国の内と外の境界の線(borderline)をめぐる政治:線を引くことの政治性

 そこまで自明性をもっていないのがいまの米国だろう。

 あたり前のものとして米国の語をつかう。自明性をもつものとして米国の語を使わないようにしてみたらどうか。異化してみると何が見えてくるのか。

 国どうしのあいだに引かれる線がある。線を太く引こうとするのが国家主義(nationalism)だ。いまの米国のドナルド・トランプ大統領は国家主義のあり方なのだから国どうしのあいだに太い線を引こうとしている。

 自明性の厚い殻(から)にひびを入れることを試みてみる。殻が厚みをもっているのがあるけど、それにひびを入れるようにしてみると、米国であれば、米国そのものはなり立ちづらい。

 トランプ米大統領であれば、米国そのものをとらえているのではなくて、あくまでもトランプ大統領がとらえたところのものとしての米国でしかない。

 主体なのがトランプ大統領だ。主体とは行動者のことをさす。その相手なのが客体だ。主体と客体とのあいだにきびしい線が引かれているのであれば、米国であれば、米国そのものがなり立つ。客観の米国だ。

 主体と客体とのあいだに引かれる線をよわめる。あいだに引かれた線を弱めてみると、じゅんすいな客体はなり立ちづらい。あくまでも行動者である主体がとらえたところのものでしかなくなる。トランプ大統領であれば、トランプ大統領がそうであると見なしているものにしかすぎず、それそのものなのとはちがう。

 世界の中にあるのが米国だけど、それとともに、世界でもあるのが米国だろう。世界でもあるものとして米国をとらえるのは、国どうしのあいだの線を弱めたさいのものだ。線が恣意(しい)で引かれているのだとするものである。気ままに線が引かれている。

 国の内と外のあいだに、しっかりとした線を引きづらい。内と外をはっきりと分けることができづらくなっている。日本でいえば、国が自立しているのではない。国が独立していない。日本は米国を抜きにしてはなり立たないところをもつ。戦後の日本のあり方だ。日米の談合のあり方である。

 世界社会論によってみる。いまは行きすぎた世界化(globalization)が言われているけど、国どうしの複合の相互の依存がおきている。世界化によって世界がつながり合う。世界社会としてみてみるとそれぞれの国はそこまで独立していない。国の内と外とのあいだにはっきりと線が引かれていないあり方だ。

 国の内と外とのあいだにしっかりとした線を引こうとすることそのものが、主体によってなされる線引きだ。行動者なのが主体なのだから線を引くことはできるけど、そこには主体と客体とのあいだの線があって、その線が弱まる。主体と客体とのあいだの線が弱まっていて、主体から切れたものとして客体があるのとはちがう。主体あっての客体なのである。

 主体あっての客体なのだからそこには両義性がある。行動者である主体が認識したところのものとしての客体でしかなくて、主観にとどまる。じゅんすいな客観とはちがう。トランプ大統領だったら、トランプ大統領がもつ主観によっているのだから、主体から切れた客体そのものとはなっていない。

 世界に線を引くことで国がなり立つ。国どうしのあいだに引かれた線は自然なものとはちがう。人為や人工で引いた線である。構築されたものである。線を引くのが行きすぎている。

 行きすぎた線引きがあるけど、それを弱めてみる。線を引くことによって国の内と外ができあがるが、線の引きすぎを弱めてみると、はっきりとは内と外を分けられなくなる。そうすると、米国だったら、それのもつ自明性が失われる。自明性の厚いからにひびがおきる。ひび割れがおきる。

 ひびが入っていないかのようでいて、ひびが入りまくっているのが米国だろう。ひびがたくさん入っていてこその米国だ。ふつうに米国の語をなにげなく使うのだったら、そこには一切ひびが入っていないかのようになってしまうけど、そこをよくよく改めてしっかりと見てみると、いっぱいひびが入りまくっている。国がもつ自明性が失われている。国のあいだに引かれた線がしい性をもつ。

 線引きのしい性は、二〇世紀の社会科学で見いだされたものである。社会科学の知識である。国どうしのあいだにはっきりとした線を引きづらい。主体と客体のあいだにしっかりとした線を引くことができず、両義性をもつ。

 ふつうは米国といったらそれがあたかもじっさいに確かにあるかのようだけど、国は大きさがすごく大きいものなのだから手でさわれるものとはちがう。手でつかむことはできないから、心の中の像(image)を外に表現したものだ。表象である。

 みんなで幻想をもち合う。共同の幻想なのが国である。共同の幻想としてしかないものなのが国だろう。共同幻想論は評論家の吉本隆明氏による。数量でいえば三人より以上の領域のものなのが共同の幻想だ。三人より以上の集団でもち合う表象である。

 何があるのかといえば法律である。国はないものだけど法はある。米国だったら米国の法はあるといえるけど、国は言説の中にしかないものだ。言説の中だけではなくてじっさいに国があるのだとするのは非科学であり未開の擬人(ぎじん)化の思考である。修辞(rhetoric)として擬人化することによって、ないものがあるものだとされることになる。

 二〇世紀の社会科学の知識をおさえてみると、国の内と外とのあいだの線はきっちりとは引きづらい。線のあいだに欠けがないような実線ではなくて、線のところどころに欠けがあり切れている破線(はせん)である。国どうしのあいだの線は引かれてはいるものだけど切れ目がいくつも入っている。

 国に視点をおいてみると、世界化が行きすぎているかのようにとらえられる。国家主義によるとらえ方だ。視点のおきどころを変えてみて、世界社会に視点をおいてみると、世界社会はあるといえるけど国はないのだとできる。国はないものなのだから、ゆきすぎているのは世界化であるよりも線引きである。国どうしのあいだに太い線を引きすぎている。線引きの自然化が行きすぎている。

 日本の国の土地はすべてが日本のものではない。日本の土地であっても米国に支配されているところがいくつもある。日本の土地はいったい誰のものなのかと問いかけてみると、すべてがすべて日本のものなのではなくて米国のものであるところがいくつかある。日本は敗戦した国なのだから、戦勝した米国に土地の一部を支配されている。とくに沖縄県は米国の軍事の基地が日本の中でいちばん集中して置かれている地域だ。

 日本の土地の一部を支配しているところのものである米国とはいったい何かといえば、それは世界社会でもある。米国は世界社会であるところがあるから、日本の国はあるようでいてないのだとできる。日本は世界社会との一体化に前向きだ。一体化をあまりこばんでいない。日本とほかの国とのあいだに引かれている線は実線ではなくて破線である。

 多義またはあいまいさをもつのが米国だ。世界社会のところをもっていて、移民の国である。いろいろな民族の人たちがいる。米国だけではなくて日本もまた単一の民族によっているのとはちがう。戦前の日本でも、日本は単一の民族の国なのではないとされていたからそれを思いおこしたい。

 戦前の日本でも、日本は多くの民族からなっているのだとされていたという。戦前の日本は自国のことを帝国と言っていたのがあり、日本人は上の階層(class)でそれ以外の東洋の民族の人たちは下の階層におかれていた。

 修辞学では、多義またはあいまいさによる虚偽がある。たしかな自明性をもっているのかどうかを確かめてみると、米国はそれがなんであるのかの自明性をそこまで持っていなくて、それが失われている。米国に従属している日本もまた、多義またはあいまいさによっている。西洋になりきれず、東洋にもなりきれないのが日本である。二重性をもつ。

 非科学なのが擬人化の思考だ。擬人化や自然化が行きすぎると、本質主義や客観主義におちいってしまう。本質が存在に先だつのだとするのが本質主義である。本質のところには国を当てはめることがなり立つ。米国であれば、米国は存在に先だつ。それぞれの個人よりも米国が先だってしまい、国の権力に従わせられる。

 実存主義によってみると、本質主義をさけられる。実存は本質に先だつのだとできる。本質のところには国を当てはめられるから、米国だったら、実存は米国よりも先だつ。実存は個人のことをさすのだとできるから、国の権力をぜったい化するのを防げる。個人の尊厳をおもんじてゆく。

 客観主義だと客観に国があるかのようにできるけど、共同の幻想にとどまるものである。行動者である主体がとらえるところのものとしてしか国はない。トランプ大統領だったら、トランプ大統領がとらえるところのものとしての米国だ。

 トランプ大統領が自分で表象するところのものとしての米国はかなりいいかげんなものだろう。ほかの国であっても、へいきで武力を使って攻撃する。日本の土地の一部を支配していて、その特権をいっこうに手放そうとはしていない。日本の土地の一部を支配する権利をとうぜんのごとくにもっているかのように見なしている。

 客観はなり立ちづらいのがあるから、国の内と外のあいだに太い線を引かないようにして、国の外のものであってもできるだけ排除せずに包摂してゆく。国の外にある国際の機関を排除しないで包摂していったほうがまっとうだ。

 擬人化や自然化をしてしまうと、ちゃんとした国際の機関を排除してしまいがちだ。国の中がすごく汚れているのだとすると、その汚れをすこしでもきれいにするために益になるのがちゃんとした国際の機関だ。国の中の汚れのそうじの役をはたすのだから、そうじする機関だともできる。

 そうじすることがないと、国の中にどんどん汚れがたまりつづけてゆく。米国の中にはそうとうに汚れがたまっているからそうじをしないとならない。トランプ大統領は米国の中心にいるのだから汚れのため役だ。そうじの役とはちがう。擬人化や自然化をすることで、本質主義や客観主義になるところがあり、どんどん国の中に汚れがたまってゆく。

 世界社会はあるけど国はないのをくみ入れてみると、国の外にあるものを排除しないほうがよいことになる。国の外にあるものでも包摂するようにしたほうが、国の中にある汚れをそうじすることに役に立つ。国の外にあるものであっても、それはいわば国の内にあるものともできるから、国際の機関だったら、国内の機関だともできる。

 国際の機関は、国内の機関でもあり、国がためている汚れのそうじをになうことがある。ちゃんとした機関を排除してしまうと、そうじの機会がうばわれることになり、よくない秩序のあり方がつづく。よくない秩序のあり方がつづくと、どこかの時点で大そうじをやらないとならなくなる。大ごとである。

 大そうじになると大変なことになるから、日ごろからのこまめなそうじが大事である。そのためにあるのが民主主義だ。このさいの民主主義とは、ちゃんと行なわれている、形骸(けいがい)化していない民主主義のことである。

 いまの日本は戦後の民主主義がかなり形骸化している。日本の民主主義はぜんぶが戦後の民主主義だ。いったん民主化されて、戦後の民主主義がなり立ったとしても、それがなり立ったとたんに形骸化がはじまってしまう。戦後であるよりも、(新しい)戦前であるかのようになっているのがいまの日本だろう。いまいちど戦後の日本の原点にたち返り、普遍(ふへん)を見直すようにしたい。

 よほどちゃんとした民主主義ができていないとどんどん国の中に汚れがたまってゆく。専制主義や権威主義であればなおさら汚さがたまり、国の外に吐き出されない。こまめなそうじのためには、国の内と外のあいだに太い線を引きすぎないほうがよい。どちらかといえば外に近い辺境のところにいるのがそうじの役だ。

 参照文献 『カルチュラル・スタディーズ 思考のフロンティア』吉見俊哉(よしみしゅんや) 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや) 『橋下徹の問題解決の授業 大炎上知事編』橋下徹(はしもととおる) 『JAPAN UNMASKED : The Character & Culture of the Japanese』Boyé Lafayette De Mente 『境界線の政治学』杉田敦(あつし) 『現代思想を読む事典』今村仁司(ひとし)編 『法哲学入門』長尾龍一 『構築主義とは何か』上野千鶴子(ちづこ)編 『日本の難点』宮台真司(みやだいしんじ) 『社会学になにができるか』奥村隆編 『砂漠の思想』安部公房(こうぼう) 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『アジア辺境論 これが日本の生きる道』内田樹(たつる) 姜尚中(かんさんじゅん) 『ナショナリズム 思考のフロンティア』姜尚中 『京大芸人式日本史』菅広文(すがひろふみ) 『十三歳からの日本外交 それって、関係あるの!?』孫崎享(まごさきうける) 『科学的とはどういう意味か』森博嗣(ひろし) 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『歴史家が見る現代世界』入江昭(あきら) 『グローバリゼーションとは何か 液状化する世界を読み解く』伊豫谷登士翁(いよたにとしお) 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『超入門! 現代文学理論講座』亀井秀雄 蓼沼(たでぬま)正美 『絶対に知っておくべき日本と日本人の一〇大問題』星浩(ほしひろし) 『暴力 思考のフロンティア』上野成利(なりとし) 『国体論 菊と星条旗』白井聡(さとし) 『Japan,the Ambiguous,and Myself:The Nobel Prize Speech and Other Lectures』Kenzaburo Oe 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『ポストコロニアル 思考のフロンティア』小森陽一 『過去は死なない メディア・記憶・歴史(The Past Within Us―media,memory,history)』Tessa Morris-Suzuki 田代泰子(たしろやすこ)訳 『公私 一語の辞典』溝口雄三 『近代日本の戦争と政治』三谷太一郎(みたにたいちろう) 『「戦争と知識人」を読む 戦後日本思想の原点』加藤周一 凡人会

徳のある国際機関、福のある国(富国)

 いまの米国をよい国だといったらうそになりそうだ。

 よい人たちがたくさん集まったらその国はよくなるのだろうか。国とはつまるところ人の集まりなのだから、悪い人たちがいっぱい集まったらその国は悪くなるのだろうか。

 国が悪いことをなす。武力の行使をやったのが米国なのだから、悪いことをなしたのだとされている。国際の法の決まりをやぶった。国際刑事裁判所(International Criminal Court)からきびしく批判を受けている。

 国際刑事裁判所(ICC)は米国などの具体の悪い行動をさばいている。国を代表する政治家などの具体の悪い行動をとり上げているのがあるけど、それとはべつに抽象論によって見てみたい。

 具体論で国の悪さを見てゆくのは大事なことだけど、抽象論によってみると、例え(allegory)をもち出せる。国を人に例えてみる。人に例えてみると、悪い人のようなものとして国をとらえることがなり立つ。

 悪い人とは何か。いちがいにはっきりとは定義づけすることはできないが、一つには英国の哲学者のトマス・ホッブズ氏の言うことをもち出せる。

 ホッブズ氏がいうところの悪い人とはこういったものだ。子どものような大人である。強壮になった子どもだ。

 強くなった子どもが悪人なのだから、きょじゃくな大人であれば悪人ではないことになる。きょじゃくな大人だったら子どもに近い。虚弱であれば力をもっていないから、子どものように害はあまりないことになる。

 子どもを悪人とはできないわけは、理性の自由をもっていないからである。ぜんあくの彼岸(ひがん)にあるのが子どもだ。罪も悪もない。義務を負っていない。害をもたないものである。

 米国のドナルド・トランプ大統領は悪人なのだろうか。トランプ大統領をみてみると、まるで子どものような大人である。体つきが大きくていかにも強そうな男性だ。強壮になった子どもである。

 国際刑事裁判所の人たちに制裁をかしているのがトランプ大統領の政権だ。米国から制裁をかされているのが国際刑事裁判所であり、あたかも悪い集団であるかのような印象がおきる。

 なんで悪い集団や悪い人であるかのような印象がおきるのかといえば、米国などから制裁をかされているのだから、そのわけとして、なにか悪いところがあるのにちがいないといったふうについ思えてしまうからだ。

 できるだけ正しくおしはかってみると、たとえ米国などから制裁をかされたからといって、そこから必ずしもその制裁をかされている集団や人が悪いのだとは結論することはできそうにない。

 哲学では福と徳の一致の問題があるとされる。米国などから制裁をかされるのは福ではなくて禍(か)だ。わざわいであり不幸せである。禍だけど、徳があるのが国際刑事裁判所である。このさいの徳は、道徳や倫理としてよいといった意味あいだ。

 福と徳がかんたんに一致するのであれば、世界は公正(justice)であることになる。どうしてもついつい世界は公正であるのだと思いがちなのがある。米国などから制裁をかされているのなら、その集団や人は悪いのだと思いがちになるけど、そうは結論することは必ずしもできないのである。世界は公正ではない。

 原因と結果の再現性があれば、科学として世界はつねに公正だ。福と徳は、科学でいう原因と結果のつながりとはちがうから、その二つはしばしば一致しない。科学でいう原因と結果の結びつきではなくて、どちらかといえば文学に近い。物語である。

 よいことをしたらよい目にあうだとか、悪いことをしたら悪い目にあうだとかは、いましめるために言われる物語であり、じっさいにはそうではない事例がけっこうある。よいことをしたら悪い目にあったり、悪いことをしたらよい目にあったりする事例は少なくないものだろう。

 福はあるけど徳はないのがいまの米国だ。福があるのなら徳もあるのでないと、つり合いがとれない。世界が公正であるためにはもしも米国に福があるのなら徳もないとならないけど、じっさいの米国は福はあるとしても徳がかなり欠けている。

 徳はそれなり以上にあるけど福がないのが国際刑事裁判所だろう。徳があるのなら福もまたないとつり合いがとれない。徳があることをやったのなら福がもたらされないと世界は公正であるとはできないけど、ぎゃくに禍がもたらされてしまう。徳があるのにわざわいや不幸がおきる。

 いまの世界は不公正である。不正であり矛盾がおきまくっている。甘く見ることもできるけどきびしく世界を見てみればそうだ。甘く見てみればたしょうの公正さが世界にはあるだろう。

 きびしく見てみるとして、世界は不公正なのがあり、その一つのもととして米国が悪い国になっている。世界の不公正のもとの一つである米国の悪さを批判したい。悪い人があるとして、そこから例えたものとしての悪い国である。

 義務をおうべきなのが米国だ。人に例えたさいに、大人であれば理性の自由をもっていて義務をおう。他者の危害の原則のような、守らないとならない最低限の法律は守ることがいる。

 法律の中でも普遍(ふへん)のものはそれを守る義務が大きい。法律にかぎらず、それが普遍のものであるのだったら、すべての人がそれをできるだけ学ぶことが要求される。つねに当てはまる性質をもつのが普遍だ。

 人から例えたものとしての国として米国をみてみると、普遍のことを学ばなくてもよいとはできそうにない。国際の法の決まりのような普遍に当たるものを学ぶことが要求されるのだから、国は特殊さにおちいってしまうとよくない。固有の性質をもつのが特殊である。

 強い人と弱い人がいるとして、人に例えてみると、米国が弱い人のようであればまだましである。国際刑事裁判所に制裁をかすことができるくらいに米国が強いことが、米国の悪さをしめしてしまっている。制裁をかせるのはその国が強いことであり、人でいえば、子どもが強壮になってしまったのと同じだ。

 強くて正しい人がいるとして、米国がそういったようであればよいけど、じっさいにはちがう。強くて正しい国であれば、人でいえばちゃんとした大人だとできそうだ。米国がそうであってくれればさいわいだけど悲しいことにそうではないのが現実である。

 一人の人であればまだ少しは理性を保ちやすい。一人称の単数の主語を保ってゆくことがうまくすればできる。国は多くの人たちの集まりだから、一人称の単数の主語を失いがちだ。主語と述語の整合性がなくなり、述語が暴走してしまう。主語と述語の整合性は映画の監督である森達也氏による。

 述語が暴走しているのがいまのトランプ大統領による政権だろう。一人の人ではなくて集団なのが国だから、理性が狂うことがうながされる。述語の暴走に歯止めがかからない。人でいうとすれば、よい人にはなりづらくて悪い人になりやすいのが国である。国は集団であることから主語と述語の整合性をとりづらくて理性がおかしくなるところをもつ。

 よい大人なところがあるのが国際刑事裁判所のようなちゃんとした国際の機関である。子どものようではなく、きちんとした大人として行動をしている。たとえ福はないのだとしても、徳がある。福をなによりも重んじることによって徳を失うようなことはまぬがれている。

 だれしもが得たいものなのが福だ。福を得ることに弱いのがあるから、それによって徳が失われてしまう。福はべつにいらないから徳を何よりも重んじようとする人たちだらけだったらその集団はよい集団になる。

 とにかく福を得たいのがあるから、それによって徳が失われる。人はその弱みをもつけど、その中で福よりも徳を重んじようとする人や集団は少しはあり、それに当たるものなのが国際刑事裁判所のようなちゃんとした国際の機関だろう。

 大衆が力をもちやすいのが国だ。大衆をもち上げないようにして批判してみる。大衆は福に弱い。福をより重んじるところがあるのが大衆であり、徳がおろそかになる。福をとってしまうことから徳が欠けているのがいまの米国だろう。米国だけではなくてほとんどの国がそうである。大衆が力をもつ国であっても、独裁者が力をもつ国であっても、たいていは同じだ。

 えらそうなことを言っているけど、そういうおまえはどうなんだと言われたら、福を重んじてしまい、徳が欠けるところは否定できそうにない。福と徳はあんまり一致しないのだから、徳はいいから福を得ようとして、自分が福を得るのを一番に考えてしまうことがおきる。

 ふり返ってみるとちゃんとした大人であるとはいえないところはあるのだけど、個人と集団を比べてみると、集団である国はもしも悪いことをすると多くの人たちに損や害をおよばせやすい。

 国の上の地位の政治家がうそをつくと、多くの人たちに損や害がおきる。人でいうとすれば悪い人であるようなことに国がなっているとよくない。悪い国は福はあっても徳がないあり方になり、徳が欠けていることによって他者に危害をおよぼす。

 他者に危害をおよぼして暴力をふるうようなことを国がやらないようにするためには、福はないかもしれないけど徳があるようなちゃんとした国際の機関をおうえんしてゆく。人でいえば、(子どもはしからなくてもよいけど)子どものような大人をしかることができることがいる。子どものような大人や、強壮になった子どものような国をしかって、批判してゆく。

 参照文献 『カルチュラル・スタディーズ 思考のフロンティア』吉見俊哉(よしみしゅんや) 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや) 『橋下徹の問題解決の授業 大炎上知事編』橋下徹(はしもととおる) 『JAPAN UNMASKED : The Character & Culture of the Japanese』Boyé Lafayette De Mente 『哲学の味わい方』竹田青嗣(せいじ) 西研(にしけん) 『現代思想を読む事典』今村仁司(ひとし)編 『うその倫理学』亀山純生(すみお) 『現代倫理学入門』加藤尚武(ひさたけ) 『希望の国の少数異見 同調圧力に抗する方法論』森達也、今野哲男(企画協力、討議) 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『罪と罰を考える』渥美東洋(あつみとうよう) 『増補版 大人のための国語ゼミ』野矢(のや)茂樹 『本当にわかる論理学』三浦俊彦 『法哲学入門』長尾龍一 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『「科学的思考」のレッスン 学校で教えてくれないサイエンス』戸田山和久 『科学的とはどういう意味か』森博嗣(ひろし) 『徹底図解 社会心理学 歴史に残る心理学実験から現代の学際的研究まで』山岸俊男監修 『絶対に知っておくべき日本と日本人の一〇大問題』星浩(ほしひろし)

米国とはまたちがう、世界の警察としての国際機関の役割を問いかける

 世界の警察とは言い切れないのがいまの米国だ。

 いまの世界において、警察と呼べるのはどういったものか。警察と呼べるほどのものはあまりないが、国際刑事裁判所(International Criminal Court)はその一つだ。ちゃんとした中身をもつ国際の機関である。

 自分たちが警察なのではなくてその逆に警察につかまえられるところのものなのがいまの米国だろう。悪いものをつかまえるのであるよりも、警察につかまえられるところのものにまでなり下がっている。

 国の中に警察をもつのが米国だ。このさいの警察はじっさいの具体のものであるのとともに抽象論のものもさす。抽象論のものとしては、国は全体の秩序(leviathan)だ。国は全体の秩序なのだから、内乱の集団(behemoth)をおさえつける。反乱の集団を抑えこむ。

 契約の社会なのが米国だ。契約を重んじる。人民が契約をすることによって国を支配してゆく。りくつとしてそれをなすのが社会契約論(theory of social contract)だ。近代の国のありようである。自然なものではなくて人為や人工で作られているのが近代の国だ。社会契約を解消することもできなくはない。

 ドナルド・トランプ米大統領による政権は権威をもつ。政権は権威をもっているから、警察によって国の中の内乱の集団を抑えこめる。抑えこむことはできるけど完全になくすことはできない。いつまでも国の中に残りつづけるものなのが内乱の集団だ。

 国の中に権威があるのなら、社会の状態(civil state)がなり立っている。社会の状態は止揚(しよう)されたものだ。矛盾が解決される。国の中の抗争や紛争が止揚されているのが社会の状態だ。

 国の中に権威がなければ、自然の状態(natural state)だ。戦争の状態である。万人の万人にたいする闘争(the war of all against all)のありようだ。性悪説によるものである。いつまでも個人どうしがぶつかり合う。すべての個人は自己欺(ぎ)まんの自尊心にかられてうごく。

 日本の町なかを見ていると自然の状態はあんまり想像できづらいのがあるかもしれない。日本の町なかは滑らかではげしい波風がたっていないことが多いからである。日本で自然の状態に近いのはウェブの SNS(social media)だ。SNS の X(Twitter)は言葉が乱れていて荒れている。憎悪の表現(hate speech)が多く言われる。SNS の中は権威がない状態である。

 多くの国とはちがい世界にはしっかりとした権威(世界の政府)がまだないから自然の状態にとどまっている。米国と国際刑事裁判所はぶつかり合っているが、これはトランプ大統領が国際刑事裁判所の権威を否定しているからだ。世界は止揚されていないままであり不幸がつづく。

 世界でなぞらえるとすると、トランプ大統領の政権は、(世界においての)国際刑事裁判所とるいじ性をもつ。米国の中では、国際刑事裁判所(ICC)がそれなりに力をもっている状態だ。

 ちょっと分かりづらい話になってしまうけど、米国の中では、(世界の中での)米国は内乱の集団にあたる。米国は内乱の集団なんだけど、(米国の中における)国際刑事裁判所がそれなりに力をもっているから、悪いことをやったら米国をつかまえられる。内乱の集団の長(leader)であるトランプ大統領(のようなもの)をたいほすることがなり立つ。

 わかりやすい話ではなくなってしまうけど、なんで米国は内乱の集団にあたるのかといえば、世界においては米国はひとひら(部分の秩序)のものだからだ。世界社会の中では米国は多くある国々のうちの一つにすぎないから、内乱の集団のところをもつ。世界において(おもに悪い意味での)革命をなそうとしているのが米国だ。

 視点のちがいによっては、国際刑事裁判所が米国の政府にあたるし、米国は内乱の集団にあたることになる。世界においての米国のふるまいは、あたかも米国の中における内乱の集団のようなところをもつ。米国は、(米国内であれば)米国の警察によってつかまえられるところのものである反乱の集団のようにふるまっている。

 国際刑事裁判所のようなちゃんとした国際の機関は、米国内における米国の政府のようなふるまい方をしている。米国の中の秩序を保つためには警察が治安を守ることがいる。

 警察がしごとをさぼっていると内乱の集団や反乱の集団がやりたい放題にできる。革命がいくらでもできる。いまの米国は悪くなってしまっているところがあるから革命ができたほうがよくなるのはあるかもしれない。そうはいっても革命はぶっそうなところがあり性急なものだからおだやかではない。

 仕事をしっかりとやっているのにもかかわらず怒られる。さぼらずにまじめに行動すると怒られるのが国際刑事裁判所のようなちゃんとした国際の機関だ。さぼってくれたほうが内乱の集団が抑えこまれないから米国は国外で悪いことを自由にできる。さぼってくれたほうが米国には都合がよい。まじめに仕事をするとしかられる。

 同じ米国でも、二大政党制の一つをなす民主党は左派だからどちらかといえば国際刑事裁判所のようなちゃんとした国際の機関への理解を少しはもつ。国際刑事裁判所のことを完全に頭からは全否定はしないものだろう。共和党よりはたぶん少しはましだ。

 分断しているのが米国だ。一つの国ではあるけど二つに分断していて、二大の政党がお互いにおり合えていない。民主党だと地獄だとか悪夢だとかとトランプ大統領は言う。きょくたんなことを言う。米国を二つの国にふ分けしてみると、世界には共和党よりの国と民主党よりの国があるとできそうだ。

 いまのウラジーミル・プーチン大統領によるロシアは共和党よりだろう。国際刑事裁判所のようなちゃんとした国際の機関を否定している。国際刑事裁判所の活動をさまたげるようなことをやっている。

 イスラエルもまた共和党よりである。米国とるいじ性をもつ。国際刑事裁判所とはげしくぶつかり合う。国際の法の決まりを守らないあり方だ。

 アメリカと同盟をしている日本はどうかといえば、民主党よりのところをもつ。いまの与党である自由民主党の高市早苗(たかいちさなえ)首相は国際刑事裁判所を支えるといっている。むしろ米国の民主党よりも日本のほうがちゃんとしているのだとできる。民主党よりも日本のほうがより進んでいるところをもつ。米国はそれほどまでに悪いあり方だ。

 精神分析を試みてみると、米国であれば、自我が米国の政府だ。基本の衝動(しょうどう)が米国内の内乱の集団である。米国内は政府の力がそれなりに強いから秩序が保たれている。精神分析はオーストリアのジグムント・フロイト氏によるものだ。

 自我の力がそれなりに強くて、基本の衝動を抑えこんでいるのが米国内だが、世界はちがう。精神分析によって見てみると世界のありようは自我がすごい弱い。自我が弱いから基本の衝動がやりたい放題になっている。内乱や反乱や革命がおきているのが世界のありさまだ。

 戦争は革命のはたらきをなす。とりわけ近代における戦争はそうだという。戦争革命説だ。英国の歴史学者のエドワード・ハレット・カー氏による。いま世界のいくつかのところで戦争がおきているのは革命がおきているのを表す。世界の革命といったほどのものではないかもしれないが、部分としての革命ではある。

 政府があるのが米国内だけど、それ(世界の政府)をなくせといっているのがトランプ大統領の政権だ。じっさいに世界の政府はまだないけど、世界の政府のようなところをもつのが国際刑事裁判所のようなちゃんとした国際の機関だ。

 本当には無いものだけど、かりの世界の政府があるとして、それをなくせと言っているのがトランプ大統領の政権だ。無政府主義(anarchism)によるのをよしとする。理想論としては無政府主義はいえるけど現実論としてはむりがある。いっさいの権力をなくそうとする立ち場なのが無政府主義だ。

 たしかに、一切の権力が無くなったとしたらそれはよいことではある。中央集権主義を批判してゆく。無政府主義は権力への批判としてはよいところがあるけど、権力がないと国の中の秩序を保ちづらい。

 一面としては権力は悪いところがあるけど、もう一つの面としては良さがなくはない。米国の政府は悪いところがあるけど、よいところを持っていなくはない。

 二面性をもっているのが政治だ。米国の政府にもよいところがあるのだから、国際刑事裁判所のようなちゃんとした国際の機関もまたよいところをもつ。ちゃんとした国際の機関は、かりの世界の政府のようなところがあるので、それによって世界の秩序を保つことに益にはたらく。

 ものごとの一面のところだけを見てしまうと、いまのトランプ大統領による政権はよいだとか、国際刑事裁判所は悪いだとかとすることになってしまう。そうではなくて政治には二面性があることをふまえるようにしてみたい。

 よい一面だけをもっているのではないのが国際刑事裁判所のような国際の機関なのだとしても、それは米国にはもっと当てはまる。まだ本当には世界の政府はなり立っていないから、世界においての中央集権主義はでき上がっていない。中央集権によって世界の政治はなされてはいないのである。そのため、国際の機関がもつ力は弱いことが多い。

 米国は中央集権が強まっている。選挙をやると中央集権主義が勝ってしまい、反中央集権主義は負けやすい。集権のあり方だと権力がしっかりと作られるから二面性がおきてくる。よい面はあるものの悪い面をむしできづらい。

 政治の悪い面としては不毛な争い合いが国の中でおこってしまう。生産性や建設性がない争い合いだ。政策をはなし合うのであるよりは悪い意味での政局がおきる。権力によって人々の自由がうばわれる。国による強制がおきる。

 基礎づけたりしたて上げたりするのが基礎づけ主義だ。基礎づけ主義によるのだとものごとの一面しか見なくなる。二面があるのをくみ入れるようにして反基礎づけ主義によるようにしてゆく。

 反基礎づけ主義によるようにしてみるといまのトランプ大統領による政権をよいものだとは基礎づけたりしたて上げたりできづらい。トランプ大統領の政権とぶつかり合っている国際刑事裁判所のようなちゃんとした国際の機関が悪いものだと一方的に基礎づけたりしたて上げたりできないことになる。

 武力の行使を原則として禁じているのが国際の法である。精神分析でいわれる超自我にあたる。上位の自我だ。超自我によって、原則論を守るようにうながすのが自我のはたらきだ。自我にあたるのが国際刑事裁判所のようなちゃんとした国際の機関である。

 自我の働きはあるにはあるけど、それがかなり弱い。基本の衝動である米国のトランプ大統領による政権は力が強い。自我が基本の衝動を抑えこめなくなっているのがいまの世界のありようだ。

 米国でいえば国の設立のもととなっているのが超自我だ。憲法がそれにあたる。日本の超自我は、いまの日本の憲法だ。米国だったら憲法を守ることがいるように、国際の法もまた超自我なので米国はそれを守ることがいる。

 自我の言いぶんは警察による。米国の言いぶんは国外においては基本の衝動によるものだ。国外での米国の言いぶんは内乱の集団や反乱の集団の言いぶんなのだから、それをそのまま丸ごとうのみにはできづらい。

 内乱の集団や反乱の集団は、革命をなそうとしているから、国の中だったら国の秩序がめちゃめちゃになりかねない。よい革命も中にはあるかもしれないがどちらかといえば危険な側のものだ。急進なものなのが革命だからである。

 安全な側であるようにするためには、内乱の集団や反乱の集団の言いぶんをそのまま丸ごとうのみにはしないようにして、ほかのものの言っていることにも耳を傾けるようにしたい。

 ほかのものの言いぶんとしては、超自我や自我がある。超自我でまともなものとしては、近代の憲法主義(constitutionalism)がある。他者に危害をなさないようにする原則である。国は原則として武力の行使をしないようにする。すべての人が持っている人権をしんがいしないようにしてゆく。

 超自我や自我や基本の衝動(無意識、本能)といった精神分析でいわれるものをもち出してみると、国外にたいしては米国は基本の衝動にあたっていて、その力が強い。力を弱めてゆくことがいり、自我によって抑えこんでいったほうがよい。抑制してゆく。自我が弱いからそれを強めることがいる。

 自我にあたるものである国際刑事裁判所のようなちゃんとした国際の機関はその重要さがますます高まっている。自我がちゃんとしていないと国を保てないし、世界もまた保たれない。世界であればそれがはたんしてしまう。

 参照文献 『カルチュラル・スタディーズ 思考のフロンティア』吉見俊哉(よしみしゅんや) 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや) 『橋下徹の問題解決の授業 大炎上知事編』橋下徹(はしもととおる) 『JAPAN UNMASKED : The Character & Culture of the Japanese』Boyé Lafayette De Mente 『法哲学入門』長尾龍一 『精神分析 思考のフロンティア』十川幸司(とがわこうじ) 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『社会学になにができるか』奥村隆編 『教育 思考のフロンティア』広田照幸(ひろたてるゆき) 『現代思想を読む事典』今村仁司(ひとし)編 『超訳 日本国憲法』池上彰(いけがみあきら) 『現代倫理学入門』加藤尚武(ひさたけ) 『ポリティカル・サイエンス事始め』伊藤光利編 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『警察はなぜあるのか 行政機関と私たち』原野翹(あきら) 『ポケット図解 構造主義がよ~くわかる本 人間と社会を縛る構造を解き明かす』高田明典(あきのり) 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『離脱願望 唯物論で読むオウムの物語』亀山純生(すみお)、中西新太郎、後藤道夫他 『徹底図解 社会心理学 歴史に残る心理学実験から現代の学際的研究まで』山岸俊男監修 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『科学的とはどういう意味か』森博嗣(ひろし) 『絶対に知っておくべき日本と日本人の一〇大問題』星浩(ほしひろし) 『うたがいの神様』千原ジュニア 『心脳コントロール社会』小森陽一 『法律より怖い「会社の掟」 不祥事が続く五つの理由』稲垣重雄 『構築主義とは何か』上野千鶴子(ちづこ)編 『暴力 思考のフロンティア』上野成利(なりとし) 『境界線の政治学』杉田敦(あつし) 『日本の難点』宮台真司(みやだいしんじ) 『近代日本の戦争と政治』三谷太一郎(みたにたいちろう) 『高校生のための評論文キーワード一〇〇』中山元(げん)

日本の国名の自明性をうたがう

 国の名前を正してみる。日米のをである。

 日米がよいときであっても、悪いときであっても、同じ名前で呼ぶのでよいのだろうか。

 日本をとり上げてみると、戦前も日本と呼んでいて、戦後も日本と呼んでいるのだと、よいときとわるいときの区別がつかない。日本がよいときであっても悪いときであっても同じ国の名前で呼んでいるからよし悪しのちがいが分かりづらくなる。

 戦前の日本は、戦後の日本とおなじ呼び名だけど、戦前は大日本帝国と言っていた。戦後のいまは大日本帝国とは言わなくなっているけど、いまの日本を大日本帝国と言ったらどうか。

 なぜいまの日本を、戦前の日本とおなじように大日本帝国と言ったらよいのかというと、戦前と同じくらいにいまの日本は悪くなってしまっているからだ。政治で右傾化が進んでいて、右へ旋回(せんかい)しまくっている。

 わるい意味でいまの日本を大日本帝国と言ってみたい。かつての悪いときの日本に回帰しているからるいじ性をもつ。国家主義(nationalism)におちいる。近代では中性の国であることがいるけど、それによらないあり方だ。

 中性の国とは国が実質の正しさや実質のよし悪しにはふみこまないようにするものである。実質の正しさや実質のよし悪しに国がふみこんでしまうと、上から一つの正しさを人々に押しつけるようになる。国が正しいとすることや国がよいとすることに人々を従わせる。

 定義づけに当たるのが、国の名前をどうするかだ。日本や米国をどういう名まえで言うのかは、どう定義づけするかである。修辞学で、類または定義からの議論にあたる。ぜんぶで五つの議論の型(topos)があるうちの一つだ。

 のこりの四つの議論の型はこれらである。類似からの議論、比較からの議論、例えからの議論、因果関係からの議論だ。

 自然なものではないのが国の名前だろう。方法論の二元論によってみると、それが自然なものなのか社会のものなのかに分けることがなり立つ。自然のものであれば変えられないけど、社会のものであればうまくすれば変えることができる。

 社会のものなのが国の名前なのだから、まったく変えることができないものだとはできそうにない。日本だったら戦前は大日本帝国と言っていたのを戦後は日本と言うだけになっている。

 国のありようは、記号論でいわれる所記(しょき)だ。記号をもとにして世の中を説明する学問の体系なのが記号論である。所記は言葉の内容の側面をさす。記号の内容だ。

 日本のことを日本と呼ぶのは能記(のうき)だ。言葉の音の側面である。記号の表現である。所記である記号の内容と能記である記号の表現はぜったいの結びつきを持たない。気ままに結びついているだけである。日本だったらそれを日本と言わなくてもジャパンと言ってもおなじものをさすことがなり立つ。

 日本のことを日本と呼ばないとならないのだとするのは自然化だ。必ずしも日本のことを日本と呼ばなくてもよいのだから、脱自然化してみたい。じっさいには日本のことは日本と言わないと通じないのはあるけど、それを問題化してみる。

 善性をもつのだとされるのが国だ。国はよいものだといった含意をもってしまう。良い時だったらよいけど、国が悪くなっているときだったら、それによい含意をもたせたくない。状況によって国のありようは変わってくるのだから、ちがう所記(内容)にたいしてはちがう能記(音)を結びつけてみたい。

 いまの日本は悪くなっているから、それを明らかにするような名まえにしてみる。日本のいろいろな悪いところが明らかになるような能記にしてみる。このさいの能記は上位の次元(meta)のところをもつ。そういったものとしてその国を見よ、との意味あいだ。ちょっと名まえが長くなるけど、原理主義の国日本、とよんでみる。

 民主主義ではなくなっているところがあるのがいまの日本だ。やり直しの機会が減っていて、階層(class)の固定化がおきている。病気でいうとがん化がおきている。がんをわずらっているのだとできるのは、多様性がとぼしいからだ。高市早苗(たかいちさなえ)首相がすごくたくさんの人たちから支持されているのは日本のがん化のあらわれだろう。

 分断がおきているのがあるから、分断の国日本としてみる。国が分断しているのは日本だけではなくてたとえば米国なんかもそうだろう。分断の国米国だ。政治でいえば右派と左派があるけど、それらは同じ一つの国の中にありながらあたかも別々の国であるかのように分断している。

 政治の右派と左派は同じ国の言葉を使っていながら、あたかも外国語を話し合うかのように話が通じづらい。おなじ国民でありながらも外国人どうしであるかのようなのである。これは右派と左派にかぎらず、性でいえば男性と女性や、年でいえばお年よりと若もののあいだなんかでもおきている。

 だらくしているのがいまの日本なので、だらくの国日本だとしてみる。戦前のときの日本はすごいだらくがおきていた。それで戦後になってそのだらくが批判されたのがある。いままた日本はだらくがおきているのがあるのでそれを批判したい。

 だらくしていることの一つが日米の問題だ。米国に従属しすぎている。米国を光だとあおいでいて、かげを見ようとしていない。かげとは日本がかかえる負の歴史をさす。かげのところに当たるのが東洋だ。朝鮮半島などである。

 いま日本と韓国の関係はよくなっていて、それはよいけど、それはそれとして、北朝鮮との友好もいる。いくら関係がよくなったからといっても、本当の意味で日本と韓国は信頼し合えているとはできそうにない。ちょっと前までは日本では韓国のことを一方的に表象(ひょうしょう)としてきらう嫌韓がさかんだった。表象とは、心の中の像(image)を外に表現したものをさす。

 社会の板ばさみ(dilemma)の国日本としてみる。国の中で板ばさみが深まっている。日本だけではなくて米国なんかでも国の中の板ばさみの深まりがしんこくだ。みんなで協調し合うべきところで対立し合ってしまう。対立し合ってもよいところで協調し合ってしまう。人々がもつ誘引(incentive)にちがいがあることによる。

 板ばさみを何とかするには利他の利己主義による手がある。たんなる利己主義におちいっていると板ばさみが深まるばかりだ。ことわざでいう情けは人のためならずが利他の利己主義である。情けを他者にかけることはめぐりめぐって自分のためになる。いったん他者に情けをかけるにはゆとりを持つことがいる。日本や米国ではゆとりが欠けている。ゆとりがないから板ばさみが深まってゆく。

 日本すごいとは言いたくない。米国すごいとはしたくない。国のことをすごいと持ち上げたくないから、何よりだめな日本だとしてみる。何よりだめな米国だとしてみたい。

 戦後のドイツで言われたのが、何よりだめなドイツだ。この言い方は、戦前のナチス・ドイツのときにドイツすごいといったことが言われていたことの反対を言ったものである。ドイツを持ち上げるのではなくて、だめなところを色々に言ってゆく。批判をしてゆく。

 よく言われているのが日本すごいだ。米国すごいもよく言われているものだろう。それに乗っからないようにして、何よりだめな日本を言ってみる。何よりもだめなものなのが日本なのだとするのは言いすぎではあるけど、日本のだめなところはいっぱいある。日本すごいと言いがちなところも、日本のだめなところの一つだ。

 共和制であれば王を否定するはずだ。王をこばむはずだけど、いまのドナルド・トランプ米大統領は王のようだから、いまの米国はトランプ王国とできる。トランプ帝国ともできる。大統領ならぬトランプ王による国だ。

 トランプ王は日本にとっての天皇にあたる。日本の高市首相は天皇であるトランプ王にへこへこしている。トランプ王に頭が上がらない。トランプ王が右を向けといったら右を向くし、左を向けといったら左を向く。従属していて自立していない。他律(heteronomy)だ。

 何らかの強制にしたがって行動するのが他律である。天皇にさからうことができないのが日本なのだから、自律(autonomy)によれない。自分の意思でのぞましいと思う行動をとるのが自律である。自律によれないで他律になっていると思考が停止しがちだから、思考の停止の国日本だ。

 超越の他者(hetero)なのがトランプ王である。トランプ王が超越の他者であり、また米国が超越の他者でもある。超越の他者に動かされるのが日本である。中国をきらえと命じられれば中国をきらう。中国と戦えと命じられれば中国と戦う。日中の問題では、米国に命じられているから、中国との友好がこんなんになっている。

 戦争で負けたのが日本だ。米国や英国に戦争で負けたし、それにくわえて中国にも戦争で負けたことは無視できない。敗戦の国日本だとしてみる。じっさいに戦争で負けたのにくわえて、政策でも敗戦している。

 戦前の日本は富国と強兵の政策をやっていた。いまだにそれらの政策をやっているのがある。戦後の日本もまたそれらの政策をやって、敗戦にいたっている。富国の敗戦と、強兵の敗戦だ。このうちで強兵の敗戦はこれからおきることだろう。たぶん強兵の敗戦がおきそうである。戦前のときと同じようにである。

 富国は目ざしていたけど、はじめのうちは強兵の政策はあんまりやっていなかったのが戦後の日本である。さすがに戦前のときの大きな失敗がなまなましかった。十五年戦争の大きなきずがまだ生々しかったから、はじめのうちは国の武装を軽くするやり方でやっていった。富国だけを目ざす。それで経済の大国にはなれた。経済の高度の成長をなす。豊かな社会をなしとげる。一九七〇年代に後発の近代の目標をたっすることができた。とりあえず国が豊かになるといった大きな物語である。

 いまもまだ日本は豊かな社会なのだろうか。みんなが食べるものに困っているのではないだろうから豊かといえば豊かではあるかもしれない。豊かといえば豊かだろうけど、差別はひどくなっている。社会がぎすぎすしているのがあり、さつばつとしている。きつい言葉がばしばし飛びかう。ウェブの SNS(social media)でだ。

 町なかを見てみるとおだやかで滑らかだけど、そのいっぽうでウェブの SNS は荒れている。憎悪の表現(hate speech)が多く言われているという。言葉の乱れた国日本である。日本語がこわされてしまっている。言論の空間がちゃんとしていない。

 日本語をだれがこわしたのかといえば、一つには政治家だ。政治家が日本語をめちゃめちゃにしてしまった。おもに右派(極右)の政治家である。戦争は平和だとか、正義は不正だとか、自由は強制だとかといった言葉の使い方はよくない。政治では婉曲(えんきょく)の言葉の使い方はよくないのがあるけど、それが使われまくったのが日本の政治である。うそが言われまくっている。

 政治でうそがたくさん言われている。政治不信の国日本となっている。政治の不信の深まりがひどい。信頼がそこなわれている。不信や猜疑(さいぎ)の国日本である。日本だけではなくて世界じゅうで不信や猜疑がつよまっていて、国どうしで信頼し合えない。国どうしの友好ができづらい。世界で軍備の拡張がすすんでいっている。軍拡をなんとかして止めて、軍縮をなすように変えてゆきたい。

 参照文献 『カルチュラル・スタディーズ 思考のフロンティア』吉見俊哉(よしみしゅんや) 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや) 『橋下徹の問題解決の授業 大炎上知事編』橋下徹(はしもととおる) 『JAPAN UNMASKED : The Character & Culture of the Japanese』Boyé Lafayette De Mente 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『ナショナリズム 思考のフロンティア』姜尚中(かんさんじゅん) 『思考のレッスン』丸谷才一(まるやさいいち) 『過去は死なない メディア・記憶・歴史(The Past Within Us―media,memory,history)』Tessa Morris-Suzuki 田代泰子(たしろやすこ)訳 『タイトルの魔力 作品・人名・商品のなまえ学』佐々木健一 『構築主義とは何か』上野千鶴子(ちづこ)編 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『原理主義と民主主義』根岸毅(たけし) 『情緒から論理へ』鈴木光司(こうじ) 『ヒトラーの正体』舛添要一(ますぞえよういち) 『徹底図解 社会心理学 歴史に残る心理学実験から現代の学際的研究まで』山岸俊男監修 『信頼学の教室』中谷内一也(なかやちかずや) 『絶対に知っておくべき日本と日本人の一〇大問題』星浩(ほしひろし) 『東大人気教授が教える 思考体力を鍛える』西成活裕(にしなりかつひろ) 『現代思想を読む事典』今村仁司(ひとし)編 『ねじれの国、日本』堀井憲一郎 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『社会階層 豊かさの中の不平等』原純輔(じゅんすけ) 盛山(せいやま)和夫 『右傾化する日本政治』中野晃一(こういち) 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『歴史を繰り返すな』坂野潤治(ばんのじゅんじ) 山口二郎 『差別原論 〈わたし〉のなかの権力とつきあう』好井裕明(よしいひろあき) 『天皇論』鷲田小彌太 『アジア辺境論 これが日本の生きる道』内田樹(たつる) 姜尚中 『国体論 菊と星条旗』白井聡(さとし) 『うその倫理学』亀山純生(すみお) 『哲学の味わい方』竹田青嗣(せいじ) 西研(にしけん) 『超訳 日本国憲法』池上彰(いけがみあきら) 『日本の難点』宮台真司(みやだいしんじ) 『記号論』吉田夏彦 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『なぜ「話」は通じないのか コミュニケーションの不自由論』仲正昌樹(なかまさまさき) 『効率と公平を問う』小塩隆士(おしおたかし) 『歴史家が見る現代世界』入江昭(あきら) 『うたがいの神様』千原ジュニア 『「戦争と知識人」を読む 戦後日本思想の原点』加藤周一 凡人会

国や世界をよくするための反対勢力(反体制)の必要性と許容性

 たとえ正しさ(よいこと)のためであっても戦争は許容したくない。

 少し汚かったとしても平和を選ぶ。じゅんすいな正しさよりもふじゅんな平和をよしとする。諦観(ていかん)の平和主義だ。

 戦争を許容せずに平和であるためには何がいるのか。色々なものがいる中で一つには国際の法の決まりがいる。武力の行使を原則論として禁じてゆく。

 人それぞれで戦争を許容するかしないかはちがう。戦争を許容の範囲の内においているのがいまの米国だろう。ドナルド・トランプ米大統領は正しいことやよいことのためなのであれば武力の行使は許容されるのだとしていそうだ。正戦論の戦争観である。正義と戦争を結びつける。

 米国が正戦論によっているのだと、反米のものは許容の範囲の外におかれる。米国を悪く言ったり批判したりするものは許容しない。

 許容の範囲がせばまっているのがいまの米国だろう。経済でゆとりがあるうちは寛容(かんよう)さをもちやすい。経済が悪くなるとゆとりがなくなり厳格や狭量(きょうりょう)になりがちだ。

 いついかなるさいにも寛容でいられるのが理想である。理想論としてはそうだけど現実論としてはちがってくる。けっこう厳格や狭量になっているのがいまの米国であり、ほかの国もそうなっている。右傾化が進んでいる国が少なくない。日本でも政治の右傾化がすすんでいる。

 現実論としてはいついかなるさいにも寛容でいるのは難しさはある。その中で米国は寛容さを失わないようにして、反米の国際の機関や国を許容の範囲の内におくようにしたい。反米のものであっても許容の範囲の外に置かないようにしてゆく。

 米国と近いものだけを許容の範囲の内におくのだと同調の圧力が高まる。同調主義や順応主義である。米国を批判するものを排除する排他のあり方だ。排他のあり方だと世界における多元さが失われてしまう。値うちがある国際の機関が排除されることになり、世界がおかしな方向へ向かいかねない。国際の社会がまちがった方向へ進むのに歯止めをかけられなくなる。

 国の中だけではなくて国際においても民主主義によるようにしてゆく。民主主義では数量が少なくとも一つではなくて二つはいる。数量が一では足りなくて二はいるのだとするのはドイツの学者のニクラス・ルーマン氏だ。

 国の中だったら政党が二つはいり、二大政党制をなすようにする。野党を排除するのではなくて許容してゆく。野党にたいして排他なのではなくて包摂するあり方だったらうまくすれば多元主義によることがなり立つ。

 米国を批判するような反米の国際の機関は、米国にたいする反対の勢力(opposition)だろう。世界においてすごい力をもっているのが米国なのだから、米国は世界における体制(establishment)だ。

 体制だとできるほどに力をもっているのが米国だけど、そこからはあまり良いものは生まれづらい。よいものはどこから生まれてきやすいのかといえば反体制(anti-establishment)からだ。

 何ごとも権威化するとよくない。あらゆるものをぜったいの権威だとはしないようにするあり方が批判主義だ。権威主義をこばむ。米国を権威化しないようにして、反米にあたるような反対の勢力や反体制を許容したほうが世界のあり方をよりよくしてゆける。

 数量が一ではなくて二はいるのが民主主義なのだから、国の中の野党を承認するのと同じように、国際においても米国にたいする反米の機関や国を承認してゆく。たんに反米であるからといって否認しないようにしたい。

 いま米国と対立していて、米国を批判している国際の機関や国があるとして、それは国の中における野党にあたるものだろう。野党はなぜいるのかはやや分かりづらいところがあり、野党は不要だとされかねない。日本の政治では左派の野党は不要だとされがちであり排除をうけている。与党である自由民主党だけがよしとされる一強のあり方がつづく。

 国の中においては米国が(政党でいうところの)与党なのだとすると、反米のものは野党にあたるのだとできる。与党だけがあればよくて野党はいらないとされがちだけど、それだと数量が一になるから民主主義とはいえない。数量が二はあるのでないとならないから、与党である米国だけではなくて野党である反米も必要だ。

 政党でいえば与党はいるとして、野党もまたいるのだとすると、それの必要性をあげられる。それの必要性があるのだったら、それを許容するようにしてゆきたい。

 日本の政治だったら、与党である自民党はあまり人権を守らないあり方だ。人権(fundamental human rights)を重んじなくて軽んじるところをもつ。人権が守られないとまずいことになるから、そこでいることになるのが人権を大切にする野党だ。

 日本の自民党と同じように、いまトランプ大統領が属している米国の共和党は人権を軽んじているところがある。どちらかといえば米国の民主党は左派だから人権を大切にするあり方だろう。国の中で権力をもっている政党が人権をしんがいするのであれば、それをきびしく批判する野党の必要性は高い。

 国の外で、ほかの国に武力の行使をなす。トランプ大統領による米国は戦争をよしとするのがあるけど、そうしたあり方だと体制である米国には希望があるとはできづらい。暴力と希望は反比例するのだと学者の今村仁司(ひとし)氏はいう。

 人権を大切にしていて反暴力なのが反米なのだとすると、反米には希望があるのだとできる。暴力を少なくして、なくしてゆくほどに希望があることになる。反米も許容するのでないと、希望をもつことができづらくなる。世界から希望が失われる。希望なき世界だ。絶望や失望が国や世界をおおう。米国では絶望の死(deaths of despair)がおきているという。

 その地域の暴力を独占しているのが国だ。暴力の装置をもつ。それだけではなくて思想傾向(ideology)の装置ももっているのが国である。暴力の装置は警察や軍隊だ。抑圧の装置や公の装置である。ここでいう警察はいっぱんの警察であるよりも政治の警察をさす。

 暴力をもっているのが国であり、これまでに色々な悪さをしてきている。まったく暴力によらない国があるとはできず、たとえばイスラエルなんかでもパレスチナ人にたいして暴力をふるう。イスラエルをもち出したのは、歴史においてユダヤ人が西洋において排除を受けてきたからである。ユダヤ人であっても加害者になる。国が暴力をもつことによる。

 歴史をふり返ってみると、文化の力(soft power)を高めることが意味をもつ。トランプ大統領による米国は文化の力が落ちていて軍事や経済の力(hard power)でやってゆこうとしている。力の論理であり、力の宗教だ。かつてのナチス・ドイツも同じあり方だった。

 世界における体制である米国が軍事や経済の力でやってゆくのであれば、それにたいする反体制がいる。反体制として文化の力によるものがいり、それが許容されるようにしたい。文化の力をになう国際の機関は値うちが高い。

 力の論理や力の宗教によらないような、反米のあり方があったほうがよい。歴史をかえりみてみると、文化の力がだんだん高まっていっているのがあり、それで今にいたる。人権を大切にするような国際の機関が作られることになって今にいたっている。

 あいだに目を向けてみると、いまの時点だけがあるのとはちがう。あいだがあって、今とかつてとの二つの点をむすぶようにする。トランプ大統領の米国は、あいだによっていなくて、いまの時点しかないようなあり方だ。かつてがあるのだとしても、それは米国に都合のよいところしかひろい上げていない。

 米国に都合の悪いところを見てゆかないとかつてをふり返ることにはならない。あいだをじっくりと見てゆくと、国は悪いことをやってきているから、それを改めてゆく。

 国が悪いことをやったのを改めるうえで、じょじょに文化の力が高まっていって、人権を大切にする国際の機関なんかが作られることになった。今とかつての二つの点によるあいだをもち出してみると、人権を大切にして国際の法の決まりを守る機関の必要性があるのが分かるから、それを許容するようにしてゆく。

 あいだによらないで、いまの時点だけだったり、米国に都合がわるい過去を見ないようにしていたりする。あいだによらないのだと、必要性があるものを許容しなくなってしまう。

 たとえ反米にあたるものなのだとしても、それを許容の範囲の外に置かないで、許容の範囲の内に置いたほうが、米国はより良くなるし、世界がより良くなることがのぞめる。国の中で与党だけではなくて野党もちゃんと許容するのとるいじ性をもつ。二大政党制をなすようにしてゆく。国においても世界においても数量が一だけではなくて二はあるようにすれば民主主義がなり立つ。

 参照文献 『カルチュラル・スタディーズ 思考のフロンティア』吉見俊哉(よしみしゅんや) 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや) 『橋下徹の問題解決の授業 大炎上知事編』橋下徹(はしもととおる) 『JAPAN UNMASKED : The Character & Culture of the Japanese』Boyé Lafayette De Mente 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『「野党」論 何のためにあるのか』吉田徹 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『過去は死なない メディア・記憶・歴史(The Past Within Us―media,memory,history)』Tessa Morris-Suzuki 田代泰子(たしろやすこ)訳 『考える技術』大前研一 『科学的とはどういう意味か』森博嗣(ひろし) 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『構築主義とは何か』上野千鶴子(ちづこ)編 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『宗教多元主義を学ぶ人のために』間瀬啓允(ませひろまさ)編 『経済ってそういうことだったのか会議』佐藤雅彦 竹中平蔵(へいぞう) 『暴力 思考のフロンティア』上野成利(なりとし) 『家族依存のパラドクス オープン・カウンセリングの現場から』斎藤学(さとる) 『モノが語るドイツ精神』浜本隆志(たかし) 『ヒトラーの正体』舛添要一(ますぞえよういち) 『法哲学入門』長尾龍一 『戦争の克服』阿部浩己(こうき) 鵜飼哲(うかいさとし) 森巣博(もりすひろし) 『科学との正しい付き合い方 疑うことからはじめよう』内田麻理香 『〈現代の全体〉をとらえる一番大きくて簡単な枠組 体は自覚なき肯定主義の時代に突入した』須原一秀(すはらかずひで) 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『右傾化する日本政治』中野晃一(こういち) 『徹底図解 社会心理学 歴史に残る心理学実験から現代の学際的研究まで』山岸俊男監修 『絶対に知っておくべき日本と日本人の一〇大問題』星浩(ほしひろし) 『社会的排除 参加の欠如・不確かな帰属』岩田正美 『十三歳からのテロ問題―リアルな「正義論」の話』加藤朗(あきら) 『希望のつくり方』玄田有史(げんだゆうじ) 『社会認識の歩み』内田義彦(よしひこ) 『超訳 日本国憲法』池上彰(いけがみあきら) 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『原理主義と民主主義』根岸毅(たけし) 『テロリズムと日常性 「九・一一」と「世なおし」六十八年』加藤周一 凡人会 『トヨタ式「スピード問題解決」』若松義人 『十八歳からの民主主義』岩波新書編集部編 『大学受験に強くなる教養講座』横山雅彦 『アジア辺境論 これが日本の生きる道』内田樹(たつる) 姜尚中(かんさんじゅん) 『ナショナリズム 思考のフロンティア』姜尚中

自己(自国)否定になりかねない日米の行動

 すごい悪い国だからといって必ずしも無くなったほうがよいわけではない。国だけではなくてほかの集団や個人もそうだ。

 国であれば、それがよい国だったらあってもよいけど、悪い国だったら無くしたほうがよいのか。悪い機関だったらそれを無くしたほうがのぞましいのか。必ずしもそうだとはできそうにない。

 もしも悪い国だったらそれを無くしたほうがよいのであれば、いまのアメリカはなくしたほうがよいことになりかねない。ならず者の国(rogue state)になっているところがあるのがいまのアメリカだろう。国際の法の決まりをやぶっている。

 そのものが有るのは事実ではあるけど価値とはちがう。かくあるのは事実に当たり、かくあるべきなのは価値にあたる。かくあるのは英語の単語でいえば be だ。かくあるべきなのは ought である。

 be は基本の語の一つだからどちらかといえば意味はわかりやすい。ought はとうぜん何々するべき、の意味をもつ。とうぜん何々するはず、といった意味だ。ought to だと意味はこうなる。何かをするべきだ。なぜならそれをすることが正当だからである。

 誤びゅうにおちいらないように気をつけることがいる。誤らないようにしてゆく。事実であるかくあるから、価値であるかくあるべきを自動でみちびくと自然主義の誤びゅうにおちいってしまう。

 方法論として、事実と価値の二元論によってみる。事実と価値の二つにふ分けしてみると、たとえアメリカがあるからといって、それが必ずしもあるべきだとはできそうにない。

 ならず者の国といえるほどにアメリカが悪くなっているのであれば、それがないほうが世界にとってのぞましいかもしれない。ほかの国にとってはのぞましいことがありえる。アメリカから不利益をこうむっている国にとってはよいことになる。

 アメリカにとってはあってほしくないのが反米の国や機関だろう。このさいの反米は、アメリカと対立していたりアメリカを批判していたりするものだ。

 反米の国や機関をなくすべきだというのだったら、アメリカをなくすべきだとするのもまたなり立ってしまう。反米の国や機関の視点に立ってみると、アメリカがなくなったほうが都合がよいから、アメリカがいなくなったほうが助かる。

 かつてのドイツの中にはユダヤ人がいた。ドイツにとってユダヤ人は悪いものだとされて、排除されることになった。ユダヤ人であることからそれが悪いのだとされたから、事実である be から自動で価値である ought をみちびいたのである。

 いくらドイツにとって悪いものだとされていて都合が悪いのがユダヤ人なのだとはいっても、それが有るのは be なのだから、事実である be から自動で価値である ought をみちびくべきではなかった。ユダヤ人がいるのは be であり、その事実を認めるようにするのがふさわしかったのをふり返ることができる。

 いますごい悪くなっているところがあるアメリカであっても、それがあるのは事実である be にあたる。ならず者とできるほどにいまアメリカが悪くなっているのだとしても、だからといってアメリカがあることをもってして、それがあるべきではないとするのは性急だろう。いちおうアメリカがあることは認めてゆく。あることそのものである、事実としてのかくあるのところは否認しないようにする。

 反米の国や機関は、アメリカにとっては悪いものにあたるだろうけど、そうであるからといってそれがあるのは事実にとどまる。事実としての be にとどまるものであり、何かがどこかにあることにすぎないものである。あるものが世界の中のどこかにあるだけである。

 ユダヤ人はいるべきではないとしたように、事実としての be を否認してしまうと政治にはならない。政治ではなくて非政治の行ないになる。アメリカが反米の国や機関をなくそうとするのは、ちょうどかつてのドイツがユダヤ人を排除したのと類似性をもつ。

 視点を変えてみると、反米の国や機関もまた、たとえアメリカとぶつかり合うのだとしても、少なくともアメリカがあることは否認しないようにしたい。事実としての be のところは否定しないようにするのでないと、政治をなすことにならない。非政治をなすことになってしまう。

 まずはそれがどこかにあることを認めてゆく。be の単語がもっている意味あいは、それがどこかの場所にあることを示す。場所は状態をふくむ。広い意味での場所である。価値としてはそれがあるべきかもしれないし、あるべきではない(いまのあり方を改めるべき)かもしれないが、それは定かとはできそうにない。人それぞれで色々な見なし方がなり立つ。

 普遍(ふへん)化の可能性の試し(test)をやってみると、自分たちで自分たちを否定してしまっているのがアメリカだろう。かつてのドイツにおいてもそれと類似性をもつことがなされた。かつてのドイツにおいてユダヤ人を排除したのは、普遍化することができない差別に当たっていた。かつてのドイツは自分たちで自分たちを否定することをやっていたことになる。かつてのドイツもまたそれがあるべきではないのだとできることになる。

 反米の国や機関を排除するのではなくて、ちがうものを排除してゆく。何をそうするべきかといえば、差別をなくす。普遍化することができない差別を排除するべきなのがアメリカだろう。つねに当てはまる性質なのが普遍である。

 まずは、お互いにそれがあることを認めてゆく。それがあるのは事実としての be にあたることであり、とにかくあることだけは確かなのだから、それがあるべきなのかあるべきではないのかの ought はたな上げしておく。ought については考えを留保(りゅうほ)してしまう。すぐに考えを決めてしまわない。

 いまのところ非政治をやっていて政治をなせていないのがアメリカだろう。非政治だったらお互いにやり取りしないことになる。政治をなすのは双方向のありようだ。相互にやり取りをしてゆく。

 かつてのドイツはユダヤ人にたいして非政治をなしたのがあり、ユダヤ人がいることを否認して排除した。かつてのドイツが政治をなしていたとしたらよかった。政治をなすようにすればユダヤ人がいることの事実を承認できた。それと同じように、アメリカもまた反米の国や機関にたいして政治をなすようにしてゆきたい。

 アメリカと同盟をしているのが日本だけど、いま日本と仲が悪くなっているのが中国だろう。日本は中国とのあいだで政治をなせていない。非政治をなしている。日本が中国を否認するのだったら、中国もまた日本を否認するだろう。

 いまの中国のありようが日本にとってよいか悪いかは置いておくとして、さしあたっては中国があることは否認しないようにしたい。事実としてそれがあるのは be にあたることであり、(日本とおなじように)中国が東アジアの地域にあることは認めざるをえない。

 日中の問題においては、お互いの国どうしで友好をなしてゆく。友愛をなす。友愛(philia)は大きく三つの愛があるとされるうちの一つだ。ほかの二つは、無償の愛(agape)と、理想の状態を求める愛(eros)である。

 くさいところがあるのが愛だ。冷笑されかねない。ばかにされる。友愛をいっている鳩山由紀夫元首相は日本の国の中では主に右派の人たちからばかにされている。ばかにされるところはあるが、いまの状況では愛をもち出す意味が小さくはない。

 憎しみの表現が多く言われているという。ウェブの X(Twitter)などの SNS(social media)では、憎悪の表現が多く言われているとされる。負の表現だ。そうした状況の中ではそれと反立(antithesis)のものにあたる愛をもち出すことに意味がおきてこないではない。憎悪が定立だとすれば愛は反立(反定立)にあたるものだろう。定立と反立の二つは西洋の哲学でいわれる弁証法によるものだ。

 大きくいったさいに三つの愛があるとされるうちでいちばん利他なのが無償の愛だ。利他と利己のつり合いがとれているのが友愛である。もっとも利己なのが理想の状態を求める愛だ。利己だと、愛のようであっても愛ではなくなってしまう。利他であることがいるのが愛だからである。

 利己にはなりやすいが利他はなかなかできづらい。自分を中心にする発想が利己(egoism)だ。国だったら自国を中心にする発想である。それぞれの国がみんな利己によっていると世界(世界社会)の板ばさみ(dilemma)が深まってゆく。

 国どうしで友愛をなす。お互いに双方向によるようにして、相互にやり取りを深めてゆくようにしたい。日本が政治をなすようにしないと、非政治をなすことになり、中国があることを否認することになる。事実としての be を認めないことになり、そうすると日本があることもまた認めてもらえなくなってしまう。日本なんて無くてもよいといったことになる。日本が自分たちで自分たちを否定することになりかねないからそれは避けるようにしたい。

 参照文献 『カルチュラル・スタディーズ 思考のフロンティア』吉見俊哉(よしみしゅんや) 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや) 『橋下徹の問題解決の授業 大炎上知事編』橋下徹(はしもととおる) 『JAPAN UNMASKED : The Character & Culture of the Japanese』Boyé Lafayette De Mente 『絶対に知っておくべき日本と日本人の一〇大問題』星浩(ほしひろし) 『ナショナリズム 思考のフロンティア』姜尚中(かんさんじゅん) 『本当にわかる論理学』三浦俊彦 『知の技法』小林康夫 船曳建夫(ふなびきたけお) 『高校生のための評論文キーワード一〇〇』中山元(げん) 『ヒトラーの正体』舛添要一(ますぞえよういち) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『ぼくたちの倫理学教室』E・トゥーゲンハット A・M・ビクーニャ C・ロペス 鈴木崇夫(たかお)訳 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『国家のエゴ』佐藤優(まさる) 姜尚中 『エクスプレス E ゲイト英和辞典』田中茂範(しげのり)、武田修一、川出才紀(さいき)編 『歴史を繰り返すな』坂野潤治(ばんのじゅんじ) 山口二郎 『倫理学を学ぶ人のために』宇都宮芳明(よしあき)、熊野純彦(くまのすみひこ)編 『差別原論 〈わたし〉のなかの権力とつきあう』好井裕明(よしいひろあき) 『善と悪 倫理学への招待』大庭健(おおばたけし) 『暴力 思考のフロンティア』上野成利(なりとし) 『罪と罰を考える』渥美東洋(あつみとうよう) 『ラクして成果が上がる理系的仕事術』鎌田浩毅(ひろき) 『入門 パブリック・リレーションズ 双方向コミュニケーションを可能にする新広報戦略』井之上喬(たかし)編 『思考のレッスン』丸谷才一(まるやさいいち) 『十三歳からのテロ問題―リアルな「正義論」の話』加藤朗(あきら) 『徹底図解 社会心理学 歴史に残る心理学実験から現代の学際的研究まで』山岸俊男監修 『こうして組織は腐敗する 日本一やさしいガバナンス入門書』中島隆信 『原理主義と民主主義』根岸毅(たけし) 『コアレックス英和辞典 第三版』野村恵造(けいぞう、編集主幹) 『十三歳からの日本外交 それって、関係あるの!?』孫崎享(まごさきうける)

予測が困難(unpredictable)な日米の政治の現状

 予測ができづらい。いまのアメリカはそうなっている。

 どうして予測ができづらくなっているのか。アメリカがどう動くかの予測ができづらくなっているのは、国としての原理をもっていないからである。

 原理をもつことの大切さを心理学者の山岸俊男氏はいう。集団主義なのが日本だが、とりわけ西洋の個人主義の国ではそれぞれの個人が原理をもつことがよしとされる。集団にもそれは当てはまる。

 国は主権をもつ。国を統治するさいの最高の権力だ。国が主権をおもんじすぎると、国の内の領域にこもることになる。外の領域に気くばりがゆかなくなってしまい、外の思考が欠けることになる。フランスの哲学者のミシェル・フーコー氏がいったのが外の思考だ。

 国の主権がいくら大事だとはいっても、それを重んじすぎると部分の秩序の絶対化におちいる。国はあくまでも部分の秩序にすぎず、全体の秩序である世界(世界社会)があることをないがしろにしづらい。部分の秩序である国に重みをもたせすぎると非科学になる。未開の擬人(ぎじん)化の思考だ。

 擬人化の思考はオーストリアの法学者のハンス・ケルゼン氏によるものである。非科学の思考をさす。宗教でいわれる神さまとは、世界を擬人化したものだ。科学によってみると神の死(最高の価値のぼつ落)となる。国もまた擬人化によるものであり、実体や本質はない。科学によってみると、法(rule)はあるけど国はない。

 国が内に閉じたありようになると外の思考が欠けてしまう。そうすると中心化がおきる。アメリカだったらアメリカ中心主義だ。ドナルド・トランプ米大統領はアメリカを中心とするあり方をとっている。

 いまのアメリカは右派のあり方だ。それに比べて、いまアメリカと対立している国際刑事裁判所(International Criminal Court)は左派のあり方だ。日本の国の中における政治でいうところの左派に当たるのが国際刑事裁判所だろう。

 いまの日本の政治では左派は人気がない。支持がすごく低いのが左派だけど、国の外に目を向けてみると、(日本でいうところの左派に当たる)国際刑事裁判所はけっこう支持をうけている。

 それなりに仲間をつくれているのが国際刑事裁判所だ。仲間をつくるためには原理を持っていなければならない。まっとうな原理をもつことによって、そのものがどう動くかの予測がなり立ちやすくなる。

 いまの国際刑事裁判所の所長は日本人の女性だという。日本人の女性だといったこともあり、アメリカのトランプ大統領の政権からにらまれている。日本はアメリカに戦争で負けたのだから、アメリカを悪くいうことは許さない。

 敗戦した国である日本が戦勝したアメリカにさからうことは許容しない。そのための見せしめもあって、アメリカのトランプ大統領の政権は国際刑事裁判所の解体などをいっていそうだ。きつく当たっている。

 右派なのが日本の高市早苗(たかいちさなえ)首相だ。右派だから左派とはおりあいがすごく悪いけど、そうでありながらも、高市首相と仲間になることができているのが国際刑事裁判所だ。高市首相に国際刑事裁判所の人たちが面会したさいに、高市首相ははげましのことばを言った。すごく重要な機関であり、価値が高い。国際刑事裁判所のことを応援しているといったことを高市首相はのべている。

 左派だったらわかるけど、そうではなくて右派の政治家であるのにもかかわらず、高市首相が承認して(お金などを)配分するところのものなのが国際刑事裁判所である。右派の政治家にも仲間をつくれている。これは国際刑事裁判所が原理をもっていて、予測ができやすいことからきている。

 アメリカに従属しているのが日本だ。日本の右派は親米なのがあり、右派の政治家である高市首相はアメリカに従うあり方だ。いまのアメリカのトランプ大統領による政権は原理をもっていないから予測ができづらいけど、それに従わざるをえなくなっているのがいまの日本である。アメリカは原理をもっていないし、日本も原理をもっていないから、アメリカと日本は本当の意味での仲間どうしとはちがう。

 外の思考によってみる。国際刑事裁判所は外の思考によれているところをもつ。アメリカはそれが欠けている。それでアメリカ中心主義になり、全体化がおきている。そうなっているのを改めて、脱中心化や脱全体化してゆく。

 急進の左派がいまアメリカでは力をもち出しているという。社会民主主義や、民主社会主義である。広くいうところの社会民主主義とできそうだ。議会を否定するのではなくて、その中で左派のあり方をなそうとしてゆく。

 右派だけではなくて左派もそれなりにいるのがアメリカなのだから、右派だけを中心化することはできそうにない。右派だけで全体化することはできず、左派もくみ入れることがいる。

 全体は虚偽である。全体は非真実だ。ドイツの哲学者であるテオドール・アドルノ氏による。アメリカの全体は虚偽であり非真実だ。国の全体が国際刑事裁判所と対立しているわけではなくて、国の中には国際刑事裁判所と協調する人たちも少なからずいるものだろう。社会民主主義などの左派の人たちだったらまっとうな国際の機関と協調できるのにちがいない。

 日本の国の政治においては国際刑事裁判所は左派にあたる。右派とは見なせそうにない。右派の政治家である高市首相でさえも認めるところのものなのが国際刑事裁判所なのだから、それからすると、日本の左派はもっと承認されてもよいはずだ。

 否認されすぎているのがいまの日本の左派である。排除されている。右傾化がおきていて、右派が力をもちすぎているのがあるから、そこを改めてゆきたい。なにかと悪く言われることが多いのが日本の左派だが、それと類似(るいじ)性をもつ国際刑事裁判所は、日本の高市首相や、そのほか世界のいろいろな国々から承認されて配分をうけている。

 仲間を作れているようで作れていないのがアメリカだ。日本の国の中では、高市首相もまたそうである。仲間を作れているようでいて作れていないのは、原理をもっていないからであり、どう動くのかが予測しづらいためである。

 もしもアメリカが国際刑事裁判所のように原理をもっていたとしたらどうだろうか。まっとうな原理をもっているのだとすれば、アメリカがどう動くのかを予測しやすくなる。国際法をしっかりと守りつづけてゆくといったようなまっとうな原理をアメリカがもっていれば、国際法をやぶるようなことはやらないだろうから、原則論として武力の行使はなさないのだと見なせる。

 日本の国の内を見てみると、どう動くのかの予測が立たないのが高市首相だ。アメリカに従っているだけだから、アメリカがどう動くのかが予測できないのとともに、アメリカに従っている高市首相もまたどう動くのかが予測できづらい。

 仲間を作れていないようでいて作れる見こみがあるのが日本の左派だろう。人気がなくて支持がすごく低いけど、その中でまっとうな原理をもつようにすれば、だんだん仲間を増やしてゆけるかもしれない。まっとうな原理をもっていれば、予測がなり立つのだから、右派の政治家の高市首相でさえも承認して配分するくらいのことが見こめる。右派ですらその存在理由を認めざるをえず、一定の存在価値があるのだとせざるをえない。

 参照文献 『カルチュラル・スタディーズ 思考のフロンティア』吉見俊哉(よしみしゅんや) 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや) 『橋下徹の問題解決の授業 大炎上知事編』橋下徹(はしもととおる) 『JAPAN UNMASKED : The Character & Culture of the Japanese』Boyé Lafayette De Mente 『徹底図解 社会心理学 歴史に残る心理学実験から現代の学際的研究まで』山岸俊男監修 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『十三歳からのテロ問題―リアルな「正義論」の話』加藤朗(あきら) 『右傾化する日本政治』中野晃一(こういち) 『公私 一語の辞典』溝口雄三 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『アジア辺境論 これが日本の生きる道』内田樹(たつる) 姜尚中(かんさんじゅん) 『ナショナリズム 思考のフロンティア』姜尚中 『国体論 菊と星条旗』白井聡(さとし) 『国家のエゴ』佐藤優(まさる) 姜尚中 『現代政治理論』川崎修(おさむ)、杉田敦(あつし)編 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『法哲学入門』長尾龍一 『スーパー・アンカー英和辞典 第五版』山岸勝榮(かつえい、編集主幹) 『社会学になにができるか』奥村隆編 『現代思想の断層 「神なき時代」の模索』徳永恂(まこと) 『現代思想を読む事典』今村仁司(ひとし)編 『構築主義とは何か』上野千鶴子(ちづこ)編

法の三段論法で考える戦争の批判

 国が戦争をやってもよいのだとは見なしたくない。

 戦争がおきてしまう時代になったのだから、時代に合わせてゆく。時代に合わせるために軍備の拡張がなされているけど、それを批判するにはどうしたらよいのだろうか。

 三つの段を使ってみてゆく。国がなす悪い行ないを、三つの段によってとらえるようにする。法の三段論法である。

 論理の三段論法はかなり厳密なものだ。いい加減な使い方は許されないものである。内容はともかくとして形式はきっちりさせることが求められる。大前提、小前提、結論の三つによる。推論によって形式として結論をみちびいてゆく。

 論理の三段論法よりも少しだけゆるさがあるのが法の三段論法である。

 三つの段からなっていて、決まり(rule)、事実の認定や当てはめ(application)、結論(conclusion)だ。

 アメリカのドナルド・トランプ大統領や日本の高市早苗(たかいちさなえ)首相は、今の時代は戦争がよしとされる時代なのだといったあり方をしている。いまは戦争がおきることがあるのだから、どんどん軍備を拡張してゆくことがいるのだとする。

 国の大統領や首相がどういう戦争への見なし方をもっているのかを見てみる。ロシアのウラジーミル・プーチン大統領やアメリカのトランプ大統領や日本の高市首相なんかは、正戦論や無差別戦争観によっているものだろう。

 正戦論は戦争と正義を結びつける。正義のためだったら戦争をやってもよい。無差別戦争観は戦争と正義を切りはなす。現実論として国どうしの力の関係によって戦争がおきることがあるのだする。

 すぐに結論をみちびくのにまったをかけてみる。戦争をやってもよいのだとする結論をみちびいていそうなのがロシアやアメリカや日本の国の長(leader)だけど、それとはちがう結論をみちびきたい。そのさいに、できるだけ過程(process)を重んじてみたい。

 過程を重んじるために、三つの段によるようにしてみる。さいごの三つ目の段で結論をみちびくようにしてみる。

 いちばんはじめの段は規範(きはん)である。国際においてどういう規範があるのかといえば、戦争は違法だとするものだ。これは違法戦争観である。そもそも戦争をやってはいけない。国は原則論として武力の行使をしてはいけないのだとなっている。国際連合の憲章(けんしょう)である。

 ロシアがウクライナにやったことや、アメリカがベネズエラやイランにやったことは、原則論からすると違法なことに当たるものだ。国際の規範をやぶっている。

 いちばんはじめの段を確かめてみると、そもそも、国は戦争をやってはいけないし、例外論に当たらないかぎりは武力の行使をしてはならない。例外のこととは、自国に明らかな危険が迫っているときに自国を守るために限定して武力を使うさいなどである。

 実証できやすいのが一番はじめの段だ。国際の規範がどうなっているのかは確かめることができやすい。いまのところ、ロシアやアメリカなんかであっても、国際の規範を改正するべきだといったことは言われていないものだろう。

 アメリカは国際刑事裁判所(International Criminal Court)については解体するために力をつくすといったことを言っている。そう言ってはいるけど、それは機関を解体することを言っているのであり、その機関がものごとを判断するためにもととするところのものである国際の規範を改正するべきだとは言っていない。

 たとえアメリカにとってつごうが悪い機関を解体したところで、機関が判断するためによりどころとするものは残りつづけるのだから、アメリカのやろうとしていることはそこまで意味があることではなさそうだ。

 その規範がよいものなのか悪いものなのかは別にして、事実としてその規範があることは否定しづらい。よいか悪いかの価値は置いておくとして、事実としてその規範があるのだったらそれを守るように努めてゆく。法の実証主義のあり方である。

 二つ目の段をみてゆく。二つ目は、ロシアやアメリカが国際の規範に反したことをやったかどうかが関わる。戦争をやってはいけないとか、武力の行使を原則としてしてはいけないといった規範をやぶったのだと言わざるをえないのがロシアやアメリカの行ないだろう。

 悪い規範だったら守らなくてもよい。よい規範ではないのだったらやぶったってよいとすることはできなくはないけど、それは法の実証主義によらないあり方だ。ロシアやアメリカ(や日本)にとって、戦争をやってはいけないとか武力の行使は原則としてしてはいけないとする規範は、よくない規範に当たりそうだ。

 価値はそれぞれでちがってきてしまう。たとえロシアやアメリカや日本がよくないのだとする規範であったとしても、それをよいのだとすることもなり立つ。国際刑事裁判所は、国際の規範をよしとしていて、ロシアやアメリカや日本とは価値の見なし方がちがっている。

 法の実証主義だったら、価値が合わないでちがっていたとしても、事実を重んじられる。事実として規範があることを重んじて、できるだけ守ろうとしてゆく。なるべく規範を守るようにしてみると、それを守るべきなのにもかかわらずやぶったのがロシアやアメリカの行ないだとできる。これは二つ目の段に関わることがらだ。

 いきなり結論をみちびくのにまったをかけて、一つ目の段と二つ目の段をへてゆく。そうはいっても、もともとがアメリカを批判することを意図している。もともとが日本を批判するのを意図しているのはあるけど、そのさいに、じかに結論を示すのであるよりは、法の三段論法をつかってやってみたほうがうったえかけるのによい。

 戦争をなすのは違法である。三つ目の段である結論としてそうみちびけるのがある。この結論をみちびくことは、その内容が、アメリカや日本の考えとはちがうことになる。いくら国が言っていることであったとしても、それが最終の結論になるのではないから、国とはちがう結論をみちびくのだとしても何もまずいことはない。

 三つの戦争観があるから、そのうちの二つのものである正戦論や無差別戦争観がなり立ってしまう。いくら悪いとはいってもその二つがなり立ってしまうのはあるけど、できるだけふさわしい戦争観をもつようにしてみる。ふさわしい戦争観とは違法戦争観だ。

 じかに結論をぶつけるのだと、あまり響かないかもしれない。それとはちがって、三つの段によってゆく。一つずつ段をへるようにすることで、歩みを刻むことができる。一つずつの段の確からしさを確かめながら進める。

 たとえ段をふまえたとしても、どっちみちアメリカや日本はそうかんたんに戦争についての悪い考えを捨てそうにはないが、うったえかけの効果は少しは高まるかもしれない。

 アメリカや日本は、ちゃんとした段をへているのではない。法の三段論法によっていないで、それで戦争をよしとしているわけだから、とちゅうの過程をすっ飛ばしている。

 過程を軽んじないで、法の三段論法を用いるようにして、考えを深めてゆく。議論を深めてゆく。アメリカや日本にいるのはそれである。歩みを刻み、一つひとつの刻み目の確からしさをていねいに確かめながらすすむ。

 参照文献 『カルチュラル・スタディーズ 思考のフロンティア』吉見俊哉(よしみしゅんや) 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや) 『橋下徹の問題解決の授業 大炎上知事編』橋下徹(はしもととおる) 『JAPAN UNMASKED : The Character & Culture of the Japanese』Boyé Lafayette De Mente 『中高生のための憲法教室』伊藤真(まこと) 『人を動かす質問力』谷原誠 『戦争の克服』阿部浩己(こうき) 鵜飼哲(うかいさとし) 森巣博(もりすひろし) 『一三歳からの法学部入門』荘司雅彦 『よくわかる法哲学・法思想 やわらかアカデミズム・〈わかる〉シリーズ』ミネルヴァ書房 『構築主義とは何か』上野千鶴子(ちづこ)編 『考える技術』大前研一 『法哲学入門』長尾龍一 『本当にわかる論理学』三浦俊彦 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『細野真宏の数学嫌いでも「数学的思考力」が飛躍的に身に付く本!』細野真宏 『東大人気教授が教える 思考体力を鍛える』西成活裕(にしなりかつひろ) 『憲法という希望』木村草太(そうた) 『思考のレッスン』丸谷才一(まるやさいいち) 『議論のレッスン』福澤一吉(かずよし) 『増補版 大人のための国語ゼミ』野矢(のや)茂樹 『勝つための論文の書き方』鹿島茂 『公共性 思考のフロンティア』齋藤純一

国際刑事裁判所(ICC)の真価

 日本のあいまいさを批判したい。

 はら芸の文化をもつ。甘えの構造によっている。日本にはそれらの悪さがある。

 日本とはちがって、国際刑事裁判所はよいか悪いかをはっきりさせているところがある。それでアメリカからにらまれている。

 アメリカが言っているように、国際刑事裁判所(International Criminal Court)は解体することがいるのだろうか。否認するべきものなのだろうか。

 一九九三年につくられたのが国際刑事裁判所(ICC)だ。個人をとり上げる。大きな人権の侵害(しんがい)をおかした個人をとりあつかう。国の長(leader)などの罪をあつかえる。

 日本はアメリカと距離が近い。それとはちがって国際刑事裁判所は時によってはアメリカとの距離が遠くなる。

 ロシアや中国なんかが悪いことをやったさいには、国際刑事裁判所はアメリカとの距離がやや近くなる。アメリカといっしょに協調することがなり立つ。

 状況によって意味あいが変わってくる。いついかなるさいにもアメリカとの距離が遠いのが国際刑事裁判所なのだとはできそうにない。どういうときに距離が遠くなるのかといえば、アメリカが悪いことをやったさいである。

 状況によってアメリカが悪くなることがある。状況のちがいをくみ入れてみると、アメリカはよい国であり正義なのだとは含意することができそうにない。おなじことが国際刑事裁判所にもいえて、たとえばロシアや中国なんかが悪いことをやったさいにはアメリカにとって国際刑事裁判所はよいものだと見なせることになる。

 とくにアメリカが悪いことをやっていないときには、国際刑事裁判所との距離が遠くはならない。アメリカとの距離がとくに遠くなっていないさいには協調がなり立ちやすいからおもてなし(hospitality)をすることはあまりいらない。

 協調がなり立ちづらくて対立がおきているときにこそ、その遠くなっているものを客むかえすることに意味がおきてくる。アメリカが悪いことをやったさいに、国際刑事裁判所がアメリカのことを批判する。アメリカを批判することによってお互いの距離が遠くなるから、そのさいにはアメリカが国際刑事裁判所を客むかえすることがいる。

 解体するべきなのではなくて、承認するべきなのがある。距離が遠くなっているものを客むかえして承認するようにする。アメリカは一つの主体(行動者)だけど、それとは別のもう一つの主体なのが国際刑事裁判所だ。

 二つの主体がいて、その主体どうしがぶつかり合っているのだから、そのうちの一つの主体だけをよしとするのはかたよりがおきることになる。さしあたって二つの主体をどちらも認めるようにしたい。すぐにどちらか一方だけが悪いのだと決めつけるのは性急だ。

 比べてみると、国際刑事裁判所よりもあいまいさがあるのが日本である。はら芸の文化であり、論理を欠く。言葉を抜きにしてしまう。甘えの構造によっていて、アメリカへの従属がますます強まっていっている。

 日本よりもしっかりしたところがあるのが国際刑事裁判所であり、そこからアメリカとのあいだに対立がおきてしまっている。日本はアメリカをおそれているから、アメリカとのあいだに距離をとれていない。国際刑事裁判所はアメリカとのあいだに距離をとれているからこそ値うちをもつ。

 一体化してしまわないで対象化していたほうが、アメリカのまちがいを見つけやすい。日本はアメリカを対象化できていないから、アメリカのまちがいを見逃していて、甘く許してしまっている。その点で日本には値うちがない。

 一人の個人が自己決定権をもつのには意味があるけど、国が自己決定権をもっていたとしても、国がまったくまちがいをおかさないことを意味しない。国がまちがいをおこすと国の内や外のいろいろな人たちに損や害がおきかねないから、国の権力がしっかりと監視(check)されたほうがよい。

 国の中の上のほうだけでものごとを進めたほうが速さははやい。速さは速いけど形式論の手つづきのところにまずさがおきる。国の中にはいろいろな立ち場の人たちがいるのだし、国の外の人たちの意見もくみ入れたほうがよい。

 アメリカがイランを攻撃するのでも、形式論の手つづきのところにもっと力を入れていれば、アメリカがイランを攻撃するのに歯止めがかかった見こみが高い。手つづきのところにしっかりと力を入れると速さはおそくなってしまうけど、そのぶんだけ歯止めがききやすくなるから実質論としての正しさに近づける。

 経済では市場主義なのがアメリカだけど、政治でも市場主義でやっていったほうがまちがいを防げる。このさいの市場主義とは多元主義のことをさす。多元主義だったら多くの要素からなっているから、そのうちの一つのものとして国際刑事裁判所をふくめられる。多くの要素からなっていたほうが国が暴走しないですむ。

 国の外のところにあるのが国際刑事裁判所だ。国の中だけだと領域をこえられないからまっとうな普遍(ふへん)の原理が欠けてしまう。領域をこえるようなものを持っていないと、絶対の主体にはなれない。関係の主体にとどまることになる。関係の主体だと国に従わせられてしまう。強制に従った行動をとることになる。他律(heteronomy)だ。

 自分の意思でのぞましい行動をとるのが自律(autonomy)である。日本はアメリカに従属しているから他律だ。自律ができていないのが日本である。それと比べると国際刑事裁判所は自律によっていて、そのためにアメリカからにくまれているのだろう。自律によっていると、時としてアメリカとぶつかり合ってしまうことがおきる。

 国の公が肥大化しすぎている。国の思想傾向(ideology)が強まりすぎているから、そこを弱めるようにしてゆく。そうはいっても、国際刑事裁判所もまたまったく思想傾向をもっていないとまではできそうにない。おたがいにそれぞれがもつ思想傾向が異なっているのがアメリカと国際刑事裁判所だ。

 もしも国際刑事裁判所がアメリカを解体するといったら、ちょっと面白いかもしれない。面白いと言ったらよくないけど、アメリカはすごく強い軍事の力(hard power)をもっているから、それによって自分たちが気にくわないものを力によって解体しようとしている。よくないことだ。

 よいも悪いもなくただアメリカに従っているだけなのが日本だから、日本にとってのアメリカは正統性をもつ。日本はアメリカに自発に服従しつづけている。

 日本とはちがって、ほかの主体だったら、必ずしもアメリカは正統性をもっていない。国の力が落ちていっているとされているのがアメリカであり、かつてよりも正統性がなくなっていっているものだろう。必ずしも自発に服従はしない。さからうことがある。

 正当性を問いかけてみる。アメリカのやっていることの正当性を問いかけてみることがいる。国際刑事裁判所がアメリカのやっていることの正当性を問いかけているのだとしたらそれはよいことだ。やるべきことをやっていることを示す。

 かつてよりも文化の力(soft power)は高まっている。文化の力の高まりによって作られることになったのが国際刑事裁判所だ。せっかく作られたものなのだからそれを解体してしまってはきわめてもったいない。どんどん、いろいろな国がやっていることの正当性を問いかけてゆく。

 たとえ力が強くて大きな国なのだとしても、悪いことをやる事例が少なくないのだから、たくさん正当性を問いかけてゆき、たくさん批判をしてゆく。国への批判が増えれば増えるほどのぞましい。

 国への批判を増やすことにつながるのが国際刑事裁判所なのだから、それが自由に活動できるようにして、承認してゆくようにする。否認しないようにする。主体として許容する。状況によってはアメリカに益に働くことがあるのだから、アメリカは二重基準(double standard)をやめないとならない。

 参照文献 『カルチュラル・スタディーズ 思考のフロンティア』吉見俊哉(よしみしゅんや) 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや) 『橋下徹の問題解決の授業 大炎上知事編』橋下徹(はしもととおる) 『JAPAN UNMASKED : The Character & Culture of the Japanese』Boyé Lafayette De Mente 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『現代思想を読む事典』今村仁司(ひとし)編 『公私 一語の辞典』溝口雄三 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『反証主義』小河原(こがわら)誠 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『大学受験に強くなる教養講座』横山雅彦 『法律より怖い「会社の掟」 不祥事が続く五つの理由』稲垣重雄 『日本の難点』宮台真司(みやだいしんじ) 『「戦争と知識人」を読む 戦後日本思想の原点』加藤周一 凡人会 『現代政治理論』川崎修(おさむ)、杉田敦(あつし)編 『境界線の政治学』杉田敦 『楽々政治学のススメ 小難しいばかりが政治学じゃない!』西川伸一 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『よくわかる法哲学・法思想 やわらかアカデミズム・〈わかる〉シリーズ』ミネルヴァ書房 『十三歳からのテロ問題―リアルな「正義論」の話』加藤朗(あきら) 『現代倫理学入門』加藤尚武(ひさたけ) 『ナショナリズム 思考のフロンティア』姜尚中(かんさんじゅん) 『構築主義とは何か』上野千鶴子(ちづこ)編 『経済ってそういうことだったのか会議』佐藤雅彦 竹中平蔵(へいぞう) 『市場 思考のフロンティア』金子勝(まさる) 『考える技術』大前研一 『法哲学入門』長尾龍一 『Japan,the Ambiguous,and Myself:The Nobel Prize Speech and Other Lectures』Kenzaburo Oe 『思考のレッスン』丸谷才一(まるやさいいち) 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『アジア辺境論 これが日本の生きる道』内田樹(たつる) 姜尚中 『国体論 菊と星条旗』白井聡(さとし) 『社会的ジレンマ 「環境破壊」から「いじめ」まで』山岸俊男 『これが「教養」だ』清水真木(まき) 『暴力 思考のフロンティア』上野成利(なりとし) 『戦争の克服』阿部浩己(こうき) 鵜飼哲(うかいさとし) 森巣博(もりすひろし)

日本政治の大前提の価値観:天皇制と軍隊に疑問をもつ

 高市首相とはぜんぜんちがう価値観をもつ。差異化してみる。

 二つのものがとくに日本の政治では大事だ。与党の自由民主党の高市早苗(たかいちさなえ)首相はそういう。その二つとは天皇制と軍隊だ。

 天皇制と軍隊をとくに大事にするような価値観はふさわしいものなのか。

 いま生活で困っている人がおきている。生活に困窮(こんきゅう)する人たちを救うのをほったらかしにしておいて、天皇制を保つのにいそしむ。男性が天皇になりつづけられるように力を入れてゆく。高市首相のあり方だ。

 天皇制と軍隊の二つを重んじるのだと、戦前の日本のあり方にもどってしまう。戦前の日本は天皇主権主義だった。天皇が政治の大きな権利をもつ。形の上でである。戦後の日本は国民主権主義になっている。それとともに戦後は(軍隊を重んじないようにする)平和主義であり基本的人権尊重主義でもある。

 高市首相は日本の政治において二つのものがもっとも大事だとしているけど、それよりももっとたんじゅんで体系(system)だったあり方をもち出してみる。

 戦前の日本はともかくとして、戦後の日本の政治においてもっとも大事なものは一つだけでよい。高市首相のように天皇制と軍隊の二つを重んじなくてもよいのがあり、それらの二つよりももっとうんと重みがあるものなのが、個人の尊厳だ。

 かつての日本をふり返ってみる。かつての日本は、高市首相が重んじているところのものである二つのものによって個人の尊厳がそこなわれた。天皇制と軍隊によって日本人や外国人の個人の尊厳がおおきく傷つけられることになった。

 たった一つのものである個人の尊厳をいちばん重んじてゆく。そのほかのものは、それが個人の尊厳をはたすのに役に立つものだったらよいものだし、役に立たないものだったらよくないものだ。

 天皇制それそのものに価値があるのであるよりも、それはあくまでも手段にすぎないものである。目的に当たるものなのが天皇制なのではないのだから、それほど重みはない。目的に当たるものである個人の尊厳を達するのに益にはたらくかどうかで、天皇制の値うちは変わってくる。

 軍隊それそのものが大事なのとはちがい、あくまでもそれは手段にとどまる。軍隊を目的にしてしまうと、それそのものが大事になってしまい、国民のことはどうでもよくなってしまう。

 かつての歴史をふり返ってみると、天皇制と軍隊はともにもっとも大事なものだとされていて、そのための手段だとされたのが国民だ。天皇制を守るために軍隊があった。国民を守るために軍隊があったのではない。天皇制さえ守られればそれでよかったのだから、国民の命は軽んじられることになる。

 高市首相がもっている価値観は、戦後の日本の政治家としてはふさわしくないものだろう。戦前の日本の政治家としてはとくにおかしくはない価値観だったかもしれないが、いまの日本では時代おくれのものである。

 日本といえば天皇制だとか、軍隊がしっかりとしていて強くなければならないのだとする。日本ならではといったあり方だと、特殊におちいってしまう。かつてのあり方としては、戦前の日本は富国と強兵の政策でやっていた。

 固有の性質をもったものとして日本をとらえるのではなくて、つねに当てはまる性質のものとして日本をとらえてみたい。高市首相は固有の性質としての日本が好きなようだけど、それだと戦前の日本にもどっていってしまう。日本の負の歴史をかろんじることになる。

 個人の尊厳をいちばんに重んじるのだったらつねに当てはまる性質だ。普遍(ふへん)のあり方だから、日本にも当てはまるし、ほかのどの国においても当てはまる。どの時代のどの地域においても重んじるべきものである。

 そんなに重んじなくてもよいものなのが天皇制と軍隊だろう。天皇制は象徴にすぎないものなのだから、そこまで重みはない。象徴のあり方は極小のあり方だ。戦前の天皇制は極大のあり方だったからまちがってしまった。

 極大のあり方だとよくないのが天皇制だ。国内はいまは極小だけど、国外では極大になっているからよくない。国外とはアメリカをさす。戦後の日本にとってアメリカは天皇に当たるところがある。いまのアメリカは、極大の天皇制のようになっているからよくなさをもつ。アメリカにひれふしていて従属しているのがいまの日本だろう。

 大きな失敗をしでかしたのが戦前の天皇制だ。軍隊もまた大きな失敗をしでかした。天皇制や軍隊が幅をきかせるとまずいから、できるだけ抑制をはたらかせてゆく。抑制されていて、力が弱まっていて小さくなっていたほうがよいのが天皇制と軍隊だろう。

 二つだったら数は多いとはいえないけど、高市首相が大事にしているものよりも数をへらせる。数を一つにしぼりこむことができるし、そのほうがよいあり方になる。天皇制や軍隊なんかをもち出さなくてもよくて、それらよりもまっさきに優先させるべきものなのが個人の尊厳だ。

 核心と周辺にふ分けしてゆく。高市首相にとっては日本の政治において天皇制と軍隊が核心なのだろう。何を核心のものだとするのかは標準の同意はないといえばない。みんながうなずけるような標準の同意は政治においてはないといえばないけど、戦前の日本の歴史をじゅうぶんにふり返ることが欠かせない。

 戦争につっ走ったり、人権をしんがいしたり、権力の独裁をしたりする。それらの三つの失敗を国はしでかしがちだ。それらの三つの失敗をしないようにするためには、一つのものだけを重んじるのでよいから、個人の尊厳をしっかりとだいじにしてゆく。

 核心として天皇制と軍隊をあてはめるのだと、国がやりがちな三つの大きな失敗をふせげない。戦争をやったり人権をしんがいしたり権力の独裁をやったりするために、天皇制と軍隊を重んじているのをかんぐれる。

 国が三つの大きな失敗をやらないようにするためには、核心ではなくて、周辺におかれるべきものなのが天皇制と軍隊だ。その二つを核心においてしまうと戦前の日本がやったような大きなまちがいをくり返す。

 国外の天皇制にあたるアメリカに従属しているのがいまの日本だけど、もっともっとアメリカを批判していったほうがよい。距離をとってゆく。アメリカと協調してもよいけど、それだけではなくて対立することもいる。

 アメリカとのあいだで日本は政治をなすべきである。このさいの対立は敵対の対立(antagonism)ではなくて闘技の対立(agonism)である。闘技の民主主義をなすようにできればよい。おたがいに仲よく論争し合う。合意を目ざす対話をなす。敵対の対立になってしまうと戦争になるから避けたい。

 たとえば中国とのあいだで敵対の対立になってしまうと日中の戦争になるからわるい。日中のあいだでも、闘技の対立はあってよくて、闘技の民主主義をやるようにしたい。敵対の対立にだけはならないようにしてゆく。そこまではゆかないようにする。

 参照文献 『カルチュラル・スタディーズ 思考のフロンティア』吉見俊哉(よしみしゅんや) 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや) 『橋下徹の問題解決の授業 大炎上知事編』橋下徹(はしもととおる) 『JAPAN UNMASKED : The Character & Culture of the Japanese』Boyé Lafayette De Mente 『超訳 日本国憲法』池上彰(いけがみあきら) 『絶対に知っておくべき日本と日本人の一〇大問題』星浩(ほしひろし) 『国体論 菊と星条旗』白井聡(さとし) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『境界線の政治学』杉田敦(あつし) 『暴力 思考のフロンティア』上野成利(なりとし) 『歴史を繰り返すな』坂野潤治(ばんのじゅんじ) 山口二郎 『天皇論』鷲田小彌太(わしだこやた) 『構築主義とは何か』上野千鶴子(ちづこ)編 『批判的想像力のために グローバル化時代の日本』Tessa Morris-Suzuki 『歴史 / 修正主義 思考のフロンティア』高橋哲哉 『事例でみる 生活困窮者』一般社団法人社会的包摂サポートセンター編 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『本当にわかる論理学』三浦俊彦 『楽々政治学のススメ 小難しいばかりが政治学じゃない!』西川伸一 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太編 『現代政治理論』川崎修(おさむ)、杉田敦編 『政治の見方』岩崎正洋 西岡晋(すすむ) 山本達也 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『人を動かす質問力』谷原誠 『憲法という希望』木村草太(そうた)