そこまで自明性をもっていないのがいまの米国だろう。
あたり前のものとして米国の語をつかう。自明性をもつものとして米国の語を使わないようにしてみたらどうか。異化してみると何が見えてくるのか。
国どうしのあいだに引かれる線がある。線を太く引こうとするのが国家主義(nationalism)だ。いまの米国のドナルド・トランプ大統領は国家主義のあり方なのだから国どうしのあいだに太い線を引こうとしている。
自明性の厚い殻(から)にひびを入れることを試みてみる。殻が厚みをもっているのがあるけど、それにひびを入れるようにしてみると、米国であれば、米国そのものはなり立ちづらい。
トランプ米大統領であれば、米国そのものをとらえているのではなくて、あくまでもトランプ大統領がとらえたところのものとしての米国でしかない。
主体なのがトランプ大統領だ。主体とは行動者のことをさす。その相手なのが客体だ。主体と客体とのあいだにきびしい線が引かれているのであれば、米国であれば、米国そのものがなり立つ。客観の米国だ。
主体と客体とのあいだに引かれる線をよわめる。あいだに引かれた線を弱めてみると、じゅんすいな客体はなり立ちづらい。あくまでも行動者である主体がとらえたところのものでしかなくなる。トランプ大統領であれば、トランプ大統領がそうであると見なしているものにしかすぎず、それそのものなのとはちがう。
世界の中にあるのが米国だけど、それとともに、世界でもあるのが米国だろう。世界でもあるものとして米国をとらえるのは、国どうしのあいだの線を弱めたさいのものだ。線が恣意(しい)で引かれているのだとするものである。気ままに線が引かれている。
国の内と外のあいだに、しっかりとした線を引きづらい。内と外をはっきりと分けることができづらくなっている。日本でいえば、国が自立しているのではない。国が独立していない。日本は米国を抜きにしてはなり立たないところをもつ。戦後の日本のあり方だ。日米の談合のあり方である。
世界社会論によってみる。いまは行きすぎた世界化(globalization)が言われているけど、国どうしの複合の相互の依存がおきている。世界化によって世界がつながり合う。世界社会としてみてみるとそれぞれの国はそこまで独立していない。国の内と外とのあいだにはっきりと線が引かれていないあり方だ。
国の内と外とのあいだにしっかりとした線を引こうとすることそのものが、主体によってなされる線引きだ。行動者なのが主体なのだから線を引くことはできるけど、そこには主体と客体とのあいだの線があって、その線が弱まる。主体と客体とのあいだの線が弱まっていて、主体から切れたものとして客体があるのとはちがう。主体あっての客体なのである。
主体あっての客体なのだからそこには両義性がある。行動者である主体が認識したところのものとしての客体でしかなくて、主観にとどまる。じゅんすいな客観とはちがう。トランプ大統領だったら、トランプ大統領がもつ主観によっているのだから、主体から切れた客体そのものとはなっていない。
世界に線を引くことで国がなり立つ。国どうしのあいだに引かれた線は自然なものとはちがう。人為や人工で引いた線である。構築されたものである。線を引くのが行きすぎている。
行きすぎた線引きがあるけど、それを弱めてみる。線を引くことによって国の内と外ができあがるが、線の引きすぎを弱めてみると、はっきりとは内と外を分けられなくなる。そうすると、米国だったら、それのもつ自明性が失われる。自明性の厚いからにひびがおきる。ひび割れがおきる。
ひびが入っていないかのようでいて、ひびが入りまくっているのが米国だろう。ひびがたくさん入っていてこその米国だ。ふつうに米国の語をなにげなく使うのだったら、そこには一切ひびが入っていないかのようになってしまうけど、そこをよくよく改めてしっかりと見てみると、いっぱいひびが入りまくっている。国がもつ自明性が失われている。国のあいだに引かれた線がしい性をもつ。
線引きのしい性は、二〇世紀の社会科学で見いだされたものである。社会科学の知識である。国どうしのあいだにはっきりとした線を引きづらい。主体と客体のあいだにしっかりとした線を引くことができず、両義性をもつ。
ふつうは米国といったらそれがあたかもじっさいに確かにあるかのようだけど、国は大きさがすごく大きいものなのだから手でさわれるものとはちがう。手でつかむことはできないから、心の中の像(image)を外に表現したものだ。表象である。
みんなで幻想をもち合う。共同の幻想なのが国である。共同の幻想としてしかないものなのが国だろう。共同幻想論は評論家の吉本隆明氏による。数量でいえば三人より以上の領域のものなのが共同の幻想だ。三人より以上の集団でもち合う表象である。
何があるのかといえば法律である。国はないものだけど法はある。米国だったら米国の法はあるといえるけど、国は言説の中にしかないものだ。言説の中だけではなくてじっさいに国があるのだとするのは非科学であり未開の擬人(ぎじん)化の思考である。修辞(rhetoric)として擬人化することによって、ないものがあるものだとされることになる。
二〇世紀の社会科学の知識をおさえてみると、国の内と外とのあいだの線はきっちりとは引きづらい。線のあいだに欠けがないような実線ではなくて、線のところどころに欠けがあり切れている破線(はせん)である。国どうしのあいだの線は引かれてはいるものだけど切れ目がいくつも入っている。
国に視点をおいてみると、世界化が行きすぎているかのようにとらえられる。国家主義によるとらえ方だ。視点のおきどころを変えてみて、世界社会に視点をおいてみると、世界社会はあるといえるけど国はないのだとできる。国はないものなのだから、ゆきすぎているのは世界化であるよりも線引きである。国どうしのあいだに太い線を引きすぎている。線引きの自然化が行きすぎている。
日本の国の土地はすべてが日本のものではない。日本の土地であっても米国に支配されているところがいくつもある。日本の土地はいったい誰のものなのかと問いかけてみると、すべてがすべて日本のものなのではなくて米国のものであるところがいくつかある。日本は敗戦した国なのだから、戦勝した米国に土地の一部を支配されている。とくに沖縄県は米国の軍事の基地が日本の中でいちばん集中して置かれている地域だ。
日本の土地の一部を支配しているところのものである米国とはいったい何かといえば、それは世界社会でもある。米国は世界社会であるところがあるから、日本の国はあるようでいてないのだとできる。日本は世界社会との一体化に前向きだ。一体化をあまりこばんでいない。日本とほかの国とのあいだに引かれている線は実線ではなくて破線である。
多義またはあいまいさをもつのが米国だ。世界社会のところをもっていて、移民の国である。いろいろな民族の人たちがいる。米国だけではなくて日本もまた単一の民族によっているのとはちがう。戦前の日本でも、日本は単一の民族の国なのではないとされていたからそれを思いおこしたい。
戦前の日本でも、日本は多くの民族からなっているのだとされていたという。戦前の日本は自国のことを帝国と言っていたのがあり、日本人は上の階層(class)でそれ以外の東洋の民族の人たちは下の階層におかれていた。
修辞学では、多義またはあいまいさによる虚偽がある。たしかな自明性をもっているのかどうかを確かめてみると、米国はそれがなんであるのかの自明性をそこまで持っていなくて、それが失われている。米国に従属している日本もまた、多義またはあいまいさによっている。西洋になりきれず、東洋にもなりきれないのが日本である。二重性をもつ。
非科学なのが擬人化の思考だ。擬人化や自然化が行きすぎると、本質主義や客観主義におちいってしまう。本質が存在に先だつのだとするのが本質主義である。本質のところには国を当てはめることがなり立つ。米国であれば、米国は存在に先だつ。それぞれの個人よりも米国が先だってしまい、国の権力に従わせられる。
実存主義によってみると、本質主義をさけられる。実存は本質に先だつのだとできる。本質のところには国を当てはめられるから、米国だったら、実存は米国よりも先だつ。実存は個人のことをさすのだとできるから、国の権力をぜったい化するのを防げる。個人の尊厳をおもんじてゆく。
客観主義だと客観に国があるかのようにできるけど、共同の幻想にとどまるものである。行動者である主体がとらえるところのものとしてしか国はない。トランプ大統領だったら、トランプ大統領がとらえるところのものとしての米国だ。
トランプ大統領が自分で表象するところのものとしての米国はかなりいいかげんなものだろう。ほかの国であっても、へいきで武力を使って攻撃する。日本の土地の一部を支配していて、その特権をいっこうに手放そうとはしていない。日本の土地の一部を支配する権利をとうぜんのごとくにもっているかのように見なしている。
客観はなり立ちづらいのがあるから、国の内と外のあいだに太い線を引かないようにして、国の外のものであってもできるだけ排除せずに包摂してゆく。国の外にある国際の機関を排除しないで包摂していったほうがまっとうだ。
擬人化や自然化をしてしまうと、ちゃんとした国際の機関を排除してしまいがちだ。国の中がすごく汚れているのだとすると、その汚れをすこしでもきれいにするために益になるのがちゃんとした国際の機関だ。国の中の汚れのそうじの役をはたすのだから、そうじする機関だともできる。
そうじすることがないと、国の中にどんどん汚れがたまりつづけてゆく。米国の中にはそうとうに汚れがたまっているからそうじをしないとならない。トランプ大統領は米国の中心にいるのだから汚れのため役だ。そうじの役とはちがう。擬人化や自然化をすることで、本質主義や客観主義になるところがあり、どんどん国の中に汚れがたまってゆく。
世界社会はあるけど国はないのをくみ入れてみると、国の外にあるものを排除しないほうがよいことになる。国の外にあるものでも包摂するようにしたほうが、国の中にある汚れをそうじすることに役に立つ。国の外にあるものであっても、それはいわば国の内にあるものともできるから、国際の機関だったら、国内の機関だともできる。
国際の機関は、国内の機関でもあり、国がためている汚れのそうじをになうことがある。ちゃんとした機関を排除してしまうと、そうじの機会がうばわれることになり、よくない秩序のあり方がつづく。よくない秩序のあり方がつづくと、どこかの時点で大そうじをやらないとならなくなる。大ごとである。
大そうじになると大変なことになるから、日ごろからのこまめなそうじが大事である。そのためにあるのが民主主義だ。このさいの民主主義とは、ちゃんと行なわれている、形骸(けいがい)化していない民主主義のことである。
いまの日本は戦後の民主主義がかなり形骸化している。日本の民主主義はぜんぶが戦後の民主主義だ。いったん民主化されて、戦後の民主主義がなり立ったとしても、それがなり立ったとたんに形骸化がはじまってしまう。戦後であるよりも、(新しい)戦前であるかのようになっているのがいまの日本だろう。いまいちど戦後の日本の原点にたち返り、普遍(ふへん)を見直すようにしたい。
よほどちゃんとした民主主義ができていないとどんどん国の中に汚れがたまってゆく。専制主義や権威主義であればなおさら汚さがたまり、国の外に吐き出されない。こまめなそうじのためには、国の内と外のあいだに太い線を引きすぎないほうがよい。どちらかといえば外に近い辺境のところにいるのがそうじの役だ。
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