危険がせまっていて、危険性が高まっていることになるけど、そうではなくて、疑似の環境になっているのや、思想の傾向があることをくみ入れないとならない。

 すごいたくさんミサイルをうっているのが北朝鮮だけど、これは疑似の環境においてのものだ。ミサイルをいっぱいうっているのだとはいっても、それをじっさいにじかに目にした人はいないだろう。だれもミサイルを見た人はいないだろうし、それによって害や損を受けた人も(いまのところは)いない。

 疑似の環境では、現実から認識がおきるのではなくて、その逆に認識から現実がつくり出される。枠組み(framework)をとおして現実を見るのがあって、どういう枠組みを持っているのかによって、どういう現実の見なしかたになるのかが変わる。玉虫色なのが現実だから、枠組み(ものの見なし方の角度や視点)がちがうと、ちがう現実の見なし方になる。

 いくら北朝鮮がミサイルをたくさんうっているのだとはいっても、それが客観や本質によくないことだとはいえそうにない。だれもそれをじかに見た人がいないし、それによって害や損を受けている人はいないから、日本の国にとってそれが問題と言えるものなのかどうかは定かではない。問題ではない(問題の内因性がない)、と見なすこともなりたつ。構築主義(constructionism)から言えばそうできる。

 どんどん軍事の力を強めていっているのが中国だけど、さかのぼって見てみると、そもそもの話として、ずっといぜんから中国の軍事の力は強くて高かった。いまにはじまったことではなくて、いぜんから中国は国の力が強かったのがあり、日本がかなう国ではなかった。それを日本はまちがって、中国をみくびって、戦争をしかけて、中国に負けたのである。

 戦前の日中戦争のときは、日本は中国をみくびって、下に見て、中国をこらしめるといったことで戦争をやったけど、日本は勝つことができずに負けることになった。大国なのが中国だから、ずっと前から日本がかなう相手ではなかったのである。

 力と力でぶつかり合って、日本が中国にかなうのだと見なすことこそが、現実から離れたことだろう。お花畑に当たることだろう。戦前の日中戦争のときには、日本は現実から離れたお花畑の見なし方におちいって、中国をこらしめてやるといったことで戦争をやって、それで日本が中国に負けることになった。

 いくら日本の国をとり巻くまわりのありようが危なくなっているのだとはいっても、それは生(なま)の現実であるよりも、つくられた疑似の環境によるものだ。人為や人工の構築性があるものである。われわれの生が、疑似の環境の中に置かれているのがあるから、色々なものが意図して作り出されているのがある。

 日本の国がかたよった思想の傾向をもっていて、それによってよくない悪い国なんかを作り出していっている。日本の国にとってよくない悪い国を作り出すのは、それを対象化することだ。対象化とは、作ることであり、生産することだ。その対象化のあり方に気をつけるようにして行きたい。たとえば、北朝鮮や中国なんかを、悪い国だとして対象化しているのがあるけど、その対象化のあり方をうたがうことがなりたつ。

 アメリカはよい国で、北朝鮮や中国は悪い国なのだといった対象化のしかたを日本はやっているけど、それを改めるようにして、アメリカを警戒することがいるし、北朝鮮や中国をもっとよく(深く)知って行くことがいるものだろう。

 (たとえば、どこからどう見ても日本にとってよい国なのがアメリカだといったように)ほかの国のことをまちがって対象化してしまっていることが多いから、それを改めるようにして、軍事の力を強めるのではなくて、国どうしの交通をどんどん深めるようにして行くようにしたい。

 参照文献 『情報政治学講義』高瀬淳一 『構築主義とは何か』上野千鶴子編 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『歴史を繰り返すな』坂野潤治(ばんのじゅんじ) 山口二郎 『日本人はなぜ存在するか』與那覇潤(よなはじゅん) 『ブリッジマンの技術』鎌田浩毅(ひろき) 『超入門!現代文学理論講座』亀井秀雄 蓼沼(たでぬま)正美 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき)

消費税の減税(または廃止)や、給付金の支給と、それらについての議論のよし悪し―充実した質の高い議論こそがいる

 消費税を下げて行く。それをなくしてゼロにする。すべての日本の国民に、一〇万円を配って行く。一回だけではなくて、何回も配って行く。国民を助けることになるから、それがいるのだと言われている。反緊縮のものだ。

 反緊縮で言われていることは、すごくよいことだから、何が何でもやるべきなのだろうか。かならず現実化するべきことなのだろうか。

 反緊縮では、消費税を引き下げたり無くしたりするのや、国民にお金を配るのが言われているけど、そういった具体のことよりも、意思の疎通の交通のほうが大事だ。そう見なしてみたい。

 なぜ反緊縮の具体の政策よりも、意思の疎通の交通のほうがより重要なのかといえば、具体の政策を重んじてしまうと、成果の志向になってしまうからだ。成果を出すことが、いちばんに優先されてしまう。

 いっけんすると、成果の志向で、成果を出すことをいちばんに優先させるのは、よいことであるかのようだ。いっけんすると良いことのようだけど、そこにはわながあって、そのあり方は、安倍晋三元首相と同じあり方なのだ。

 安倍元首相のあり方は悪かったのがあるから、そこを重く見てみたい。成果の志向に強くよっていたのが安倍元首相であり、それによって、意思の疎通の交通がひどく軽んじられた。そこに大きな悪さがあったのがあり、理性の退廃(decadence)が強くおきていた。

 国民を助けるために、税金の負担を減らしたり、お金を配ったりするのは、それそのものが大事であるよりも、それについての議論こそが大事だ。議論がきちんとできていないと、まともな政策をやることはできづらい。議論の質と相関するのが、政策のよし悪しだ。

 だめな議論のやり方におちいってしまっているのであれば、いくら反緊縮の政策がよいのだとはいっても、ほんとうに国民に益になることはできづらい。ほんとうに国民に益になるようなよい政策をなして行くためには、成果の志向におちいらないようにすることがいる。

 成果の志向でやってしまうと、安倍元首相と同じわなにはまってしまうのがあるので、それを避けるようにしたい。安倍元首相と同じわなにはまるのを避けるためには、成果の志向によるのではなくて、意思の疎通を重んじて、了解の志向によるようにして行く。

 政策論においては、反緊縮が正しくて、緊縮はまちがっていて悪いのであるよりも、どういう議論がなされているかのほうがより大事だ。だめな議論におちいっているのであれば、反緊縮であろうとも、緊縮であろうとも、どちらであったとしても、よい質の議論ができていないのをしめす。それだと良い政策をなしづらい。

 どういう中身の政策かに重みを置いて、そこに力点を置いてしまうと、成果の志向におちいりやすい。そうするのを避けるようにして、どういう質の議論がなされているのかに力点を置くようにして、きちんとした議論をやるようにするべきだ。過程(process)にすごく労力をかけるようにして行く。

 緊縮と反緊縮との二つの立ち場のあいだで、しっかりとした意思の疎通の交通をやって行く。二つの立ち場のあいだで、どれだけ建設的な議論ができるのかがかぎになる。民主的で効果のある議論をやって行くことができるかどうかが求められる。頭から、この立ち場は正しいけど、この立ち場はまちがっていて悪いのだと決めつけてしまうと、建設的な議論ができづらい。そういうふうにやってしまうと、成果の志向におちいることになって、安倍元首相と同じわなにはまってしまう。

 参照文献 『思考のレッスン』丸谷才一 『議論のレッスン』福澤一吉(かずよし) 『ブリッジマンの技術』鎌田浩毅(ひろき) 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『民主制の欠点 仲良く論争しよう』内野正幸 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『「不利益分配」社会 個人と政治の新しい関係』高瀬淳一 『新版 ダメな議論』飯田泰之(いいだやすゆき)

政治家の個人の考えからおきる差別(の発言)と、(個人を超えた)日本の国からくる差別のしくみ―天皇制のたて並びのあり方の悪さ

 差別に当たることを言っていた政治家が、なぜ地位が上に上がって行ったのだろうか。なぜ、地位が上がり、上の役につくことになったのだろうか。

 与党の自由民主党では、女性や少数者などを差別することを言った政治家が、それなりに上の地位についている。地位が上がっていっているのである。

 差別に当たることを言うのが悪いことであるのなら、地位が上に上がって行くのはおかしいことだ。地位が下に下がって行くか、または政治家をやめさせられるのでないとならない。

 差別をしても、地位が上に上がって行く。地位が引き下げられるのではなくて、引き上げられて行く。なぜそうしたことがおきるのかといえば、その政治家の個人としての考えがおかしいだけではなくて、もっと広く、日本の国に、差別の性格が含まれているのをしめす。

 差別の性格をもつのが日本の国にはあって、たて並びのところがある。たて並びなのは、天皇制からくるものだ。上には男性の階層(class)が置かれて、下には女性の階層が置かれる。

 日本の国をよしとすることで、そこから差別をしてしまうことになる。天皇制からくる差別のあり方を日本はもっているから、差別をなすことがきわめておきやすいのが日本にはある。

 自民党は、日本を代表する政党であり、日本の国のあり方を色濃くもっている。その自民党の中で、差別のことを言った政治家が、上の地位に引き上げられるのは、つじつまが合う。あくまでも自民党の党の中においてはけっしておかしいこととはいえそうにない。

 何を批判するべきなのかといえば、差別のことを言った自民党の政治家の個人を批判するだけではなくて、そこからさらに、日本の国もまた批判するようにしてみたい。

 差別のことを言った自民党の政治家の個人を批判するだけでも、十分によいことであり、するべきことをやっているのがあるけど、それにくわえて、日本の国もまた批判をするようにしてみたい。

 天皇制からおきてしまうことになるのが差別であって、そこを批判してみたい。天皇制では、男性を優の階層にして女性を劣の階層にするのがあるし、標準の多数派の日本人を優の階層にして少数派の辺境者や周縁者を劣の階層にするのがある。

 たて並びをまねくのが天皇制にはあるから、そのたて並びのあり方を改めるようにして行きたい。階層のあり方を変えるようにして、脱構築(deconstruction)をして行く。劣に置かれてしまっている女性や少数派(辺境者、周縁者)を優にするようにして、階層の格差があるのを改めていって、個人としてみんなが平等にあつかわれるようにしたい。

 どういう性であっても、どういう出自であろうとも、個人としてみんなが平等にあつかわれるのがいることが、いまの日本の憲法では言われている。これは日本の天皇性の差別のあり方とはちがうものであり、日本の天皇制からくる差別のあり方を批判するようにして、憲法で言われていることをよしとするようにしたい。

 天皇制から差別がおきてしまうのは、それが特殊なあり方だからだ。差別がおきないようにするためには、憲法の普遍(ふへん)のあり方をとるようにすることがいる。近代の立憲主義憲法であれば、普遍のあり方がのぞめる。

 特殊をよしとすることがおきやすいのが日本にはあるので、差別がおきやすい。普遍となる道徳や倫理を(自分たちの力では)作れないのが日本だ。それを作れずにいまにいたっていて、これからもそれを作れる見こみはほとんどない。特殊さによりやすいのが日本にはあるのが、自民党の政治家にはよく見てとれる。憲法をしっかりと重んじるようにすれば、普遍によることができるから、差別を防ぎやすい。

 参照文献 『憲法という希望』木村草太(そうた) 『差別と日本人』辛淑玉(しんすご) 野中広務(ひろむ) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『異質との共存 戦後日本の教育・思想・民族論』尹健次(ゆんこぉんちゃ) 『脱構築 思考のフロンティア』守中高明 『社会階層 豊かさの中の不平等』原純輔(じゅんすけ) 盛山(せいやま)和夫 『武器としての〈言葉政治〉 不利益分配時代の政治手法』高瀬淳一 『近代天皇論 「神聖」か、「象徴」か』片山杜秀(もりひで) 島薗(しまぞの)進 『縦並び社会 貧富はこうして作られる』毎日新聞社会部

日本の国の防衛の、質と量の正しさ―質の正しさだけが言われている

 ほかの国の基地を攻撃できる力をもつ。日本はその力を持とうとしているけど、それはいることなのだろうか。

 防衛の専門家が、日本の専守防衛のよさを語っていた。いたずらにほかの国を攻撃するつもり(意図)はないことを示す良さがあるという。日本が、やたらにほかの国を攻撃する意図がないことを示せるのである。

 どんどん軍事を強めていって、強兵にして行く。日本はそれをやろうとしているけど、軍事にどんどん税金をつぎこんで行く前に、修辞学でいわれる量と質の二つをしっかりとふまえるようにしたい。

 量と質のあり方(topos)があって、量は多数や持続や大きいものや一般性や保守や慣習(他律)や守旧だ。質は高級や希少や例外や独創や少数派や革新や進歩や新しいことだ。

 政治の政策で、日本は量と質の二つを共にふまえないことが多い。防衛でも、それがおきている。防衛では、量をとらず、質だけをとって、どんどん軍事を強めようとしている。

 何かを政治においてやろうとするさいに、日本では、量と質の二つがあるうちで、質だけをとることがされがちだ。質だけをとるのだと、とにかくこれまでのあり方を変えることが正しいのだとなる。

 質だけをとるあり方は、たとえば憲法だったら、とにかく憲法を改正することだけが正しいのだとするものだ。これまでのあり方を変えることが、すなわち正しいことだとされてしまう。

 量と質の二つの正しさがあるから、その二つを共に見るようにしたい。その二つを共に見るようにすれば、単眼ではなくて複眼にすることがなりたつ。

 これまでのあり方を変えさえすれば、それで正しいことになり、より良いあり方になって行く。そのあり方は、質によるものだ。そこでは量がとり落とされてしまっている。

 質のあり方だと、とにかくこれまでのあり方を変えようとするから、それがさも正しいことであるかのようになる。さも良いことであるかのようになる。そこにまったをかけるようにしたい。量のあり方をもち出すようにして、現状の維持のよさを見てみる。

 これまでのあり方である、現状を維持したほうが、よくはたらく。そうしたことは少なくないものだろう。何でもかんでも、とにかくこれまでのあり方を変えさえすればそれで良くなるのであれば、質によるあり方だけでよいけど、そうではないのが現実だ。

 これまでのあり方を変えずに、現状を維持するのは、量のあり方だけど、それもまた一つの立ち場になる。質によるだけだと、量のあり方を頭から全否定することになってしまう。量の立ち場もきちんと認めるようにしたほうが、それがもつ良さをとり落としづらい。

 防衛における量のあり方は、いまの日本の憲法をしっかりと守って行く。憲法で許される、必要の最小の限度の実力(軍事力)しか持たないようにする。歯止めや抑制を強くかけて行く。専守防衛にてっするようにして行く。日本の国にいる日本人(すべての日本の国内の人々)の、平和の生存権をしっかりと守るようにして行く。

 けっしてほかの国とは戦い合わないようにする、不戦や非戦のちかいを、いまいちど思いおこしたい。憲法の主義である、平和主義や基本的人権尊重主義や国民主権主義をしっかりと重んじるようにしていって、質と量の二つを共にきちんとふまえるようにすることがいる。

 参照文献 『発想のための論理思考術』野内良三(のうちりょうぞう) 『精神論ぬきの保守主義仲正昌樹(なかまさまさき) 『論理が伝わる 世界標準の「議論の技術」 Win-Win へと導く五つの技法』倉島保美 『憲法という希望』木村草太(そうた) 『知的複眼思考法 誰でも持っている創造力のスイッチ』苅谷剛彦(かりやたけひこ)

防衛と、福祉―国の防衛は、(国体を守るものであって)国民を守るものではないから、国民の福祉にはならない

 防衛は、最大の福祉だ。そう言われているのがあった。

 防衛にどんどん税金をかけて行くのは、最大の福祉になるのだろうか。

 防衛が福祉になるのかどうかについては、目的と手段の組みに分けて見てみるようにしたい。目的では、理科系による目的優先法によるようにしてみたい。

 とりあえず防衛についてはさしあたって置いておくとして、福祉だけを見てみると、いまの時代は福祉がなりたちづらい。

 まがりなりにも福祉がなりたっていたのは、まだ世界主義(globalization)がいまほどには進んでいなかったときだ。世界主義がそこまで進んでいなかったときは、一国での福祉がいちおうはできていた。それが可能だった。

 いまでは世界主義がそうとうに進んでいるから、一国での福祉がそもそも不可能になっている。不可能だと言えるくらいになってしまっている。新自由主義(neoliberalism)で、資本主義によって世界が一元化されているのがあるから、それによって国の福祉がなりたちづらくなっているのもある。

 防衛を抜きにして、福祉だけを見てみると、それが成り立ちづらくなっているから、防衛にいくら税金をかけたところで、福祉が豊かになることはおきないものだろう。福祉が貧弱化しているのは改まるものではない。

 なにを目的とするのかがはっきりとしていないところがあるのが、防衛に力を入れて行くことにはある。防衛を強めることが、自己目的化してしまっている。

 理科系の目的優先法によってみると、かりに福祉をより豊かにするのを目的にするのであれば、その手段として防衛に税金をかけるのは的はずれだ。とんちんかんなものだ。有効性がある、適した手段をとるのでなければならない。

 目的として防衛を強めたいのであれば、その手段として軍事に税金をたくさんかけて行くのは、適したものだとは必ずしも言えない。手段としての目的合理性があるとは見なせないところがある。

 国の守りを強めるのを目的にするのだとしても、その足かせとなるようなぜい弱性(vulnerability)や弱みを日本はたくさんかかえている。ぜい弱性や弱みがたくさん日本にはあるのだから、それを放ったらかしにしたままで国の守りを強めようとしてもあまり意味はない。たんに防衛の幻想のようなものにおちいるだけに終わってしまう。

 日本のぜい弱性や弱みとしては、何十個もの原子力発電所があり、そこを相手にねらわれたら日本の国土がぶち壊される。国民に害が多くおきることになる。

 色々なものを外に依存しているのが日本だから、外に依存しているものを断たれたら、日本は国を保てない。石油なんかを手に入れられなくなる。外から色々なものを手に入れないとやって行けないのが日本だから、そこに大きな穴がある。

 自然の災害が多いのが日本であり、ほかの国が日本に攻撃をしかけなくても、大きな地震や火山の大噴火なんかがおきたら日本は国がほろびかねない。地震国であることから、大きな自然の災害がいつおきてもおかしくないのが日本であり、いつ国がほろんでもおかしくはない。

 かりに防衛を強めるのを目的にするのにしても、軍事に税金をどんどんかけることが手段として適しているのだとはいえそうにない。むしろ軍事にかける税金をどんどん少なくしていったほうが、目的にかなう。軍事に税金をかけずに、できるだけお金をかけないですむ手段をとって行く。

 日本の防衛のためには、ほかの国との外交に力を入れて行く。自と他で、国どうしの人の交通をものすごく活発化させて行く。世界じゅうに、日本人にとっての友だちをいっぱいつくって行く。そういったことをやるようにすれば、防衛の目的の理にかなう手段になるのではないだろうか。

 どういった外交をやって行くのかの、価値観のところを、すごく力を入れてさぐって行く。どういう価値観によって外交をやって行くのかを、しっかりとさぐって行って、それによって外交をやって行く。それがいるけど、それができていないのが日本だろう。日本は外交で何の価値観も持っていない。中身がなくて、中身がすかすかで、(人でいえば)頭が空っぽな国なのが日本だ。そんなふうでいて、防衛を強めて、軍事に税金をどんどんかけても、意味があるとはいえそうにない。

 参照文献 『十三歳からの日本外交 それって、関係あるの!?』孫崎享(まごさきうける) 『グローバリゼーションとは何か 液状化する世界を読み解く』伊豫谷登士翁(いよたにとしお) 『ラクして成果が上がる理系的仕事術』鎌田浩毅(ひろき) 『時代の抵抗者たち』青木理(おさむ) 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『国体論 菊と星条旗白井聡(さとし)

 

ロシアとウクライナの戦争の、継続と停止―継続するべきか、停止するべきか

 ロシアとウクライナの戦争が、つづいている。これを止めるにはどうしたらよいのだろうか。

 戦争がつづいているのは、西洋の弁証法(dialectic)で、正と反とがぶつかり合っていることだ。

 戦争を止めるのは、正と反を合に止揚(aufheben)して行く。

 いまはまだ、戦争が止まらず、つづいている。それの意味するところは、正と反のぶつかり合いが、合にいたっていないのをしめす。止揚されていない。

 戦争がつづいているのを止めるのは、紛争がおきているのを処理するのになぞらえられそうだ。

 紛争の処理では、とにかくいまおきている互いの戦闘を止めることをやって行く。互いの戦闘がつづいたままだと、正と反とがぶつかり合ったままになるから、合の止揚にいたれない。

 たとえ互いの戦闘を止めさせて、合の止揚にいたらせるのだとしても、それによって正義がなされることにはならない。不正が残ったままになってしまう。その欠点はあるけど、その欠点をくみ入れたうえで、そのうえで紛争を処理して行く。戦闘を止めるようにする。

 理科系による棚上げ法では、さしあたってものごとを棚上げにしてしまう。さしあたって棚上げにするのは、合の止揚にもって行くことだ。

 ロシアとウクライナの戦争では、たとえ戦争を止めたところで、それによって合の止揚にはいちおうはいたれるけど、正義はなされない。正義がなされない欠点はあって、不正はのこりつづけてしまう。戦争を止めても、不正は残りつづけてしまい、ロシアがウクライナに攻めこんだことの不正は片づかない。

 逆からいえば、不正を片づけないで、それを残すような形でしか、戦争を止めることはできづらいかもしれない。戦争を止めて、合の止揚にもって行くのは、弁証法の悪さが出てしまうところがあり、弁証法による全体化になってしまう。肯定の弁証法によることになってしまう。

 弁証法の悪さがあるから、それをくみ入れることはいるけど、そのうえで、合の止揚にもっていって、戦争を止めるようにしたほうがよい。正と反がぶつかり合っていて、戦争がつづいたままだと、それそのものが不幸をもたらす。

 棚上げにしてしまい、戦争を止めるようにして、そのうえで、肯定の弁証法だけに終わるのではなくて、否定の弁証法をとることもやって行く。否定の弁証法では、正と反をそうかんたんに合にもって行くのではなくて、正と反とがおり合わないのをそのままひきつづけて行く。

 肯定の弁証法で、合の止揚にもって行き、戦争を止めるようにしつつ、なおかつそれだけに終わらせずに、否定の弁証法にもよって行く。正と反とがおり合わずに、それらがぶつかり合っているのは、そこに政治があることをしめす。対立があるのは、政治があることだから、ロシアとウクライナとのあいだで、戦争は止めるようにしながらも、ロシアとウクライナのあいだで対立つまり政治はやって行く。

 二つの国が、協調しながらも、対立つまり政治をやって行くようにできればよい。対立するだけだと、正と反とがぶつかり合ってしまい、戦争になりかねない。協調と対立の二つがあったほうがよくて、対立を戦争にまで激化させずに、国どうしでうまいぐあいに闘技の民主主義のようにできればのぞましい。

 学者のカール・シュミット氏によると、いろいろな対立の中で、政治のものがいちばん激しくなりやすい。激しくなりすぎると、敵を作ることになり、友敵の関係(antagonism)になる。非民主主義になる。そこまで行かずに、その手前でとどまって、闘技の対抗(agonism)や闘技(agon)にできれば、民主主義による対話がなりたつ。非民主主義だと戦争になってしまいかねないが、民主主義なら対立があっても戦争を避けられる。

 参照文献 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『ラクして成果が上がる理系的仕事術』鎌田浩毅(ひろき) 『職業は武装解除』瀬谷(せや)ルミ子 『暴力 思考のフロンティア』上野成利(なりとし)

軍事を強めるのと、速さと遅さ―遅くして、抑制をかけることの必要性

 日本は、強兵をどんどんおし進めようとしている。それを速度の点から見てみるとどう見なせるだろうか。

 速度の点からすると、軍事に税金をたくさんかけて行くのは、速い速度の加速度だ。帝国主義のあり方だ。

 軍備の拡張は加速度によるものだけど、軍備の縮小を求める反軍事は遅速度だ。速度を遅くさせようとするのが反軍事だ。

 政策においては、軍事を強める政策はすんなりと通りやすい。すぐに現実化してしまいやすい。加速度によるのが軍事だから、それを強めるのは政治においては行なわれてしまいやすいものだ。

 強兵によって、軍備を拡張して行くのは、そうした思想の傾向(ideology)によるものだ。強兵の思想の傾向には、いろいろな穴が空いている。いくつもの穴が空いているが、その穴が見えないようにフタのおおい(cover)がしてある。

 反軍事で、軍備の縮小をうったえて行くのは、フタのおおいを引きはがして行くことだ。それで空いている穴を見えるようにして行く。

 反軍事の軍縮の平和の立ち場もまた、思想の傾向に当たるものではあるけど、速度を遅らせる遅速度によるものであり、立ち止まらせたりまったをかけたりするものだ。抑制をかけて行く。

 抑制をかけることが行なわれていなくて、それが足りていないのがいまの日本だろう。どんどん軍事を強めて行こうとするのは、受け入れられやすい。それとはちがって、反軍事で抑制をかけて行くのは、とり上げられづらい。抑制をかけることの重要さがとり落とされがちだ。

 反軍事つまり抑制をかけるのは遅速度に当たるものであり、それこそが重要なものだけど、それがなされないことが多いのがある。重要なことが行なわれずに、それが欠けてしまう。戦前の日本は、抑制と均衡(checks and balances)がかからなくて、戦争に向かっていって、敗戦した。

 いまの日本では自由主義(liberalism)がこわれてしまっているから、抑制と均衡がかかっていない。加速度によってどんどんつき進んで行こうとしている。戦前に、敗戦にいたったのと同じように、加速度によって進んでいっているのがあるから、そこでいることになるのは抑制をかけることだろう。遅速度によるのがいるのがあって、それによってフタのおおいをどんどん引きはがして行く。フタを引きはがして、いろいろな穴を見えるようにして行く。

 国の中にいろいろな穴が空いていて多孔化しているのを見えるようにして行き、軍事を強めて行くことに何とかして歯止めをかけて行きたい。いまは世界主義(globalization)が進んでいるから、国が多孔化していて、国を守ることがそもそもなりたちづらくなっていて、軍事で国を守ろうとしても無意味になってきている。国が多孔化や液状化しているのを、隠ぺいしないようにしたい。

 参照文献 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『思考のレッスン』丸谷才一 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『構築主義とは何か』上野千鶴子編 『グローバリゼーションとは何か 液状化する世界を読み解く』伊豫谷登士翁(いよたにとしお) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫