性の差別がうたがわれる政治家の発言と、憲法

 生まずして、なにが女性か。女性の外務相は、そう言ったという。

 選挙で候補者を当選させるために、外務相が応援にかけつけた。その中での発言である。(われわれ女性たちが)この候補者を生まずして、なにが女性なのか。外務相が女性であることから、この発言がなされたのである。

 女性への差別に当たる。外務相の発言は差別にあたることからとり沙汰されているけど、とくにまずい発言ではないとの見かたも投げかけられている。あくまでも比ゆとして言ったのにすぎない。ものの例えにすぎない。

 差別にあたることから、外務相の発言はよくないものだったのだろうか。

 言ったことを、あとで撤回したのが外務相である。

 かりに外務相があくまでも比ゆとして言っただけなのだとしても、まったく何の問題もないとは言い切れないかもしれない。

 比ゆなのだとしても、それにおいて、何かと何かを同じものだと見立てている。女性が子どもを生むことと、候補者を当選させて生み出すことを、同じことだとなぞらえているのである。女性が子どもを生むのと、候補者を生み出すことが、等しい。

 どういうものが女性なのか。本質として女性はどういうものなのかで、外務相は、女性は子どもを生むものだとしている。この候補者を生み出すものが、女性である。

 何々ハ何々である、の形がある。ものごとの性格づけだ。当てはめである。性であれば、男性とはこうだとか、女性とはこうだといったものである。男性の本質や女性の本質だ。何々ハのあとの、何々であるのところが本質に当たるものである。

 どういうところにまずさがあったのかといえば、人について分類づけや定義づけをしてしまっているところだ。外務相は、発言の中で、人について分類づけたり定義づけたりしているのがあり、そこにまずさがある。

 女性のまとまりは、類である。女性の類についてを、こういうものであるとしたのが外務相である。女性の類の中には、すごいたくさんの人たちがいる。いろいろな人たちを含む。それらをぜんぶ一くくりにしてしまうとよくない。

 類の中には色々な人たちが含まれているのにもかかわらず、それらを一くくりにして雑なとらえ方をしたところがある。女性のことを本質化してしまった。女性は本質としてこうであるべきだとか、こうであることがいるのだとしたのが外務相だろう。

 いまの日本の憲法では、平等がよしとされている。自由がよしとされている。個人を重んじて行く。女性の中には色々な人たちがいるのだから、類としての女性の中で、色々なあり方があってよい。

 憲法をもち出してみると、まず男性と女性のあいだの階層(class)の格差を改めて行く。同じ性である女性の中においては、階層の格差がおきないようにして、色々なあり方が許されたほうが良いだろう。それぞれにちがったあり方をした個人をみんな重んじるようにして行く。

 かりの話をするとすれば、もしも外務相憲法を重んじるようにしていれば、女性への差別に当たるような発言はおきなかっただろう。女性を一般化するのではなくて、個別化することを言っていたはずだ。性によるとらえ方はあってよいけど、それとは別に、個人として重んじて行く。

 性においては、社会における平等がいる。正義である。性のあいだの階層の格差や、同じ性の中での階層の格差を改めて行く。憲法からすれば平等がよいのがあるから、性における階層の格差を改めて行くことがいる。

 政治家は憲法をもっと重んじるようにしないとならない。そうしないと差別に当たることを平気で(またはうかつに)言うことになってしまう。日本では憲法を軽んじてないがしろにしている政治家が多いから、まともな政治家が少ない。

 政治にかぎらず、いまの日本ではけっこう差別がおきているように見える。ウェブを見ていると、けっこう(ちょくちょく)差別を見かける。問題の所在には、憲法を軽んじてないがしろにしているのがある。

 政治家が憲法を軽んじてないがしろにしてしまっているから、それが政治家じしんの首をしめている。それだけではなくて、日本の中でおきている差別が改まらない。できるだけ政治家が憲法を重んじて行くようにしないと、いつまでたっても日本の中の差別が改まりそうにない。

 参照文献 『超訳 日本国憲法池上彰(いけがみあきら) 『差別原論 〈わたし〉のなかの権力とつきあう』好井裕明(よしいひろあき) 『社会階層 豊かさの中の不平等』原純輔(じゅんすけ) 盛山(せいやま)和夫 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『構築主義とは何か』上野千鶴子

野党(opposition)の立ち場はどうあるべきか:悪い法案への立ち位置を問いかける

 野党は、与党の出す案を、よしとするべきなのだろうか。それとも案に反対をするべきなのだろうか。

 与党が悪い法律の案を出す。悪い案だったら、野党はそれに反対をするべきだ。野党は反対をするべきなのにもかかわらず、よしとしてしまう。賛成してしまう。そういったことが現実にはおきている。

 反対の勢力(opposition)なのが野党だ。そうであるのにも関わらず、賛成してしまってどうする。反対しないでどうする。反対の勢力ではなくなってしまう。

 どういうふうにするべきなのかの、べき論はさしあたって置いておきたい。野党はどうするべきかのべき論はとりあえず置いておけるとすると、かんたんなのと難しいのとの二つのものをあげられる。

 野党である立憲民主党は、与党である自由民主党が出す案に、反対しないことが少なくない。自民党が出す案をよしとしてしまう。賛成してしまう。何でもかんでも自民党の出す案に反対するわけでもないのが立憲民主党だろう。

 どちらかといえば、かんたんなのではなくて難しいことをしてしまっているのが野党の立憲民主党である。

 いちばん簡単なのは、自民党の出す案に、何でもかんでも反対することだ。自民党のやることなすことに、何でもかんでも立憲民主党は反対して行く。これがいちばん易しい。たやすい。

 良いことなのかそれとも悪いことなのかはちょっと置いておけるとすると、少し難しいことをやってしまっているのが野党の立憲民主党だ。与党である自民党の出す案をよしとする。自民党の案に賛成する。反対するのではなくて、自民党の出す案に賛成してしまうと、難易度が上がることになる。

 なんで自民党の出す案に賛成すると難易度が上がるのかといえば、労力をかけなければならなくなるからだ。どういうことに労力をかけることがいることになるのかといえば、反対者を説得することである。反対者を説得しなければならなくなるのである。

 反対者をきちんと説得したうえで、自民党の案に賛成することができているのかといえば、それがうまくできていないのが立憲民主党だろう。反対者を説得することができていない中で、自民党の案に賛成しているのが立憲民主党だ。反対者の説得がうまくなくて下手なのがある。

 易しいのではなくて難しい道をとってしまっているのが立憲民主党である。労力をよりかけなければならない道をとってしまっているのである。きちんと労力をかけているのかといえば、それを省いてしまっているところがあり、反対者をうまく説得できていない。反対者を納得させられていないのである。

 どういうふうに立憲民主党をとらえられるのかといえば、易しい道ではなくて難しい道をとっているのは、えらいといえばえらい。たんに自民党のやることなすことに反対するだけなのであれば、かんたんな道なのだから、必ずしもほめるのに値するものではない。

 難しい道をとっているから、そこはえらいといえばえらいけど、かけるべき労力をそこまでかけていない。反対者をきちんとていねいに説得することをやっているとは言いがたい。労力をそこまでかけていなくて省いてしまっているところがあるのが立憲民主党だから、そこはえらくない。もっと労力をかけるようにして、反対者に働きかけるようにしたり、反対者の声を受けとめるようにしたらよいのがある。

 自民党に、賛成したら賛成したで、たたかれる。反対したら反対したで、たたかれる。どちらにしてもたたかれてしまうのが立憲民主党だろう。構成の矛盾(dilemma)である。

 与党の案に賛成をするさいには、反対者にきちんと働きかけたり、声を受けとめたりするようにしたらよい。そこが欠けているのがざんねんだ。まったくやっていないわけではなくて、少しは働きかけや受けとめをやっているのはあるだろうけど、十分ではなくて足りなさがある。

 参照文献 『新聞の読みかた』岸本重陳(しげのぶ) 『構築主義とは何か』上野千鶴子編 『「野党」論 何のためにあるのか』吉田徹 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや) 『信頼学の教室』中谷内一也(なかやちかずや) 『「説明責任」とは何か メディア戦略の視点から考える』井之上喬(たかし) 『法哲学入門』長尾龍一 『ブリッジマンの技術』鎌田浩毅(ひろき) 『大学受験に強くなる教養講座』横山雅彦カルチュラル・スタディーズ 思考のフロンティア』吉見俊哉(よしみしゅんや) 『本当にわかる論理学』三浦俊彦 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信

かつてをふり返りながら考える:イスラエルの暴力の行動と自由主義(liberalism)

 イスラエルがやっていることは、正しいことなのか、それとも悪いことなのだろうか。

 パレスチナに暴力をふるっているのがイスラエルだ。アメリカの大学の学生をはじめとして、世界の色々なところから批判の声があがっている。

 どういう根拠をもち出せるのかがある。根拠としては、自由主義(liberalism)の他者危害の原則を持ち出すことがなりたつ。

 なんでイスラエルが悪いことをしているのかといえば、自由主義の他者の危害の原則に反することをやっているからだ。パレスチナの人たちに危害を加えているのがイスラエルであり、その行ないが悪い。とりわけパレスチナの子どもや女性に暴力をふるう。

 完全なものなのではなくて、底に穴が空いてしまっているのがある。いくら根拠を持ち出せるのだとしても、完ぺきなものなのではなくて、不完全さがある。

 あくまでも世俗のところにおけるよし悪しに限られるのが自由主義だ。世俗をこえたところのものなのではない。世俗をこえたところのよし悪しは、とり除く。そこに限界があるのである。

 脱魔術化で、科学によるあり方なのが近代だ。合理のあり方である。非科学や非合理なあり方によらないようにする。できるだけ科学や合理によるようにするのが近代のあり方だけど、再魔術化がおきているのがある。非科学や非合理をもち出してしまう。

 いまは再魔術化がおきていて、前近代にたち返る動きがおきているのがある。世俗を超えたものをもち出す。イスラエルが、世俗を超えたものである宗教なんかをもち出したら、自由主義によらないあり方になってしまう。自由主義の限定されたよし悪しではないような、もっとつきつめられたよし悪しをとることになってしまう。

 歴史はくり返す。そういったことになってしまい、前近代の宗教の戦争がふたたびおきてしまう。中世の宗教の戦争では、とてもひさんなことがおきたという。西洋においてだ。人々が暴力をふるい合う。多くの人に暴力がふるわれた。万人の万人にたいする闘争(the war of all against all)だ。終わりがない争い合いである。権威が無い状態だ。

 かつての歴史をふり返ってみると、ひさんな宗教の戦争が行なわれて、その反省から作られたのが自由主義のあり方だ。他者の危害の原則が作られたのである。世俗においてはこれがもっともふさわしいものだとなった。

 あくまでも世俗におけるものに限られてはいるけど、かつての歴史のひさんなできごと(宗教の戦争)をふまえたものなのが自由主義だ。自由主義を押さえないで、世俗を超えたものを持ち出すと、失敗がおきる見こみが低くない。

 危険性が低くてぶなんなのが、自由主義を押さえることだ。イスラエル自由主義を押さえないで、世俗を超えた宗教なんかを持ち出しているのだとすると、危険性への移行(risky shift)がおきていることを示す。

 ちゃんと歴史をふり返るようにして、かつてのひさんなできごと(宗教の戦争)をくり返さないようにしないとならない。負の歴史がふまえられているものである自由主義によるようにして行く。

 イスラエルの悪い行ないの本質をぎんみしてみると、自由主義の大切さが浮かび上がってくる。中立な立ち場から判断する思想なのが自由主義であり、立ち場がかたよりすぎるとあやまちをしでかしやすい。立ち場のかたよりを改めるために、イスラエルを批判することがいる。立ち場の中心化を和らげるようにして、脱中心化することがいるのがイスラエルだ。

 参照文献 『現代倫理学入門』加藤尚武(ひさたけ) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『暴力 思考のフロンティア』上野成利(なりとし) 『歴史 / 修正主義 思考のフロンティア』高橋哲哉 『徹底図解 社会心理学 歴史に残る心理学実験から現代の学際的研究まで』山岸俊男監修 『法哲学入門』長尾龍一現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『構築主義とは何か』上野千鶴子編 『科学的とはどういう意味か』森博嗣(ひろし)

赤ちゃんの選挙権を考える:政治で、赤ちゃん(子ども)と大人を比べてみる

 〇才の赤ちゃんに、選挙の権利を与える。野党の日本維新の会はそうした政策を言っている。

 未来の世代をくみ入れて行く。高齢者の世代へのかたよりを改めるために、〇才の赤ちゃんにも選挙権を与えるべきなのだろうか。

 たしかに、人口の構成が日本はいびつになっているのはある。超高齢の社会になっているから、上が重くて下が軽い。高齢者の世代が力をもちやすくて、若者が力をもちづらい。高齢者にかたよった民主主義がおきてしまう。若ものへの負担が重くなっている。

 創造性の点から見てみたい。どれくらい創造性があるのかがある。〇才の赤ちゃんは、創造性がほぼ〇に近い。政治における創造性が無に等しいのが〇才の赤ちゃんや小さい子どもたちだ。ほとんど創造性を持っていないのだから、選挙の権利を与えても意味があるとはできづらい。

 あるていど創造性を持っているのでないと、たとえ選挙の権利を持っていてもふさわしい使い方ができるものではない。教育によって、政治についてを知って行く。最低限の政治の知識を知っているのでないと、創造性が高まらない。

 〇才の赤ちゃんや小さい子どもに比べて、大人はどれくらいの政治の創造性をもっているのかがある。もしかしたら、創造性の点では、〇才の赤ちゃんと大人とで、そんなに差はないかもしれない。

 大人は、ちゃんと政治に参加しているのかといえば、必ずしも参加していない。政治について知って行こうとしているのかといえば、必ずしもすべての大人が知って行こうとしていない。

 選挙の権利を使わない。参加しない。政治について知って行こうとしない。棄権や、無知だ。それらがかえって合理性を持つ。合理の棄権や、合理の無知だ。そんかとくかでは、選挙を棄権したり政治を知ろうとしなかったりするほうが得をする。

 むりやりにすごく低い年齢の赤ちゃんや子どもを政治に参加させようとすると、形だけの参加になってしまう。形だけの参加の点では、大人においては、形だけの参加にすらなっていないところがある。形だけの参加すらしていない大人も少なくないのだ。

 すごく創造性が高いとは言えないのが大人だ。きびしくいえば、〇才の赤ちゃんや小さい子どもがもっている創造性のていどとそこまで変わらないかもしれない。

 なんで大人の創造性がそこまで高くはないのかといえば、人を選ぶのがむずかしくなっているためなのがある。人を選ぶのがかんたんではない。うまく人を選びづらくなっているから、変な人が選ばれてしまう。おかしな人が選ばれて、ちゃんとした人が落ちてしまうのである。

 かつてに比べて今はどういう人を選んでよいのかが分かりづらい。だめな人が選ばれやすくなっている。だめであればあるほど上の地位に上がって行く。だめな人がどんどん上の地位に行く。グレシャムの法則が働く。

 小さい子どもと大人とで、そこまで創造性に大きな差はない。かえって、ちいさい子どもたちのほうが大人よりも創造性が高いかもしれない。ためしに、あくまでも仮定の話にすぎないけど、小さい子どもたちや未成年に選挙の権利を与えて、大人の選挙権をはくだつする。大人は政治に参加させない。子どもや未成年だけで選挙をやってみたら、すごい政治が良くなるかもしれない。

 いじめや差別がある。大人においてはそれらが多くおきている。かたよった思想の傾向(ideology)にそまってしまう。まだ小さい赤ちゃんや子どものころなら、ごりごりの思想の傾向にそまっていない。いじめや差別をなしづらい。大人の悪いあり方に染められる前であれば、他者の排除がおきづらいのである。差別主義者の赤ちゃんはいない。

 かしこくてちゃんとした大人だけではなくて、ばかでおろかな大人は少なくない。大人の本質をぎんみしてみるとそういった批判がなりたつ。よくよく見てみるとそこまで創造性が高くはなさそうなのが大人だけど、まずはとにかく形だけでもよいからもっと政治に参加することがいる。

 創造性は必ずしも高くなくて良いから、政治に参加して行くようにして、選挙の投票率がもっと上がったほうがよい。投票率が高いほうが良いのかどうかは色々な意見があるかもしれないけど、もっと高めたほうが良いのだと見なしたい。政治に緊張感がおきるようにするためにだ。民主主義のぜんまいをしっかりと巻いて行く。いまの日本では、民主主義のぜんまいが十分に巻かれていない。

 小さい子どもと大人のあいだで、創造性の高低の線引きが必ずしもきっちり引けないのと同じように、大人の中においても、政治の創造性の高低の線引きは必ずしもきっちりとは引きづらい。すべての大人は、政治において、何らかの意味あいでばかである。おろかである。

 寄りではなくて(距離をとって)引きで見てみると、大人どうしの中でそこまで創造性に差はなくて、かしこさとおろかさのあいだの線引きはきっちりとは引きづらい。政治においてそんなにかしこいことができているとは自信をもって胸をはれるのではないのが大人だ。

 政治においては賢人や選良はなりたちづらい。みんな似たりよったりだから、みんなで政治に参加して行く。形だけであったとしても、政治に参加することに値うちがあるのだとしてみたい。

 政治の参加者をもっと増やして、包摂して行く。外国人で、政治への参加がこばまれていて排除されてしまっている人たちがいるから、そうした人たちを包摂して行くことがいる。外国人をふくめて、すべての納税者が政治に参加できたほうがよい。政治への参加者のはばを広めて行きたい。

 参照文献 『どうする! 依存大国ニッポン 三五歳くらいまでの政治リテラシー養成講座』森川友義(とものり) 『政治参加で未来をまもろう』首藤(すとう)信彦 『創造力をみがくヒント』伊藤進 『個人を幸福にしない日本の組織』太田肇(はじめ) 『境界線の政治学杉田敦(あつし) 『ポケット図解 構造主義がよ~くわかる本 人間と社会を縛る構造を解き明かす』高田明典(あきのり) 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『政治学入門』内田満(みつる) 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『「他者」の起源(the origin of others) ノーベル賞作家のハーバード連続講演録』トニ・モリスン 荒このみ訳 『アイデンティティ(identity) / 他者性(otherness) 思考のフロンティア』細見和之(ほそみかずゆき) 『差別原論 〈わたし〉のなかの権力とつきあう』好井裕明(よしいひろあき)

イスラエルの国の行ないと、それへの反応:負の反応(批判)が世界でおきている

 イスラエルを批判する声が、アメリカの大学の学生からおきている。

 なぜ、イスラエルへの批判が、アメリカの大学をはじめとして世界のさまざまなところからおきているのだろうか。

 パレスチナに暴力をふるっているのがイスラエルだ。暴力をふるっているのがあるからイスラエルに批判の声が投げかけられている。

 ばあい分けをして見てみたい。分類づけで、十字の分類をしてみる。十字の、たての線と横の線による分類だ。そうすると、こういったことが見えてきそうだ。

 二つの主体がいる。いっぽうはイスラエルだ。たほうはパレスチナイスラム主義の集団だ。主体は行動者のことである。

 四つほどの場合をあげられる。一方の主体は良くて、他方の主体は悪い。これがふた組みある。あと、どちらの主体も悪い。さらに、どちらの主体もよい。

 どういうふうな立ち場をイスラエルはとっているのかといえば、イスラエルは良くて、パレスチナイスラム主義の集団は悪いとするものだ。

 四つほどの場合がある中の一つの場合をとっているのがイスラエルだ。残りの三つの場合があり、そこをとり落とさないようにしてみたい。

 二つの主体がいるとして、いっぽうが良いのであれば、その主体への批判はおきないはずだ。ところが、よいとされている主体であるイスラエルにたいして、アメリカの大学の学生をはじめとして世界のいろいろなところから批判の声がおきているのだ。矛盾である。不整合だ。協和しない。

 矛盾や不整合や不協和がおきているのが、イスラエルがとっている立ち場だ。どうやって矛盾や不整合や不協和を解消したらよいのかがある。イスラエルのやり方は、あくまでも自分たちが正しいのだとしつづけるやり方だ。

 自己の正当化や自己の合理化をすることで、矛盾や不整合や不協和を解消しようとしているのがイスラエルである。むりやりに矛盾を片づけようとしているけど、うまく矛盾が片づいていない。矛盾が深まっているのである。解決されない矛盾が残りつづける。

 どういう主体が良いのかといえば、イスラエルには疑問符がつく。イスラエルを良い主体だとするのには疑いが残る。もう一方の主体であるパレスチナイスラム主義の集団を見てみると、それを良いと見なすことはできづらい。

 どういうところに論争がおきているのかといえば、二つの主体がいる中で、一つの主体についてだけだ。論争がおきていないのが、パレスチナイスラム主義の集団についてである。その主体については、良い主体だと見なす人は世界の中であまりいない。

 どういう価値を主体がもっているのかでは、負の価値をもつ主体なのだとされているのが、パレスチナイスラム主義の集団だ。正の価値をもつ主体なのだとはされていない。

 正の価値をもつ主体なのがイスラエルだとされているのがあるけど、価値づけを逆にすることがなりたつ。負の価値をもつ主体なのがイスラエルなのである。なぜかといえば、イスラエルパレスチナに暴力をふるっているからである。

 お互いに主体どうしが争い合う。そのさいに、いっぽうの主体が良くて、たほうの主体が悪いことはあまりない。なぜかといえば、もしもいっぽうが良くてたほうが悪ければ、あまりぶつかり合いにならないのである。それぞれの主体の次元がちがう。

 争い合いがおきてしまうのは、主体どうしが同じような次元にあるからだ。似たものどうしなのである。いっぽうの主体が悪ければ、たほうの主体もまた悪い。どっちも悪い。事例としてはそうしたことがある。主体どうしが共通点をもつ。争い合うと、ぜんぜんちがっているようであったとしても、お互いにどこか似てきてしまう。相互の作用がはたらく。

 ばあい分けしてみると、四つの場合があるなかで、どちらの主体も悪い場合がある。その場合に当てはまるのが、イスラエルパレスチナイスラム主義の集団のぶつかり合いだろう。イスラエルはどこからどう見ても誰がどう見てもまちがいなく良い主体なのだとまでは見なしづらい。

 自己欺まんの自尊心をもつ。虚栄心をもつのが人だ。人の集団である国は、自己欺まんの自尊心をもつので、国どうしがぶつかり合ってしまう。戦争がおきる。暴力がふるわれる。性悪説で見てみればそう見なすことがなりたつ。

 人の悪さがある。人の集まりなのが国だから、国は悪さをもつ。自己欺まんの自尊心をもつことになる。国なのがイスラエルだから、主体としてのイスラエルは悪さをもつ。けっしてどこからどう見ても誰がどう見てもまちがいなく良いのが主体としてのイスラエルではないことがわかる。

 謙虚(けんきょ)さをもちづらいのが国だ。理性の反省をしづらい。戦争でとことんまで負ける(敗れる)くらいまで行かないと反省できづらい。抑制がかかりづらい。おろかさを持つ。かしこいとは言えないところがあるのがイスラエルにはある。

 イスラエルだけではなくて、かつての日本もまた、行きつくところ(戦争の敗戦)まで行かないと理性の反省ができなかったのである。抑制と均衡(checks and balances)がかかっていなかった。たとえ理性の反省ができたとしても、一時のことにすぎず、すぐに忘れてしまう。

 いまの日本では、自己欺まんの自尊心がまたおきている。虚栄心がおきている。国の政治の右傾化だ。イスラエルと同じような悪さがあるのがいまの日本である。主体としての国には悪さがあるから、そこに気をつけるようにしたい。

 参照文献 『日本の刑罰は重いか軽いか』王雲海(おううんかい) 『法哲学入門』長尾龍一現代思想を読む事典』今村仁司編 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『暴力 思考のフロンティア』上野成利(なりとし) 『クリティカル進化(シンカー)論 「OL 進化論」で学ぶ思考の技法』道田泰司(みちたやすし) 宮元博章(みやもとひろあき) 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや) 『ナショナリズム 思考のフロンティア』姜尚中(かんさんじゅん) 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『構築主義とは何か』上野千鶴子編 『国家のエゴ』佐藤優(まさる) 姜尚中(かんさんじゅん) 『思考のレッスン』丸谷才一(まるやさいいち) 『右傾化する日本政治』中野晃一(こういち) 『歴史 / 修正主義 思考のフロンティア』高橋哲哉 『子どものための哲学対話』永井均(ひとし) 『本当にわかる論理学』三浦俊彦 『これが「教養」だ』清水真木(まき)

水俣病の記憶、たった三分間だけの不条理について:自由主義(liberalism)から見てみる

 たった三分間しか、話す時間があたえられない。

 公害である水俣病の被害者にかかわる人たちが、三分間ほどしか話す時間を与えられなかった。環境省の大臣と役人が与えた時間だ。

 三分間におさまらずにそれを超えて話した人がいたが、それにたいして批判の声が言われている。三分間でおさめるべきだったのだとする声だ。この声はふさわしいものなのだろうか。

 事実と価値の二つにふ分けしてみたい。その二つにふ分けしてみると、話す時間が三分間なのは何々であるの事実(is)にすぎない。何々であるの事実から、何々であるべきの価値(ought)を自動ではみちびけそうにない。自動でみちびいてしまうと自然主義の誤びゅうにおちいってしまう。

 たとえ三分間の話す時間が定められているのだとしても、それを絶対の自明性をもつものだとは見なせそうにない。自明性の厚い殻(から)に、ひびを入れてみる。からにひびを入れてみる試みがなりたつ。三分間を自然化しないようにして、脱自然化して行く。

 自然によるものなのであれば、人の力では変えることができない。社会の中のものなのであれば、人の力で変えることがなりたつ。一から作り直す。脱構築(deconstruction)だ。人為や人工によって構築されたものなのが三分間の時間の決まりごとなのだから、脱構築がなりたつ。

 そういうふうな事実になっているものがあるのだとしても、それはたんに事実についてを知ったのにすぎない。事実を知ったのだとしても、価値はまた別の話だ。事実から価値は出てはこないのである。価値は価値として、事実とは別に見て行く。ふ分けすることがいる。

 仮定の話として、三分間だけではなくて、もっと長い時間だったらどうだっただろうか。仮定をしてみると、三分間ではなくてもうちょっと長くて五分間、一〇分間、三〇分間などとしてみる。

 時間を長めにしてみて、三分間より以上にしてみると、どういうふうになったのかがある。あくまでも仮定の話にすぎないけど、もしも話す時間が長かったとしたら、まずかったのである。誰にとってまずかったのかといえば、日本の国にとってだ。環境省の大臣や役人にとってはなはだまずかったのである。

 短い時間で話してもらわないと困る。長めの時間で話されるとさしさわりがおきる。日本の国の立ち場からするとそうなるのである。長く話されれば話されるほど、日本の国のぼろが出てくる。日本の国にとって益にならなくなる。不利益がどんどんおきることになってしまう。

 とことんまでやることがいるのが政治だ。日本の国にとっては、とことんまで話されるとまずいのである。政治をやるつもりがないのが日本の国だ。とことんまでやられたくないのである。とことんまでやられたら、日本の国の悪いところがどんどん明らかになってしまう。日本の国の負の歴史が明るみに出る。

 立ち場を変えて見てみたい。立ち場や視点の反転の可能性の試し(test)をしてみると、三分間の話す時間は、普遍化することができそうにない。つねに当てはまる性質なのだとはできづらい。被害者にかかわる人たちにとってみれば、あまりにも短い時間すぎる。もっと長い時間において話す権利が与えられるべきである。

 中立な立ち場から判断する思想なのが自由主義(liberalism)だ。自由主義からしてみると、三分間の話す時間は立ち場にかたよりがありすぎる。話す時間が短いほどよい立ち場と長いほど良い立ち場の二つがあるととらえることがなりたつ。

 二つの立ち場がある中で、三分間の話す時間は一方の立ち場にかたよりすぎだ。二つの立ち場のあいだを取るのだとしても、三分間にはならないはずだ。そんなに短い時間になるはずはない。

 自由主義からしてみれば、話す時間が三分間なのはおかしいことが分かる。固有の性質である特殊なあり方なのである。三分間より以上のもっと長い時間が、話す人(被害者にかかわる人)に与えられるべきだったのが自由主義からは分かる。立ち場があまりにもかたよりすぎていて、もう一方の立ち場(被害者の立ち場)がくみ入れられていない。

 参照文献 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『環境 思考のフロンティア』諸富徹(もろとみとおる) 『本当にわかる論理学』三浦俊彦構築主義とは何か』上野千鶴子編 『政治家を疑え』高瀬淳一 『差別原論 〈わたし〉のなかの権力とつきあう』好井裕明(よしいひろあき) 『歴史 / 修正主義 思考のフロンティア』高橋哲哉脱構築 思考のフロンティア』守中高明 『入門 パブリック・リレーションズ 双方向コミュニケーションを可能にする新広報戦略』井之上喬(たかし)編 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや) 『ブリッジマンの技術』鎌田浩毅(ひろき) 『頭がいい人の聞く技術』樋口裕一

環境省と公害の被害者とのあいだの交通(communication)

 水俣病の被害者の人たちに、聞きとりを行なう。

 環境省の大臣(環境相)が被害者の人たちに聞きとりをしたが、持ち時間が三分しか与えられなかったという。三分を超えて話した人がいたが、役人はマイクの入力を切った。

 たった三分ほどしか話す時間が与えられていなかったが、それを一秒でも超えたらいけないのだろうか。三分を少しでも超えたら、大臣はもういっさい聞くことはいらず、マイクの入力を切ってもよいのだろうか。

 与えられていた持ち時間である三分を超えてしまったのは、一つの現象だろう。その現象だけをとらえるのだと、なぜその現象がおきたのかがとり落とされてしまう。なぜその現象がおきたのかを問いかけることがいる。なぜそうなのか(why so?)の問いかけをくり返す。なぜなぜ分析だ。

 挙証の責任を転じてみたい。決められた持ち時間を守れなかったのは、あたかも被害者が悪いことであるかのようになるけど、そうではなくて、国や役所に悪さがある。あまりにも与えられた持ち時間が短すぎたのである。

 挙証の責任を転じるようにしてみると、国や役所の責任が問われることになる。三分間だけではなくて、できればもっとたっぷりと話す時間が与えられるべきだろう。

 おもてなし(hospitality)の気持ちがどれだけあったのかがある。何がいるのかといえば、被害者をおもてなしする気持ちである。その気持ちを大臣や役人が持っていなかったのであれば、お義理で聞きとりをしたのにすぎない。冷たい義理だ。人情をともなった温かい義理ではなかったのである。

 すごい短い時間しか話す時間が与えられないのだと、国や役人に有利にはたらく。国や役人は強い立ち場であり、被害者は弱い立ち場だろう。法の決まりは、強い立ち場に有利になるものなのだとまずい。弱い立ち場に有利にはたらくものであることがいる。

 理想論としては、政治家や役人はすごい温かい義理であることがいる。人情をともなった義理だ。そこまでは現実論としてはのぞめないのだとしても、もうちょっと温かさがあってもよかったのがある。人情をもっと持つようにするべきだった。

 もっと役人が人情をもっていて、温かい義理であったとしたら、三分間をはみ出して話したのだとしても、マイクの入力を切ることはなかっただろう。三分間より以上に話しても、許容されただろう。話す必要性があるから話しているのであり、まったく無駄なことを話しているのではないのだから、許容されるのがのぞましい。

 何がもっともかんじんなことなのかといえば、話すことが三分間におさまるかそれともおさまらないかにあるのだとはできそうにない。時間の内におさまるかどうかがかんじんなことなのではなくて、話の内容にどれくらいの値うちや意味あいがあるかどうかがかんじんだ。

 話す長さが三分間より以上になって、時間をはみ出す。時間が長くなれば、情報が増えるのだから、情報の値うちが高まる。より深く知ることがなりたつ。話す時間が長くなれば、それだけ情報が増えて、より良くなるととらえることがなりたつ。まったく意味がない雑音(noise)が話されていたわけではないだろう。

 どういうふうであれば良かったのかといえば、三分間でないほうが良かった。三分間だけではなくて、もっと長めの時間があればよかった。時間の長さは資源(resources)に当たるものであり、時間が短すぎると資源がとぼしい。資源がとぼしいと創造性が低くなってしまう。

 政治家や役人にも、被害者にも、どちらにも資源がもうちょっとあれば、創造性を高くすることがのぞめる。とんでもなく創造性を高めるべきだとするのはのぞみすぎかもしれないが、少しであったとしても創造性を高めて行くようにつとめるべきだろう。そのために、資源が乏しすぎるのを改めるようにして、時間の長さをもうちょっと持つようにすることがあってよい。

 参照文献 『入門 パブリック・リレーションズ』井之上喬(たかし) 『創造力をみがくヒント』伊藤進 『法とは何か』渡辺洋三(ようぞう) 『社会認識の歩み』内田義彦(よしひこ) 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『義理 一語の辞典』源了圓(みなもとりょうえん) 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『トヨタ式「スピード問題解決」』若松義人 『考える技術』大前研一 『「責任」はだれにあるのか』小浜逸郎(こはまいつお) 『環境 思考のフロンティア』諸富徹(もろとみとおる) 『ブリッジマンの技術』鎌田浩毅(ひろき) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『差別原論 〈わたし〉のなかの権力とつきあう』好井裕明(よしいひろあき)

アメリカの学生に学ぶ希望(hope)の持ち方:政治における希望(期待)と絶望のつり合い

 政治で、うったえかけを行なう。

 アメリカでは、大学の学生がうったえかけの運動を行なっているという。イスラエルを批判する声をあげる。イスラエルパレスチナに暴力をふるっているのを批判する。

 学生が政治のうったえかけの運動をするのには疑問の声もあるが、そこには希望はあるのだろうか。

 一〇割の希望もなく、一〇割の絶望もまたない。希望は虚妄であるのとともに、絶望もまた虚妄である。中国の文学者の魯迅(ろじん)氏はそう言う。

 せっかく大学に入ったのに、そこを退学させられてしまいかねないような、政治のうったえかけの運動を行なうのはもったいない。考えものだ。日本のテレビ番組の出演者はそう言っていた。

 日本の大学と、アメリカの大学は必ずしも同じあり方ではないかもしれない。日本の大学は入るのがむずかしいが出る(卒業する)のはかんたんだ。アメリカの大学は入るのはかんたんだけど出るのは難しいという。

 希望学から見てみると、希望(hope)の四つの要素がある。思い(wish)と具体性(something)と実現性(come true)と行動(action)だ。

 思いとしては、イスラエルパレスチナに暴力をふるっているのを許せない。許容できない。具体性としては、イスラエルパレスチナに暴力を振るうのを何とかして止めさせたい。世界で平和をなして行きたい。戦争を防ぎたい。反戦だ。

 実現性は、こうあったらよいとするものをじっさいに現実化できるかどうかだ。現実化するために何かをおこなって行くのが行動である。

 日本の学生とアメリカの学生を比べてみると、アメリカの学生の方がより希望をもちやすいかもしれない。日本人は日本語が母語であり、どうしても日本語の制約の条件をもつ。アメリカの学生は英語が母語だから、そこがよく働く。英語は国際語だから、英語を使えるほうが希望を持ちやすいのである。

 政治のうったえかけの運動を学生がやるとして、そこにどれだけの有効性があるのかがある。有効性においては、臨界の質量(critical mass)がある。たくさんの人たちがうったえかけの運動をやれば、臨界の質量にいたりやすい。少しの人たちしかうったえかけの運動をやらないのだと、臨界の質量にとどきづらい。

 みんなが見て見ぬふりをするのだと、臨界の質量にとどかないのである。多くの人を動員(mobilization)することができれば、たくさんの人たちが行動を共にすることになるから、臨界の質量にまでいたりやすくなる。社会を動かす力になる。何か悪いことをやめさせられる。悪いことが行なわれていることに、歯止めをかけられる。

 どれだけ希望が持てるのかといえば、あまり希望が持てないことが多い。日本の政治なんかだと、希望を持ちづらくて、悪いことに歯止めをかけづらいのがある。臨界の質量にまでいたりづらいのである。

 希望を持ちづらい中で、悪いことがなされてしまう速度を、少しでも遅らせて行く。速い速度で悪いことがやられてしまうのを、少しでも遅らせる。それくらいだったらできるかもしれない。

 現実はなかなかきびしいから、悪いことがなされる速さを遅らせる試みくらいしかできないのがあり、限界がある。アメリカの現実もきびしさがあるだろうけど、アメリカよりもより希望を持ちづらいのが日本にはあるかもしれない。

 日本の政治には希望を見出しづらいところがある。希望を持てないからといって、絶望におちいるのはのぞましいものではない。中庸(ちゅうよう)さがだいじだ。ほどほどになるようにする。政治ではほどほどさもまたいる。期待しすぎず、絶望しすぎずのつり合いだ。

 何でも悪くとらえる態度なのが悲観主義だから、そうならないようにして、希望を少しでも持つことがいりそうだ。その点では、アメリカの学生たちを見習うのがあってもよい。

 参照文献 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『入門 パブリック・リレーションズ』井之上喬(たかし) 『希望のつくり方』玄田有史(げんだゆうじ) 『魯迅(ろじん)に学ぶ批判と抵抗 佐高信の反骨哲学』佐高信(さたかまこと) 『構築主義とは何か』上野千鶴子編 『徹底図解 社会心理学 歴史に残る心理学実験から現代の学際的研究まで』山岸俊男監修 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『ポリティカル・サイエンス事始め』伊藤光利編 『原理主義と民主主義』根岸毅(たけし) 『暴力 思考のフロンティア』上野成利(なりとし) 『法哲学入門』長尾龍一 『情報政治学講義』高瀬淳一

価値観の逆転:イスラエルとアメリカの正当性(rightness)に疑問を投げかける

 イスラエルを批判する。学生による示威(じい)の運動が、アメリカの大学でおきているという。

 学生による示威(demo)の運動は、アメリカの国の権力から押さえこまれている。学生たちとアメリカの国の権力とがぶつかり合う。

 すべての人たちが学生による示威の運動をよしとしているのではなくて、それにたいする疑問の見かたもある。パレスチナイスラム主義の集団の肩をもつことになり、それへの批判の声がある。

 あたかも戦後の学園の闘争(紛争)をほうふつとさせるところがあるけど、いまおきている学生による示威の運動をどのようにとらえることができるだろうか。

 イスラエルがやっていることに、何の声もあげない。何も批判をしない。自発の服従である。イスラエルは正義である。アメリカは正義である。みんながイスラエルアメリカを正義だとしていれば、十分に自発の服従を調達できていることを示す。自発の服従の契機がある。

 みんなが自発に服従しているわけではない。学生の中には、イスラエルアメリカを批判する人たちがおきていて、示威の運動をやっている。自発の服従の調達が不十分であることをしめす。そこまで十分には自発の服従が調達できていないのである。

 正当性(rightness)を問いかけてみる。イスラエルアメリカがやっていることにたいして、正当性を問いかけてみることがいる。正当性を問いかけてみると、イスラエルアメリカがやっていることに疑問符がつく。正しくないところがある。パレスチナの人たちに暴力をふるっているのがイスラエルだ。

 学生たちが声をあげるのを、上から抑えこむ。国はそれをやることができる。国の公の装置をもっているからだ。いざとなれば、国の公の装置を使うことができるのである。警察や軍隊だ。

 あくまでもさいごのほうに取っておく手だてなのが、国の公の装置を使うことだ。はじめの方では使わない。自発の服従をうながす。自発に服従してくれればそれにこしたことはないのである。わざわざ国の公の装置をもち出さずにすむ。

 正しいのはイスラエルアメリカだ。悪いのはパレスチナイスラム主義の集団である。正しいものと、悪いものを線引きする。正しいものなのがイスラエルアメリカだとする。国はその知識を人々に広めて行く。知と権力だ。

 国が知識を広めて行くさいに用いるのが、国の思想の傾向(ideology)の装置だ。報道などである。学校もそれに当たる。国の思想の傾向の装置の一つなのが学校であり、学校で学生が国を批判するのはのぞましくない。国を批判する声をあげる場としてあるのではないのが学校だ。国におとなしく従ってもらうためにあるのが学校なのである。

 正当性がそこまでないのが、イスラエルアメリカがやっていることだろう。それとともに、パレスチナイスラム主義の集団がやっていることもまた、そこまで正当性はない。

 良いものは良くて、悪いものは悪いのだとはできないところがある。良いものは悪くて、悪いものは良いとなってしまう。価値がひっくり返ってしまうところがあり、良いものだとされているイスラエルアメリカは悪い。悪いものだとされているパレスチナイスラム主義の集団は、悪そのものだとは言い切れないところがなくはない。少なくとも、パレスチナの人たちは悪くない(まったく罪はない)。

 価値に当たるのが良さや悪さだ。事実ではない。価値と事実の二つをふ分けすることがなりたつ。価値は人それぞれのところがあるから自由さをもつ。上から強制することができづらい。権力で価値を押しつけないかぎりは、自由による。価値の多神教である。

 アメリカの学生たちが示威の運動をやっていることからうかがえるのは、価値が必ずしも固定化されていないことだろう。良いものは良いだとか、悪いものは悪いとはできづらくて、良いものは悪いとか、悪いものは良いとなっているところがある。イスラエルアメリカは良いものだとされているけど、それらについて正当性を問いかけることがいる。

 参照文献 『日本の難点』宮台真司(みやだいしんじ) 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや) 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『境界線の政治学杉田敦(あつし) 『構築主義とは何か』上野千鶴子編 『暴力 思考のフロンティア』上野成利(なりとし) 『ナショナリズム 思考のフロンティア』姜尚中(かんさんじゅん) 『公私 一語の辞典』溝口雄三 『警察はなぜあるのか 行政機関と私たち』原野翹(あきら) 『テロリズムと日常性 「九・一一」と「世なおし」六十八年』加藤周一 凡人会 『原理主義と民主主義』根岸毅(たけし) 『入門 パブリック・リレーションズ』井之上喬(たかし) 『十三歳からのテロ問題―リアルな「正義論」の話』加藤朗(あきら) 『増補 靖国史観 日本思想を読みなおす』小島毅(つよし) 『法哲学入門』長尾龍一現代思想の断層 「神なき時代」の模索』徳永恂(まこと) 『本当にわかる論理学』三浦俊彦

立憲主義(憲法主義)の重要性:政党や政治家と、立憲主義

 どういったものが野党の第一党であれば、日本の国は良くなるのだろうか。

 立憲民主党が野党の第一党であれば、日本はよくならない。野党である日本維新の会の代表はそう言う。

 たしかに、維新の会の代表が言うように(それとはちょっとちがうが)、立憲民主党が野党の第一党であるだけであれば、必ずしも日本はよくならないかもしれない。

 どういったものが与党であれば、または野党の第一党であれば、日本はよくなるのかがある。たとえば、維新の会が与党であれば、または野党の第一党であれば、日本はよくなるのか。れいわ新選組が与党であれば、または野党の第一党であれば、日本はよくなるのだろうか。

 立憲民主党が野党の第一党であるのは、日本にとって必ずしも悪いことではない。積極によいことかどうかはともかくとして、とんでもなく悪くはないだろう。いちおうは与党である自由民主党を批判できているからだ。内閣を支持せずに、批判して行く。野党(opposition)は与党を支持しないで批判するのが仕事だ。

 具体のものなのが立憲民主党だ。具体からいったん離れて抽象論によって見てみると、立憲民主党であるよりも、立憲主義(憲法主義)の野党がいる。立憲主義の野党であれば、日本はよくなるのである。

 よりたしかに日本の国をよくして行くためには、与党が立憲主義であることがいる。自民党を見てみると、立憲主義によれていない。独裁主義や専制主義になっている。独裁の政党といっても必ずしも言いすぎではないのが自民党だ。

 自民党立憲主義によれていなくて独裁なのがあり、その年数はけっこう長い。一九五五年に作られたのが自民党であり、そこからほぼずっと権力を握りつづけている。ずっと連続して権力をにぎりつづけてきたといっても必ずしも言いすぎではないだろう。六〇数年くらいだ。戦後の日本はあんがい(いがいと)独裁の国なのである。

 どういうふうであればその国の政治がよいありようなのかがある。たとえ野党の維新の会が与党になったり野党の第一党になったりしても、維新の会が立憲主義によれていなければ日本はよくなりづらい。立憲主義の政党でないと、独裁や専制をよしとしてしまう。それだと日本はよくなりそうにない。

 立憲主義自由主義(liberalism)によるようにして行く。中立な立ち場から判断する思想なのが自由主義だ。与党や野党の第一党が、立憲主義自由主義なのであれば、日本はよくなりやすい。すべての野党が立憲主義によっていて、野党がともに共闘し合う。そうできれば、日本の政治をよくして行ける。

 どこの政党が力をもつかであるよりも、その政党が立憲主義自由主義によれているかどうかがより重要だ。理想論としてはそうだけど、現実論もまたある。いったん理想は置いておくとして、現実論としては、国の中で内戦がおきるよりかはまだしも独裁主義のほうがましだ。内戦はとてもひさんだからである。

 日本をよくして行くためには、独裁主義や専制主義から脱して、立憲主義自由主義によるようにして行く。ぎゃくにいえば、立憲主義自由主義によれていなくてそれらがこわされてしまっているから、日本では政治の不信が深まっているのである。

 参照文献 『憲法という希望』木村草太(そうた) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『信頼学の教室』中谷内一也(なかやちかずや) 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『ナショナリズム 思考のフロンティア』姜尚中(かんさんじゅん) 『法哲学入門』長尾龍一 『こうして組織は腐敗する 日本一やさしいガバナンス入門書』中島隆信 『「野党」論 何のためにあるのか』吉田徹 『構築主義とは何か』上野千鶴子編 『右傾化する日本政治』中野晃一(こういち)