カルト(cult)の宗教にだまされた人を救うことの是非―救わないで、その人の自己責任でやって行くべきなのか

 たとえ悪い宗教にその人がだまされても、自己責任で何とかするべきなのだろうか。

 よくない宗教を信じる家にたまたま生まれた子どもは、自己責任で自力でなんとか生きて行くべきなのだろうか。

 親ガチャといわれているように、親の範ちゅう(集合)には、いろいろな価値がある。範ちゅうと価値を分けてみるとそう見なせる。たとえば、国の範ちゅうには、よい国もあれば悪い国もある。

 よくない宗教を信じる親もいるけど、そうした親から生まれた子どもは、自己責任でなんとかやって行くべきだとテレビ番組では言われていた。

 悪いカルト(cult)の宗教にだまされた人や、そうした宗教を信じる親から生まれた子ども(宗教二世)を救うための法律が作られるけど、法律の作りがとても甘いことが言われている。悪いカルトの宗教のほうをかえって救う(かばう)ような法律になっているのだとされる。

 どういうふうにしたら、悪い宗教にだまされてしまった人を救うことになるのかといえば、自己責任をもち出すのはのぞましくない。自己責任をもち出してしまうと、これまでの日本の社会の価値観が変わらないからだ。

 これまでの日本の社会の価値観をそのままにしてしまうのが、慣習の他律のあり方だ。自己責任をもち出してしまうと、慣習の他律のあり方になってしまう。悪い宗教にだまされた人が救われづらい。救われずに、そのままに放ったらかされてしまう。

 慣習の他律で、自己責任をもち出すのではなくて、反省の自律によるようにして行く。反省の自律によるようにして、日本にはびこるいろいろな悪い宗教を問題視して行く。政治と宗教とのゆ着を問題化して行く。宗教の一般のあり方を見直すようにして行く。

 日本の社会の中には、悪い宗教にだまされた人をふくめて、いろいろなことで困っていたり苦しんでいたりする人たちがいるものだろう。そうした困ったり苦しんだりしている人たちをすくうためには、自己責任をもち出すと、救うことになりづらい。慣習の他律になってしまう。

 反省の自律によるようにして、色々なことで困ったり苦しんだりしている人たちを救うようにして行きたい。自己責任をもち出して、これまでの日本の社会の価値観をそのままに温存して行くのではなくて、日本の社会の価値観をどんどん変えるようにして行く。

 社会の価値観は、自然なものではなくて、人為や人工の構築性があるから、それを変えて行くことができるものだろう。差別や偏見が日本の社会には色々とあるから、それらを改めて行く。劣の階層(class)に置かれている人たちが、生きて行きやすいように改めて行くことがいる。

 よりよい価値観になるようにしていって、等生化や等性化や平等化(equalization)や標準化(normalization)などになるようにして行くことが、弱者や被害者などを救うことにつながる。標準化とは、個人を標準に適合させることではなくて、社会のほうをよりよく変えて行くことだ。社会のあり方を問題化して行くことなのである。

 法律を作って、悪い宗教にだまされた人を救うようにするのは、とても大事なことであり、それにくわえて、これまでの日本の社会の価値観を変えるようにして行く。社会の価値観を変えるようにしないと、困ったり苦しんだりしている人たちを救うことができづらいから、それをやって行くことが肝心だ。

 参照文献 『事例でみる 生活困窮者』一般社団法人社会的包摂サポートセンター編 『社会的排除 参加の欠如・不確かな帰属』岩田正美 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『「責任」はだれにあるのか』小浜逸郎(こはまいつお) 『倫理学を学ぶ人のために』宇都宮芳明(よしあき)、熊野純彦(くまのすみひこ)編 『構築主義とは何か』上野千鶴子