ロシアとウクライナの戦争の、継続と停止―継続するべきか、停止するべきか

 ロシアとウクライナの戦争が、つづいている。これを止めるにはどうしたらよいのだろうか。

 戦争がつづいているのは、西洋の弁証法(dialectic)で、正と反とがぶつかり合っていることだ。

 戦争を止めるのは、正と反を合に止揚(aufheben)して行く。

 いまはまだ、戦争が止まらず、つづいている。それの意味するところは、正と反のぶつかり合いが、合にいたっていないのをしめす。止揚されていない。

 戦争がつづいているのを止めるのは、紛争がおきているのを処理するのになぞらえられそうだ。

 紛争の処理では、とにかくいまおきている互いの戦闘を止めることをやって行く。互いの戦闘がつづいたままだと、正と反とがぶつかり合ったままになるから、合の止揚にいたれない。

 たとえ互いの戦闘を止めさせて、合の止揚にいたらせるのだとしても、それによって正義がなされることにはならない。不正が残ったままになってしまう。その欠点はあるけど、その欠点をくみ入れたうえで、そのうえで紛争を処理して行く。戦闘を止めるようにする。

 理科系による棚上げ法では、さしあたってものごとを棚上げにしてしまう。さしあたって棚上げにするのは、合の止揚にもって行くことだ。

 ロシアとウクライナの戦争では、たとえ戦争を止めたところで、それによって合の止揚にはいちおうはいたれるけど、正義はなされない。正義がなされない欠点はあって、不正はのこりつづけてしまう。戦争を止めても、不正は残りつづけてしまい、ロシアがウクライナに攻めこんだことの不正は片づかない。

 逆からいえば、不正を片づけないで、それを残すような形でしか、戦争を止めることはできづらいかもしれない。戦争を止めて、合の止揚にもって行くのは、弁証法の悪さが出てしまうところがあり、弁証法による全体化になってしまう。肯定の弁証法によることになってしまう。

 弁証法の悪さがあるから、それをくみ入れることはいるけど、そのうえで、合の止揚にもっていって、戦争を止めるようにしたほうがよい。正と反がぶつかり合っていて、戦争がつづいたままだと、それそのものが不幸をもたらす。

 棚上げにしてしまい、戦争を止めるようにして、そのうえで、肯定の弁証法だけに終わるのではなくて、否定の弁証法をとることもやって行く。否定の弁証法では、正と反をそうかんたんに合にもって行くのではなくて、正と反とがおり合わないのをそのままひきつづけて行く。

 肯定の弁証法で、合の止揚にもって行き、戦争を止めるようにしつつ、なおかつそれだけに終わらせずに、否定の弁証法にもよって行く。正と反とがおり合わずに、それらがぶつかり合っているのは、そこに政治があることをしめす。対立があるのは、政治があることだから、ロシアとウクライナとのあいだで、戦争は止めるようにしながらも、ロシアとウクライナのあいだで対立つまり政治はやって行く。

 二つの国が、協調しながらも、対立つまり政治をやって行くようにできればよい。対立するだけだと、正と反とがぶつかり合ってしまい、戦争になりかねない。協調と対立の二つがあったほうがよくて、対立を戦争にまで激化させずに、国どうしでうまいぐあいに闘技の民主主義のようにできればのぞましい。

 学者のカール・シュミット氏によると、いろいろな対立の中で、政治のものがいちばん激しくなりやすい。激しくなりすぎると、敵を作ることになり、友敵の関係(antagonism)になる。非民主主義になる。そこまで行かずに、その手前でとどまって、闘技の対抗(agonism)や闘技(agon)にできれば、民主主義による対話がなりたつ。非民主主義だと戦争になってしまいかねないが、民主主義なら対立があっても戦争を避けられる。

 参照文献 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『ラクして成果が上がる理系的仕事術』鎌田浩毅(ひろき) 『職業は武装解除』瀬谷(せや)ルミ子 『暴力 思考のフロンティア』上野成利(なりとし)