日本の国の借金は、だれの(だれが返さなければならない)借金なのか―国または国民の借金と、交通論

 日本の借金は、日本人(国民)の借金ではない。だけど、国債の利子の支払いや償還(しょうかん)は、税金を使うことがいる。岸田首相はそう言っていた。

 政府の借金なのであり、日本人の借金ではないと、自由民主党岸田文雄首相は言うが、それは当たっているのだろうか。

 日本の国民の借金ではないのであれば、国債の利払いや償還を、税金でやるのはおかしい。れいわ新選組の政治家はそう言っていた。ほかの人(他人)の借金の利払いや償還を、なんで日本人がやらないとならないのか。国債の利払いや償還を、日本人の税金でやることはいらないのだと言う。

 たしかに、れいわ新選組の政治家が言うように、もしも日本の国の借金が、政府の借金であり、日本人の借金ではないのであれば、利払いや償還を日本人の税金でやるのはおかしいことだろう。りくつに合わないことである。

 日本の国の借金を、交通の点から見てみたい。交通の点からすると、日本の国の借金が、つまり日本人の借金なのであれば、双方向の双交通だ。国の借金、つまり国民の借金だ。

 政府の借金ではあるけど、日本人(国民)の借金ではないのであれば、国と国民とのあいだにへだたりがあり、さえぎられているから、反交通だ。国の借金は、つまり国民の借金ではない。

 国の借金を、国民が背負わせられる。借金を国民が負わされる。これは、逆方向の単交通だ。単交通は一方向のものであり、それの逆の方向だから能動ではなくて受動だ。何々するのではなくて、何々させられる。

 どちらかといえば、いまの日本人が、国の借金を引き受けさせられるのではなくて、将来の日本人に引き受けさせているのがある。いまの時点であるよりは、将来の時点の日本人に国の借金を背負わせるのだから、将来の日本人への逆方向の単交通だ。

 岸田首相が正しいことを言っているのか、それともれいわ新選組の政治家が正しいことを言っているのか。財政で、緊縮派が正しいことを言っているのか、それとも反緊縮派が正しいことを言っているのかがある。

 実用主義(pragmatism)や決疑論(casuistry)の点で見てみると、岸田首相と、れいわ新選組の政治家が言っていることは、それぞれが半分ずつくらい正しく、半分ずつくらいまちがっているかもしれない。

 反証主義(falsificationism)では、うそであることが証明できる可能性がなければならない。うそとは、交通でいえば、言葉の反交通だ。

 岸田首相が言っていることと、れいわ新選組の政治家が言っていることは、ともに、うそである可能性を持つことがいり、言葉の反交通である見こみを持つことがいる。反証主義からすればそう見なせる。

 言っていることが、ほんとうであったり、まことであったりするのであれば、うそではないことになり、言葉の反交通ではないことになる。

 国の借金については、それが日本人の借金に当たるのだと言うのと、当たらないのだと言うのとがあるけど、その二つの発言のどちらにも、ほんとうではないのや、まことではない見こみがあるものだろう。うそであり、言葉の反交通である見こみがある。

 まさにほんとうであり、まことであるといえるのが、お金なのだとは言えそうにない。お金(日本の円)は、なぞのものであり、それがそれだからそれなのだといった、自己循環論法によっているものだ。お金それじたいが、ほんとうではないのや、まことではないものであり、うそのものだ。うそである、言葉の反交通によるものがお金である。

 人間が信じこんでいるうそであるのがお金であり、言葉の反交通によるものだ。人間は本能がこわれているから、文化をつくり上げる。その文化の一つに当たるのがお金であり、文化を批判することがいるのもある。たんなる紙切れ(紙くず)にすぎないものを、価値があるお金だとしているのがあり、それに価値があるのだとするのは、改めて見ると、うそであり、言葉の反交通であるのはいなめない。

 参照文献 『これが「教養」だ』清水真木(まき) 『本当にわかる論理学』三浦俊彦 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『反証主義』小河原(こがわら)誠 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『資本主義から市民主義へ』岩井克人(かつひと) 聞き手 三浦雅士 『唯幻論物語』岸田秀(しゅう) 『日本国はいくら借金できるのか? 国債破綻ドミノ』川北隆雄 『九九.九%は仮説 思いこみで判断しないための考え方』竹内薫(かおる)

日本の国にたてつくことをする活動家はいないほうがよいのか―活動家(少数派)は、よくないものなのか

 日本の国がやることのじゃまをする、活動家がいる。

 沖縄県で、日本の政権がつくろうとしている軍事の基地を、作らせないようにしようとして、座りこみをしている活動家やその集団がいる。

 基地だけではなくて、日本の政権がやろうとしていることを、やらせないようにしたりじゃまをしたりする活動家がいるけど、そうした議会の外にいる活動家をどのように見なすことができるだろうか。

 議会の外にいる活動家を、西洋の哲学でいわれる弁証法(dialectic)の点から見てみたい。

 正と反と合によるのが弁証法だ。そのうちで、議会の外にいる活動家は、反に当てはまる。

 日本の政権は、選挙で勝ってその地位についているのがあり、正に当たる。

 選挙で勝って政権の地位についているのではないのが、議会の外の活動家だ。選挙で勝って、政治の権力をにぎっているのではないから、正になることができていないのが議会の外の活動家である。反に当たるのにとどまっている。

 もしも、議会の外の活動家が、選挙にうって出て、それで勝つことができたとすれば、正になることができる。反に当たっていたのから、正になることができたのをしめす。

 かりに選挙で勝って、正になることができたとしても、それにたいする反がおきてしまう。そうしたことがしばしばある。

 基地でいえば、それを作ったほうがよいとするのと、作らないほうが良いとするのがあるから、その二つの立ち場があり、論争になる。

 論争になっているのは、対立がおきていることだ。対立がなければ政治はないから、そこに政治があることをしめす。対立していて、紛争がおきていることになり、正(主体)と反(主体)とがぶつかり合う。まだこの時点では、合の止揚(しよう)にはいたれていない。

 基地を作るのが良いとするのが正になって、作らないほうが良いとするのが反になることがあるし、その逆になることもまたある。逆であれば、作らないほうが良いとするのが正になって、作るのが良いとするのが反になる。

 ばあい分けをしてみると、正と反の二つがあるさいに、正だから正しいとは言い切れそうにない。正は多数派であり、国の政治の権力をにぎっているけど、正がまちがっていることはしばしばある。

 反は国の政治の権力をにぎっていなくて、少数派だ。議会の外にいることもある。少数派である反だからといって、まちがっているとはかぎらず、正しいことを言ったりやったりしていることがしばしばある。

 選挙で勝って、国の政治の権力をにぎっているのが正だから、自分たちがやりたいことをどんどん進めて行きたい。そのじゃまになり、さまたげになるのが反だ。反が言ったりやったりしていることは、正にとってはじゃまになることだから、なんとかして反を排除したい。反を排除したいのが、正の思わくだ。

 かんじんなことは、反が選挙にうって出て、選挙で勝って正になるようにすることだとはいえそうにない。反が正になることができれば、それでものごとがうまく片づくのだとはいえそうにない。何が正になろうとも(どこのだれが選挙で勝とうとも)、何が反であろうとも、正が反を排除しないようにすることがいる。できるだけ反を排除しないようにして、包摂(包括)して行く。

 明らかに、客観や本質といえるような悪や罪を、反に当たるもの(議会の外の活動家など)がやっているのではないかぎり、反が言ったりやったりしていることは認められるべきだろう。

 正つまり日本の国の権力と、反つまり議会の外の活動家が、たがいに対立し合い、ぶつかり合う。そうなっているのだとすれば、正が反を排除するのはよくないことだ。反を排除して、正つまり合としてしまわずに、正と反を共にくみ入れるようにして、その二つをともにしっかりと重んじるようにして、それで合の止揚(aufheben)にもって行く。

 正は、反を排除しないようにして、反を承認するようにして、客むかえ(hospitality)をして行く。よき歓待(かんたい)を行なう。(むずかしいことではあるが)反を遠ざけるのではなくて逆に近づけるような、ふだんの遠近法(perspective)を転換することを行なう。正と反とのあいだで、交通をして行く。交通のやり取りをしていって、よりよいあり方(異交通)を目ざして行くようにしたい。

 選挙に勝って、多数派になったのだから、正は反を排除してよい、といったことは言えそうにない。正が反を排除してしまうと、正つまり合となってしまい、弁証法において、反をくみ入れた形のきちんとした合の止揚にすることができないから、ものごとが片づかず、正と反とのあいだの争点がいつまでも片づかない。

 参照文献 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫現代思想を読む事典』今村仁司編 『「野党」論 何のためにあるのか』吉田徹 『十三歳からのテロ問題―リアルな「正義論」の話』加藤朗(あきら) 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『社会問題とは何か なぜ、どのように生じ、なくなるのか?』ジョエル・ベスト 赤川学監訳 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『暴力 思考のフロンティア』上野成利(なりとし) 『宗教多元主義を学ぶ人のために』間瀬啓允(ひろまさ)編

ロシアと日本は、同じなのか、ちがうのか―ロシア(プーチン大統領)と日本(自民党)の分類づけ

 日本を、新しい戦前にはしないようにする。そのためにどういったことをするべきなのだろうか。

 芸能人のタモリ氏が言うように、新しい戦前にはしないようにして行きたい。

 日本ではないほかの国を引き合いに出せるとすると、新しい戦前に当たるものとしては、いま戦争をやっているロシアを持ち出せそうだ。

 いま戦争をやっているのがロシアであり、ウラジーミル・プーチン大統領は独裁者だ。ウクライナと戦争をやっていて、狂っているかのように見なせるのがプーチン大統領である。異常であるように見なせるのがプーチン大統領だ。

 いっけんすると狂っていたり異常だったりするのがプーチン大統領のようではあるけど、それはプーチン大統領だけにかぎったことだとはいえそうにない。

 プーチン大統領とちがっているのではなくて、それと類似したものであるのが、日本の与党の自由民主党だろう。かりにプーチン大統領が狂っていたり異常だったりするのだとすれば、日本の自民党もまたそうであることになる。

 哲学でいわれる現実性(エネルゲイア)と可能性(デュナミス)をもち出してみたい。その二つをもち出してみると、現実性に当たるのがいまのロシアだ。まさにいまウクライナとのあいだで戦争をやっているのがロシアだから、現実性に当たる。

 可能性に当たるのが日本の自民党だ。じっさいにはまだ戦争をやっていないから、いまのロシアのように現実性に当たるのではない。まだ可能性にとどまっているのが日本の自民党だ。

 どんどん戦争の方向へと向かっていっているのが日本の自民党だから、まだいまは可能性にとどまっているのだとしても、現実性になってしまうことがおきかねない。現実性になってしまったら、戦争がおきてしまうことをしめすから、手おくれだ。

 プーチン大統領やロシアを日本はいちおう批判しているのはあるけど、あらためて見てみるとロシアと日本は類似しているのがある。差異によるのではなくて類似しているのがあるので、方向性が共に同じである。

 まだ可能性にとどまっているのが日本の自民党であり、それが現実性になったら、いまのロシアのように日本で戦争がおきたり、すごい独裁や専制のあり方になったりすることになる。新しい戦前になることになるから、可能性にとどまっているうちに、何とか自由主義(liberalism)を立て直すようにして、よい方向へと改めて行きたいものである。

 参照文献 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『知った気でいるあなたのための 構造主義方法論入門』高田明典(あきのり) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『憲法が変わっても戦争にならない?』高橋哲哉斎藤貴男編著 『右傾化する日本政治』中野晃一

新しい戦前と、戦前と戦後の区切り―戦後の民主主義と憲法を見なおす

 新しい戦前になる。芸能人のタモリ氏は、今年についてをそう言っていた。

 新しい戦前にしないためには、どのようにするべきなのだろうか。

 戦前は、戦争がおきる前に当たる。

 戦争がおきる前であるのが戦前だが、戦争とは何かといえば、革命に当たる。一つにはそう見なせる。戦争革命説だ。歴史学者E・H・カー氏による。

 戦争がおきると、革命がおきることになる。そのあかしとして、日本における民主主義は、たんなる民主主義なのではなくて、たえず戦後の民主主義に当たるものだ。民主主義、つまり戦後の民主主義なのである。

 いまの日本の民主主義は、つまり戦後の民主主義に当たるものだけど、それがこわれている。戦争がおきて、革命がおきたことによって、戦後の民主主義がおきたけど、それがこわれているのがいまの時点だろう。

 戦争で革命がおきる前(つまり戦前)のあり方にもどってしまっている。それが、新しい戦前の意味するところだろう。

 新しい戦前と言ったさいに、そこで浮きぼりになってくるのは、民主主義つまり戦後の民主主義である。そのように見なしてみたい。

 たとえ戦争で革命がおきて、戦後の民主主義がなされても、それは一つの極であるのにすぎなくて、ゆり戻しがおきてしまう。ふり子が極から極へと動いて行くように、もう一つの非民主の極へと動いていってしまう。政治の右傾化だ。反自由の政治である。

 いまは非民主の極へと動いていっていて、政治が右傾化しているのが日本だけど、それを民主の極へともどすようにして行きたい。民主の極へと行くようにすることが、新しい戦前にならないようにすることに当たる。

 民主の極へと行くようにするさいに、民主主義つまり戦後の民主主義であるのをくみ入れるようにしたい。

 戦後の民主主義では、それのもとになるものとしていまの日本の憲法がある。いまの日本の憲法では民主主義がよしとされているのがあり、憲法をよしとすることが民主主義をよしとすることにつながる。

 いまの日本の憲法をいまいちど見なおす。憲法によって言われている普遍の価値をあらためて見直すようにして、そのうちの一つである民主主義をよしとして行く。

 民主主義は、たえざる民主化をすることだから、いろいろなところを民主化して行くようにしたい。とくにいまの日本では情報の点で民主化がいるのが大きい。情報の統制が、上から行なわれてしまっているのがいまの日本だろう。それを改めるようにして、情報の民主化をしないとならない。

 新しい戦前にしないようにするためには、いまの日本では、民主主義のうちで、とくに情報の民主化をすることがいる。報道なんかでは、戦前のように大本営発表が行なわれてしまっているのがあり、客観で正確な情報をすばやく国民に伝えることが行なわれているとはいえそうにない。報道の自由とか、国民の知る権利がしんがいされているところがある。

 政治家は国民そのもの(presentation)ではなくて代理であり表象(representation)だから、うそをつくことがしばしばある。いまの日本の政治では、政治家がうそをつくことがすごく多くなっていて、うそがまかり通っている。

 政治において、表象である政治家が言うことが、そのまま通ってしまっていて(報道でたれ流されていて)、それへの批判が足りていない。どんなときでも、政治家が言うことへの批判は必要だ。政治家がうそをついていないかどうかをつねに批判して警戒することがいる。

 西洋語に比べると、日本語は客観で正確な情報をすばやく伝えるのに劣っている。日本語は言葉としては低文脈(low context)なのがあり、西洋語のように高文脈(high context)ではないから、情報の明示性が低い。そのぶん、日本は文化が高文脈であり、同質さや画一性が高く、空気を読んでそんたくすることが行なわれる。

 日本の報道は、情報の中に意図が多く入っていて、ゆがみ(bias)が大きい。そうしたことが多いから、情報を受けとるさいに、受けとる人がゆがみを自分でとり除かないとならないことが多い。情報の意図性や作為性や政治性が関わってくる。

 参照文献 『近代日本の戦争と政治』三谷太一郎 『超訳 日本国憲法池上彰(いけがみあきら) 『情報政治学講義』高瀬淳一 『右傾化する日本政治』中野晃一 『そして、メディアは日本を戦争に導いた』半藤一利(はんどうかずとし) 保阪正康(ほさかまさやす) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『細野真宏の数学嫌いでも「数学的思考力」が飛躍的に身に付く本!』細野真宏 『情報汚染の時代』高田明典(あきのり) 『日本語の二十一世紀のために』丸谷才一 山崎正和

世界の法の決まりをきちんと守る国と、やぶる国―法の決まりを守る国であるかのような日本のふるまい方への引っかかり(違和感)

 平和な世界にして行く。平和なためには、世界における法の決まりをしっかりと守って行く。国際の法の決まりを守ることがいるのだと、岸田首相はいう。

 日本の外である世界について、国際の法の決まりにもとづくことがいるのだと岸田文雄首相はいうが、それについて、日本の外と内(国内)との二つを見てみるとどうなのだろうか。

 自由民主党の岸田首相が言っていることは、日本の外と内とで、整合しないのがある。不整合や非整合なことを言っているのが岸田首相だ。矛盾している。

 日本の外の世界においては、国際の法の決まりを守らない国があって、いま戦争をやっているロシアなどがある。ロシアは無法のことを世界においてやっていて、国際の法の決まりをやぶっている。

 ロシアにくわえて、中国なんかも、国際の法の決まりを軽んじているところがあるだろうから、よくないあり方だ。文化の力(soft power)である法の決まりをしっかりと重んじて行かないとならない。

 日本の国の内に目を向けてみると、政党では自民党は、文化の力を軽んじている。自民党は、法の決まりを軽んじているのがあり、日本の国の外でいえばロシアや中国などに当たるのが自民党だ。

 国の外と内とで整合しないあり方になっているのが自民党だ。不整合になっていることのあらわれとして、自民党は日本の国のなかで、政治の不祥事をすごく多くおこしていて、いろいろな不祥事をかかえている。

 なんで自民党はいろいろな不祥事を引きおこしてかかえこんでいるのかといえば、法の決まりを軽んじているからだ。自分たちを特権化しているのが自民党であり、そこから自民党が悪いことをしても甘く許されるあり方になっている。

 日本の国の外に向けてであるよりも、日本の国の内に向けてこそ、法の決まりをしっかりと守って行くことを言わなければならない。なぜ、国の外であるよりも国の内に向けて法を重んじるのを言わないとならないのかといえば、日本はしっかりとした法治の国であるとはいえないからだ。日本は法にもとづいた社会であるとはいえそうにない。

 国の外においては、あたかも日本が国として国際の法の決まりを重んじていて、文化の力を大切にする国であるかのようにふるまっているけど、じっさいにはそれはちがっている。じっさいのありようは、文化の力を重んじる国なのが日本なのではなくて、その逆に軽んじているのが日本のありようだろう。

 世界を大きく二つのあり方に分けられるとすると、日本は文化の力を重んじるほう(側)に位置づけられるのだとはいえそうにない。その反対に、文化の力を軽んじるほうに位置づけられるのが日本だ。ロシアや中国なんかと同じほうに位置づけられる。

 整合しないことを言っていて、二重の基準(double standard)になっているのが、岸田首相が世界に向けて言っていることだ。外と内とをつき合わせてみると、矛盾がある。世界に向けてであるよりも、日本の内に向けてこそ、法の決まりをしっかりと守るような政治を日本はやって行くようにしなければならないのを言える。

 自民党が政治においてたくさんの不祥事をおこしてそれらを抱えこんでいることに、日本が法を軽んじていることがあらわれ出ている。そんなありさまで、世界に向けて、法を重んじるべきだと日本が言っても、説得力がない。日本は、まず何よりも国内の政治がおかしくなっているのを何とかするべきであり、それが先決の問題として要求されることだ。

 参照文献 『キヨミズ准教授の法学入門』木村草太(そうた) 『法律より怖い「会社の掟」 不祥事が続く五つの理由』稲垣重雄 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『本当にわかる論理学』三浦俊彦 『安心社会から信頼社会へ 日本型システムの行方』山岸俊男

ブラジルでの、政治の暴動(乱入)のできごと―アメリカやブラジルでの暴動と、民主主義の危機

 ブラジルでは、政治で、議会や裁判所に人が乱入するできごとがおきたという。

 アメリカでも、政治で、議会に人が乱入することがおきたけど、ブラジルでもそれがおきた。民主主義に危機がおきているといえそうだ。どうしてこのようなことがおきたのだろうか。

 一つの原因だけではなくて、いろいろな要因によってアメリカやブラジルでは政治の公の場所への乱入のできごとがおきたのだろう。

 政治における、味方(友)と敵との対立のはげしさがある。それと、哲学者のフリードリヒ・ニーチェ氏のいう負けおしみ(ressentiment)が関わってきそうだ。

 学者のカール・シュミット氏がいうには、いろいろな対立のなかで、政治のそれがもっともはげしいものになりやすいという。そうしたことから、アメリカやブラジルでは政治の公の場所への乱入のできごとがおきた。そう見なせそうだ。

 政治でのはげしい対立を和らげるためには、友敵の対立(antagonism)を、闘技の対立(agonism)へと変えて行く。科学のゆとりを持てないのが友敵の対立だ。科学のゆとりをもてるのが闘技の対立だ。闘技だと、遊びのところがややあるから、ゆとりを持ちやすい。

 遊びでは、自分を抑制したり、(じかの暴力ではない形で)批判したり、相対化したりすることができやすい。政治における相対主義の表現なのが民主主義なのだと、学者のハンス・ケルゼン氏はいう。

 政治で負けると、負けおしみがおきることがあるが、そのさいにいるのが立憲主義だろう。近代の立憲主義憲法がきちんとあれば、たとえ政治で負けたとしても、すごい強い負けおしみにはなりづらい。負けたら、すなわちだめだとか(いっかんの)終わりなのだとはなりづらい。負けたとしても一定の尊厳を保てる。

 科学のゆとりを持てていれば、負けおしみを和らげることができやすい。負けるが勝ち(stoop to conquer)といわれるのがあるから、政治で負けたとしても、今回はそうなったけど、また次があるのだとしやすい。

 立憲主義がこわれてしまっていると、勝ちつづけとか負けつづけとなってしまい、勝ちと負けが固定化されてしまう。負け、つまりだめだとか終わりだとなってしまう。負けおしみがすごい強くなりやすくなって、社会の中が危なくなってしまう。そうならないためにも、立憲主義をいかに保ち、(近代の立憲主義の)憲法をいかに重んじるかが求められる。

 参照文献 『憲法という希望』木村草太(そうた) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『逆説の法則』西成活裕(にしなりかつひろ) 『暴力 思考のフロンティア』上野成利(なりとし) 『よくわかる法哲学・法思想 やわらかアカデミズム・〈わかる〉シリーズ』ミネルヴァ書房ホモ・ルーデンスヨハン・ホイジンガ

日本にとっての敵(となる国)はいるのか―純粋な敵のなりたちづらさと、敵の雑種性(hybrid)

 日本の国を守る。そのために、敵の基地をこうげきすることができる力を日本はもつべきなのだろうか。

 日本にとっての敵といったさいに、(ある国のことを)敵として基礎づけたりしたて上げたりすることができづらくなっている。反基礎づけ主義からすればそう言えそうだ。

 基礎づけ主義からすると、日本にとっての敵となる国を作ることができて、敵を基礎づけたりしたて上げたりできることになる。大きな物語がなりたつ。

 これが日本にとっての敵なのだとははっきりとは定めづらいのがいまのありようであり、反基礎づけ主義によるあり方だ。小さな物語しかなりたちづらい。

 いまはロシアとウクライナが戦争をやっているけど、これはもっぱらロシアが悪いものだ。そのロシアの悪さはさしあたって置いておけるとして、戦争がおきている中では、基礎づけ主義がとられてしまう。ウクライナにとっての敵はロシアであり、ロシアにとっての敵はウクライナだ。

 いざ戦争がおきると、ものごとがひどくたんじゅん化されてしまう。わかりやすくものごとがとらえられることになる。ウクライナにおいては、敵であるロシアをたおす。敵つまりロシアだとされて、それを倒すことが目標になり、何をやればよいのかや何を目ざすのかがはっきりと示される。

 どういう点に戦争のまずさがあるのかといえば、色々にあるけど、その中でものごとがたんじゅん化されてしまうのがある。ものごとがたんじゅん化されて、何をやるべきなのかや何を目ざすのかがはっきりと示されるのが、逆に良くない。ウクライナだったら、ロシアが敵であり、そのロシアを倒すのが目標になって、そういうわかりやすさがかえって悪くはたらくところがある。

 いっけんすると、戦争がおきている中では、敵を基礎づけたりしたて上げたりできるかのようだけど、それはたんにものごとをたんじゅん化しすぎてしまっているためであるおそれがある。

 ものごとをたんじゅん化しすぎて、これが敵だとしてしまうのが戦争ではなされるけど、それはその国がおろかになっているのをしめす。国がおろかになっているから、ものごとをたんじゅん化してしまい、これが敵だとして、その敵をやっつけることが目ざされてしまう。たとえ個人としてはかしこい人がいたとしても、集団の浅慮(せんりょ)や集団の思考(groupthink)におちいってしまい、国がおろかになる。

 戦争がおきていなくて平和な中では、反基礎づけ主義になっていて、小さな物語しかなりたちづらい。自分たちにとっての敵を基礎づけたりしたて上げたりできづらいのとともに、何をやるべきなのかや何を目ざすことがいるのかもまたよくわからない。戦争をやっているときのように、何をやるべきなのかや何を目ざすことがいるのかを客観にはっきりとは示しづらいのである。

 何をやるべきなのかや何を目ざすことがいるのかがわかりづらいのは、世界のありようが複雑だからだ。その複雑さをたんじゅん化しすぎてしまうのが戦争をやることだ。複雑さをたんじゅん化しすぎないようにして、基礎づけ主義にならないようにしたい。

 平和な中(まだ日本ではいまのところは戦争がおきていない中)で、世界が複雑になっているのがある。たんじゅん化しすぎるのを避けるようにして、反基礎づけ主義によるようにして行く。国の政治においては、議会の内や外にいる反対勢力(opposition)を重んじるようにしていって、議会の内では野党などの反対勢力を排除しないようにして行く。

 議会の内では、与党(自由民主党)だけの一強のあり方だと、ものごとをたんじゅん化しすぎてしまうことになり、戦争に向かいやすい。芸能人のタモリ氏がいうような、新しい戦前になってしまうおそれが高いのが、自民党による一強のあり方だ。それを改めて、せめて与党と野党(反対勢力)が、円の中の二つの中心になるように(だ円になるように)できれば、民主主義を保ちやすい。だ円のあり方だ。

 参照文献 『ポケット図解 構造主義がよ~くわかる本 人間と社会を縛る構造を解き明かす』高田明典(あきのり) 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『「野党」論 何のためにあるのか』吉田徹 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫現代思想を読む事典』今村仁司編 『構築主義とは何か』上野千鶴子編 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之(いいだやすゆき) 『日本人はなぜ存在するか』與那覇潤(よなはじゅん) 『日本の難点』宮台真司(みやだいしんじ) 『本当の戦争 すべての人が戦争について知っておくべき四三七の事柄』クリス・ヘッジズ 伏見威蕃(いわん)訳 『徹底図解 社会心理学 歴史に残る心理学実験から現代の学際的研究まで』山岸俊男監修

自衛隊(軍隊)と、正義―国の抑圧の装置や公の国の装置である軍隊と、正義

 背中に、正義の語が書かれた T シャツを着て、隊員たちがあつまっている。せなかの正義の語を見せるかたちで写真がとられていた。海上自衛隊の隊員たちによる写真である。

 いっけんすると、自衛隊が正義の語をかかげることは良いことであるかのようだけど、そこに危なさはないのだろうか。

 日本の国を守るために、正義の語をかかげたのが自衛隊だろう。それはいっけんするとまじめに日本の国を守ろうとするのや日本への愛国心を示していそうで良いことであるかのようだけど、それにまったをかけてみたい。

 正義の語には、多義やあいまいさがつきまとう。肯定や積極には、正義の語を定義づけしづらい。消極の形でしか定義づけしづらいのがあり、不正が無いのが正義だといったふうにしか定めづらい。経済学者のフリードリッヒ・ハイエク氏はそう言う。

 たった一つの正義をよしとするのだとまずさがおきてくる。正の語は、一に止からできているけど、単数の一つの正義だと、ほかのあり方を許さなくなってしまう。正義は複数のものを許すようであるのがいる。正義の複数性だ。たとえば、自国の正義と、他国の正義といったようにである。

 どういうものを重んじるようにするべきなのかといえば、何をさしおいても正義を重んじるようにするべきだとはいえそうにない。究極の価値に当たるのが正義だけど、それをいまいちどいったんカッコに入れるようにして、それよりも実在を重んじるようにしたい。

 かくあるべきの当為(sollen)なのが正義だけど、それよりもかくあるの実在(sein)をより重んじるようにしたい。日本の国は、戦前において、かくあるべきの当為を重んじすぎて、国がまちがった方向につっ走っていった。戦争にいたって、国がはめつするところまで行った。

 戦前の日本は、かくあるの実在をひどく軽んじたために、国がまちがった方向につっ走っていったのである。かくあるべきの当為を重んじて、かくあるの実在を軽んじるところが日本にはあるから、それを改めるようにしたい。

 重んじるようにするべきかくあるの実在のところを見てみると、日本の国の中にはいろいろな人による色々な考え方があることがわかる。人それぞれによって色々な考え方のちがいがあって、さまざまな遠近法(perspective)がある。遠近法のちがいが人それぞれであることを重んじるようにして、正義よりも実在のほうをしっかりと重く見て行くことが、日本にはいることだ。上からのたった一つの遠近法を下に押しつけがちなのが日本にはある。

 参照文献 『増補 靖国史観 日本思想を読みなおす』小島毅(つよし) 『正義 思考のフロンティア』大川正彦 『正しさとは何か』高田明典(あきのり)

日本にとっての敵の国があり、敵の国の基地があることの意味論―敵の国の有無とその存在論

 日本は、国を守るために、攻撃する力を持つべきなのだろうか。敵となる国の基地を攻撃する力を日本が持ったほうが、日本をより守れるようになるのだろうか。

 もしかしたらまとを外しているかもしれないが、敵となる国つまり敵の基地と見なせるのがあるかもしれない。敵つまり敵の基地だと見なせるさいに、それをかくある(is)の点でとらえてみたい。

 かくあるの点で見てみられるとすると、敵がいるのや、敵の基地があるのをとり上げることができる。基地を持った(基地を持っている)敵の国があることになる。

 大きな分け方では、有るのと無いのとに分けられる。有るのだったら、基地を持った敵の国があることだ。無いことだったら、基地を持った敵の国が無い。または基地を持っていない敵の国がある。

 どういうことが日本の国にはできるのかの、可能さ(can)の点で見てみると、いま日本は敵の国の基地を攻撃する力を持とうとしている。基地を攻撃することができるようにしようとしているのである。

 どういうことが日本の国にはできないのかでは、有るのと無いのとで、敵の国を無いようにすることはできない。敵の国があるとして、そうした国がある(is)ことは否定できず、そうした国を無い(is not)にすることは日本にはできないことだろう。

 可能性の点では、もしも日本が攻撃する力を持てば、敵の国の基地を攻撃することはできるかもしれない。不可能性の点では、有るのと無いのとで、敵の国があるとしか言いようがなくて、そうした国を無いようにするのは不可能だ。

 可能性であるよりも、不可能性の点に目を向けてみると、日本には、日本にとって敵に当たる国を無くすことはできない。現実論としては、敵に当たる国があるのだととらえざるをえない。

 日本にとって味方の国があるのとともに、それと同じような話として、敵となる国がもしもあるのであれば、それが有るのだと言わざるをえない(無いのだと言うわけには行かない)。敵となる国があることをくみ入れて、それをふまえながら、敵となる国と関わり合いをして、交通をして行く。外交の対話をしっかりとやって行く。

 じっさいに敵となる国の基地を攻撃するのではないとしても、いざとなったら基地を攻撃することができるようにする。日本はそうしようとしているけど、可能性として、日本が敵の国の基地を攻撃できるようになったとしても、そうだからといって、そうした敵の国が、敵の国でなくなるわけではない。敵の国が有ったのが、無くなるのでもない。

 日本が攻撃の力を持ったとしても、敵の国がそう(敵の国のまま)でありつづけることには変わりがなさそうだ。じっさいにそれを使わずに、持っているだけだとして、日本が攻撃の力を持てば、敵の国が友好な国に変わってくれるのではないだろうし、味方の国になってくれるのでもないだろう。

 日本がやるべきことは、敵の基地を攻撃する力をもって、いざとなったらそれを攻撃できるようにすることだとはいえそうにない。どういうことをやるべきかといえば、集団安全保障のあり方によって、そもそも日本にとっての敵(敵の国)を作らないようにして行く。どういったさいにも、これが日本にとっての敵の国だ、とはしないようにして行く。

 民主主義によるのであれば、国どうしで、ある国にとっての敵の国を作らないですむ。民主主義では、敵はいないのがある。よき好敵手(rival、competitor)はいても、やっつけるものとしての敵はいないのであるのが民主主義だ。やっつけるべきものとしての敵を作ってしまうと、民主主義ではなくなってしまう。韓国の政治家の金大中(きむでじゅん)氏はそう言う。(闘技の)民主主義では、闘技の関係(agonism)はあっても、敵対の関係(antagonism)はないのをしめす。

 かりに敵の国があるのだとしても、それが有るのを、無いようにすることはできないのだから、あとは外交でやって行く。自国と他国で、国どうしの交通をしっかりとやって行く。おもてなしの客むかえ(hospitality)をして行く。味方にせよ、敵にせよ、それらの国を、どのように客むかえしていって、いかにきちんと交通することができるのかが、日本の国の安全にとっては意味があることだろう。

 参照文献 『ナショナリズム(思考のフロンティア)』姜尚中(かんさんじゅん) 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 「排除と差別 正義の倫理に向けて」(「部落解放」No.四三五 一九九八年三月)今村仁司 『十三歳からの日本外交 それって、関係あるの!?』孫崎享(まごさきうける) 『本当にわかる論理学』三浦俊彦

来年の日本は、新しい戦前になるのか―戦前と、日本のだらくや退廃(decadence)

 新しい戦前になる。来年はそうなるだろうと、テレビ番組で芸能人のタモリ氏は言ったという。

 タモリ氏がいうように、来年は新しい戦前になるのだろうか。

 交通で、時間における、いまとかつてのいまかつて間によって見てみると、戦前はかつてだ。そのかつてが、いまにおいて再びくり返される。かつてが回帰する。

 かつてのあり方が、いまにおいて再びおきるのは、双方向の双交通だ。

 かつてのあり方が、それから先にはもう二度と再びくり返されることがないのは、一方向の単交通だ。単交通のあり方では、(どんどんあり方がより良くなって行くのだとする)進歩史観などがある。進歩史観は上昇史観だ。どんどん悪くなって行くのだとする下降史観もある。

 日本の戦前はどうだったのかといえば、いろいろに見られるのはあるけど、その中で、すごいだらくしていたのがある。日本は国としてすごいだらくしていて、それで国が戦争につっ走っていって、国がはめつするところまで行った。

 新しい戦前になるのは、戦前つまりだらくであり、日本の国がだらくすることだ。そう見なしてみたい。

 あたらしいだらくであるよりも、古いだらくをやってしまっているのが、いまの日本だ。古くからあるだらくをやっていたのが日本の戦前だけど、いまの日本もまた、古くからあるだらくをやっているのである。

 古くからのだらくには、日本に古くからある信仰の御霊(ごりょう)信仰や互酬性(ごしゅうせい)などがある。

 御霊信仰は、死者や生きている人のごきげんをとって行く。そうすることで、不幸なかたちで亡くなった死者が、よい霊に転じることになる。よいことをもたらす霊に変わる。死者だけではなくて、生きている人のごきげんをとるのもあって、ごまをすることが行なわれる。

 互酬性は、お互いに利益のやり取りをやって行く。お互いのあいだの利益の交通だ。利益のやり取りをし合うあいだがらになって、ゆ着がおきて、複合体や体系(system)が形づくられる。

 日本の政治は右傾化していっているのがあり、日本の国をよしとするのが強まっている。戦前は、日本の国をよしとするのが強かったけど、いまにおいてもそれがおきているのがあり、同じまちがいをくり返している。

 いまかつて間では、かつての日本のだらくが、いまにおいて改善されて無くなっているのであればよいけど、そうはなっていない。かつての日本のだらくが、そのままいまにおいても残りつづけているのがあって、いまにも引きつがれているのである。

 かつての日本のだらくを改善するためには、歴史をすごく重んじないとならないけど、日本は歴史修正主義をやっているから、だらくが残りつづけている。古いだらくがいまにおいて残りつづけているから、タモリ氏がいうように、新しい戦前になる(なっている)ことになる。

 古いだらくを少しでも改善するためには、歴史修正主義を止めるようにしないとならない。日本の負の歴史をしっかりととり上げるようにして、いまとかつてのいまかつて間の交通をしっかりと重んじて行く。歴史の、いまかつて間の交通をしっかりととり上げるようにして、かつてを忘却しないで想起して行く。かつての負の歴史をしっかりと見て行くようにすることが、新しい戦前にしないためにいることだろう。

 参照文献 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『丸谷才一 追悼総特集 KAWADE 夢ムック』河出書房 『右傾化する日本政治』中野晃一 『歴史 / 修正主義 思考のフロンティア』高橋哲哉