自由主義(liberalism)から見た、政党たたきつぶし問題

 立憲民主党を、たたきつぶす。野党である日本維新の会の代表はそう言う。

 立憲はたたきつぶすけど、与党である自由民主党とはお互いに切磋琢磨し合う。維新の会の代表はそう言っている。

 立憲や自民党について維新の会の代表が言っていることをどのように受けとれるだろうか。

 上の者には弱気で、下の者には強く出る。それが見てとれるのが維新の会の代表の言っていることだろう。自民党のことを批判できない。おくびょうさがある。抑圧の移譲(いじょう)だ。

 事実と価値の二つにふ分けしてみたい。立憲民主党は、たんに有るのだとできるのにとどまる。何々であるの事実(is)にすぎないのが立憲民主党だ。そこから自動で何々であるべきの価値(ought)をみちびいてしまっているのが維新の会の代表だ。

 自然主義の誤びゅうにおちいっているのが維新の会の代表である。立憲民主党や野党の日本共産党などは、何々であるの事実にすぎないものだから、そこから価値を自動で導くことはできそうにない。

 無いのではなくて、あるのが左派の野党だ。事実としてあるのが左派の野党なのだから、政党どうしでお互いにやり取りをし合う。交通(communication)をし合って行く。野党どうしで共闘し合って行く。そうするようにすることがいる。

 おたがいに切磋琢磨し合うとしているけど、自民党と維新の会とは、お互いに対立し合っていない。自民党と維新の会のあいだには対立はないのだから、協調しかなくて、政治は無い。

 維新の会と立憲民主党とのあいだには対立があるから、政治がある。維新の会と共産党とのあいだにも対立があるから、政治がある。

 対立し合う者どうしで、敵に当たる者がいる。敵に当たる者を排除して行く。それだと民主主義ではなくなってしまう。民主主義においてはよき好敵手(rival)はいるけど敵はいない。排除するべき敵はいないのが民主主義である。

 民主主義からいつだつしてしまっているのが維新の会の代表が言っていることだ。できるだけ民主主義によるようにしていって、対立し合う者とやり取りし合う。交通し合うようにして行く。よき好敵手として見なす。

 いくら対立し合っているのだとしても、対立するだけだと良くない。協調することもなければならない。維新の会は立憲民主党共産党などと対立するだけではなくて協調をすることがいる。左派の政党と協調することがいる。

 自然主義の誤びゅうにおちいるのを避けるようにしたい。その誤びゅうにおちいってしまうと非論理になる。論理によっていないのが維新の会の代表が言っていることだ。

 中立な立ち場から判断する思想なのが自由主義(liberalism)である。自由主義の視点の反転の可能性の試し(test)をしてみると、どのような政党や政治家であったとしても、他から一方的にたたきつぶすと言われるのは許容できそうにない。たたきつぶすと言われることはどのような政党や政治家であったとしても受け入れられないものだろう。

 普遍化できない差別に当たるのが、維新の会の代表が言っていることだろう。普遍化できない差別は排除することがいる。特権や差別をなくして行く。自由主義からすると特権や差別があるのは良くないから、なくして行くようにしたい。

 論理や自由主義や民主主義によるようにすることがいる。それらによるようにするためには、いまの日本の憲法を守って行く。憲法ではそれらが良しとされているから、憲法をないがしろにするとまずい。

 参照文献 『本当にわかる論理学』三浦俊彦 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫超訳 日本国憲法池上彰(いけがみあきら) 『暴力 思考のフロンティア』上野成利(なりとし) 『リーダーは半歩前を歩け 金大中(きむでじゅん)というヒント』姜尚中(かんさんじゅん) 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『現代政治理論』川崎修(おさむ)、杉田敦(あつし)編 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『差別原論 〈わたし〉のなかの権力とつきあう』好井裕明(よしいひろあき) 『政治の見方』岩崎正洋 西岡晋(すすむ) 山本達也

かけごとへの依存症から見る、人間のぜい弱性(vulnerability)

 かけごとに依存する。他人のお金を不正に得て、何十億円もの借金をつくる。

 依存症をわずらっていると、周りが見えなくなってしまう。それで他人のお金を不正に得てまで、ばく大な借金を作ってしまう。

 すごい多額の借金をつくってしまったかけごとの依存症の人は、どれくらい悪いと言えるのだろうか。すごいきびしい見かたとしては、万死に値するとまで言われているのがある。X(Twitter)のつぶやきによる。

 かけごとの依存症で多額の借金を作ってしまった人については、きびしく見るべきかそれとも甘く見るべきか、どちらがよいのだろうか。人それぞれでどちらの見かたもできるかもしれない。

 たとえきびしく見るのであるのにせよ、やり直し(redo)ができるようにして行く。それが大事なことだろう。人権によって、さいていでも命だけは保障されるのでないと、やりなおしができない。基本的人権尊重主義だ。

 いまの日本の憲法では人権が重んじられている。たとえかけごとの依存症の人であったとしても、人権が保障(ほしょう)されていることはまちがいない。人であるのならばもれなく保障されるのが人権だ。

 生きているのでないと、やり直しができない。命が保たれるのでないとならないのがあるから、人権によって生きることが認められるようにする。そのうえで、依存症を治療して行く。依存症が治ればやり直すことができるのだから、新しい人生を歩んで行くことがなりたつ。

 罪をおかしたとなると、どうしても原因の帰属を個人に当てはめてしまいがちだ。原因の帰属で、内か外かがあるけど、内だけではなくて外にも帰属させることがなりたつ。個人をとり巻く外の状況の要因だ。

 状況の要因を見てみると、かけごとの産業がある。かけごとの産業は、人からお金をまき上げてお金をもうけているところがあるのはいなめない。あまりよい産業とは言えそうにない。

 人をだまして、落とし穴のようなものにはめこむ。それでお金をもうける産業が中にはあるから、そうしたものは人を幸せにするものではないものだろう。

 できるだけやり直しの機会が多いのがよい社会だ。いまの日本を見てみると、やり直しの機会が多いとは言えそうにない。階層(class)の格差が固定化している。アメリカなんかもそうだろう。格差がしんこくだ。

 光とやみの二つがアメリカにはあるとすると、依存症は闇に当たるものだ。自分の力によってはどうにもならない。非力を認めざるをえない。無力さをつきつけられることになるのである。

 自分で自分をうまく制御して行く。自分がもっている力によってうまく生きて行く。努力して成功にいたる。アメリカの光に当たるところはそうしたものだけど、光が強ければ強いぶんだけ、闇もまた深くなる。

 自分の力をたのみにするあり方は西洋によるあり方だ。自恃(じじ)である。依存症はそれではうまく治りづらいものだろう。東洋のあり方がいる。自分の無力さをさとる。何とかしようと思えば、自分で何とかできるのではなくて、自分ではどうにもならないことが中にはある。

 自分の無力さをつきつけられるようなものについては、西洋のあり方であるよりも東洋のあり方がふさわしい。西洋のあり方によりさえすれば、たとえ何ごとであったとしても何とかなるものではない。何とかならないものも出てきてしまう。

 西洋のあり方や、アメリカの光のところは、勝利だ。かがやかしさがあるけど、その裏のところには敗北がある。依存症は敗北のところがあるから、敗北を認めることがいりそうだ。

 全てにおいて勝つとはなかなか行きづらい。どうしても勝てないものが中にはあるから、それを受け入れて行く。東洋のあり方によるようにして、人間中心主義や人間万能主義によらないようにして行く。人の力ではどうにもならないことも中にはあるのは確かだ。

 単純な分類づけではあるかもしれないが、性でいえば、西洋のあり方は男性のあり方であり、東洋のあり方は女性による。東洋や女性のあり方は手当て(care)だ。他の人の力を借りたり、自分への配慮をしたりして行く。手当てがすごく充実している社会であるのがのぞましい。手当てを充実させて行くために、西洋中心主義や男性中心主義を見なおすことがいる。

 参照文献 『ヘンでいい。 「心の病」の患者学』斎藤学(さとる) 栗原誠子 『超訳 日本国憲法池上彰(いけがみあきら) 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信原理主義と民主主義』根岸毅(たけし) 『脱構築 思考のフロンティア』守中高明罪と罰を考える』渥美東洋(あつみとうよう) 『クリティカル進化(シンカー)論 「OL 進化論」で学ぶ思考の技法』道田泰司(みちたやすし) 宮元博章(みやもとひろあき) 『構築主義とは何か』上野千鶴子

抑制を忘れた日本の経済と政治のゆくえ

 日本の経済をよくして行く。

 経済をよくするために、当たり前のことをやって行く。積極の財政だ。国の財政でお金(借金をふくむ)をどんどん使って行く。

 あたり前のことをやれば、日本の経済はよくなって行くのだろうか。

 ほんとうに芯のところにあることなのではなくて、芯からずれてしまう。ずれたことが言われてしまう。

 まさに芯に当たることではないものが、あたかも芯に当たることであるかのようにされてしまう。ずれがおきることになる。

 ずれているもののほうが、受けがよい。人々からの受けがよいことが言われることになり、どんどん芯からずれて行ってしまう。芯からのずれが大きくなって行く。

 受けが必ずしもよくないのが、芯に当たることだ。派手さはなくて、地味なことなのが芯に当たることだから、それを言っても人々からの受けがよくない。受けがよくないことは、わきに置いやられてしまう。

 どういうことが芯に当たるのかといえば、抑制と均衡(checks and balances)だ。抑制をかけて行く。抑えをきかせることは、人々から受けがよくない。それよりも抑えをとっ払ってしまうようなことのほうが受けがよい。

 中立な立ち場から判断する思想なのが自由主義(liberalism)だ。芯に当たるようにできやすい。抑制(よくせい)と均衡(きんこう)をかけることがのぞめる。自由主義がこわれると、抑制がかからなくなってしまう。専制主義になる。芯からどんどんずれて行ってしまう。

 頭が良ければ、芯から外れて行かないようにできる。なるべく芯に近いところにいつづけようとする。頭がばかだと、芯からどんどん外れていってしまう。

 頭がかしこければ、抑制をかけて行くことの大事さをふまえられる。頭がばかだと、抑制をかけることの値うちがわからない。抑制なんてとっ払ってしまったほうが良いのだとすることになる。

 集団はばかになりがちだ。集団の浅慮(せんりょ)だ。危険性への移行(risky shift)がおきる。集団の思考(groupthink)だ。集団(社会)の心理としてそうしたことがおきる。

 経済を良くする上で気をつけないとならないのは、芯からどんどんずれていってしまうことだろう。芯からずれたことがやられてしまう。そうすると、集団の浅慮のまずさがおきる。危険性への移行になる。

 少しの芯からのずれだったら気がつきづらい。それがつもりつもって、気がついてみたらとんでもなく芯からずれていってしまっていた。抑制がぜんぜんかからなくなってしまっている。それがいまの日本のありようであるかもしれない。

 なんで抑制をかけることが大事なのかといえば、それがえてして外れやすいからだ。集団の浅慮がおきやすい。危険性への移行がおきるあやうさがある。芯から外れてしまいやすいのがあるけど、これまでの日本はその動きがおきている。それで今にいたるのである。

 芯に近づいていって抑制をかけて行くのではなくて、その逆に芯から外れていって抑制をとっ払っているのが日本だろう。そこに少なからぬ危なさがありそうだ。抑制をかけて行くことの値うちが見失われている。

 自由主義によって抑制をかけることをやらないと、経済にせよ政治にせよ、下手をするとはめつがおきかねない。はめつしたあとになって、抑制をかけることの値うちに気がついてももはや手おくれだ。その時になって気がついてももうおそい。

 参照文献 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『徹底図解 社会心理学 歴史に残る心理学実験から現代の学際的研究まで』山岸俊男監修 『思考のレッスン』丸谷才一(まるやさいいち) 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや) 『すべての経済はバブルに通じる』小幡績(おばたせき) 『右傾化する日本政治』中野晃一(こういち)

かくされた問題点に焦点をあてた万博の実像

 どのような報道をすれば、万博についてのかたよりの無い報じ方になるのだろうか。

 二〇二五年に関西で開かれることになっているのが日本国際博覧会である。

 正と負があるなかで、正にかたよりがちなのが万博についての報道だろう。負がとり落とされてしまっている。

 あたかも正のものであるかのように、万博が基礎づけられたりしたて上げられたりしてしまう。報道の中で万博はそのようにあつかわれがちだ。基礎づけ主義である。

 どこからどう見ても、誰がどう見ても、正のものであるとは基礎づけたりしたて上げたりできづらいのが万博である。負のところが少なからずあるのはいなめない。

 ごみを埋め立てたところで行なわれるのが万博だ。ごみからメタンガスが出ていて、爆発する事故がおきた。会場を建てているとちゅうでその事故がおきた。どこでもガスによる爆発がおきかねないのがもよおしの万博なのである。危なっかしいもよおしだ。

 どちらかといえば、批判しすぎるのではない。無批判になりすぎているのが万博についての報道だ。批判しすぎなのではなくて、無批判になりすぎている。本質がぎんみされていない。

 すごくよいもよおしであるかのようにされているのが万博だけど、そこまでよいものだとは言えそうにない。すごくよいもよおしだとするのは、否定の契機の隠ぺいだ。

 報道の中において、万博がもつ否定の契機が隠ぺいされている。否定の契機を隠すのではなくて、それを明るみにするような報道をしなければならない。

 中立な立ち場から判断する思想なのが自由主義(liberalism)だ。はたして万博についての報道は自由主義によれているのかといえば、それによれていない。かなり立ち場がかたよっているのである。万博をよしとする立ち場にかたよりすぎだ。

 いろいろな立ち場があってよいのがあるから、万博をよしとするのがあってよいけど、そのさいに認知のゆがみがはたらく。肯定性(確証)の認知のゆがみだ。

 万博をよしとする立ち場だと、万博の良いところしか目に入らなくなる。万博がもつ悪いところが目に入らなくなるのである。あたかもよいところだけしかないのが万博だといったことになってしまう。

 まったく何の問題もないのが、もよおしの万博だとはできそうにない。少なくとも、会場でガスの爆発がいつでもおきかねない問題をもつ。費用と効果で、大きな経済の効果があると言われているものの、じっさいには費用が上まわってしまい、赤字になるおそれがある問題もある。

 いくつもの問題を見つけて行く。どんどん問題を見つけていって、問題化して行くようにする。問題を見つけて行くうえでは、時制があり、ある問題(過去形)、あらしめる問題(未来形)、あるかもしれない問題(未来形)がある。

 顕在(けんざい)と潜在(せんざい)の二つでは、すでにいくつかの問題があることがわかっているのが万博だ。けん在化されている問題がいくつかある。まだかくれている問題がいくつもあるかもしれないから、せん在化しているものもあるだろう。

 とんでもなく良いもよおしとはできづらいし、とんでもなく悪いもよおしともできづらいのが万博かもしれない。反基礎づけ主義からすると、とてつもなく良いとかとてつもなく悪いとかとは基礎づけたりしたて上げたりできづらい。良いところだけとか悪いところだけとはできないだろう。

 正と負がある中では、報道において、負がとり上げられづらい。正だけによるのが万博なのだとするような報道は良いものではない。負をきちんととり上げるような万博の報じ方であることがいる。正はとり上げられやすいが、負はとり落とされやすいのが万博についての報道にはある。

 参照文献 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫現代思想を読む事典』今村仁司編 『問題解決力を鍛える 事例でわかる思考の手順とポイント』稲崎宏治(いなざきこうじ) 『トヨタ式「スピード問題解決」』若松義人 『ホンモノの思考力 口ぐせで鍛える論理の技術』樋口裕一 『創造力をみがくヒント』伊藤進 『カルチュラル・スタディーズ 思考のフロンティア』吉見俊哉(よしみしゅんや) 『超常現象の心理学 人はなぜオカルトにひかれるのか』菊池聡(さとる)

政治のうら金と、平等の問題

 新しく法を作る。そうすれば、政治のうら金の再発を防げるのだろうか。

 よりよい法に改めて行く。法の決まりを改善しさえすれば、政治のうら金が作られることを防げるのかといえば、そうとは言い切れそうにない。

 制度の正義なのが、法の決まりだ。正義とは、社会における平等のことをさす。

 不平等なのが明らかになったのが、政治のうら金だ。与党である自由民主党にだけ甘い。それいがいにはきびしい。上には甘くて、下にはきびしい。平等ではないのがろていしている。

 まだないものではなくて、すでにある制度がある。げんにあるものとしては、いまの日本の憲法がある。憲法では平等がよしとされている。不平等がいましめられている。そうであるのにもかかわらず、憲法が守られていない。自民党憲法をないがしろにして軽んじているのである。

 もしも自民党憲法をしっかりと守るようにするのであれば、平等になりやすい。不平等がおきづらい。

 ぎゃくにいえば、平等にしたくない。不平等にしたい。自民党はその思わくをもつ。上には甘くて下にはきびしい不平等なあり方にしつづけておきたいから、憲法を守ろうとしないのである。

 いくら新しい法の決まりを作るのだとしても、そもそもの話として、上には甘くて下にはきびしいあり方が温存化されつづけてしまう。

 うら金が作られるのを防ぐための新しい法の決まりを作るのだとしても、上には甘くて下にはきびしいあり方が無くなることの絶対の保証はないのである。うら金が作られることを防ぎ切れない。再発の防止になるかが定かではないのがある。

 上に甘いのであれば、下にも甘くして行く。下にきびしくしているのであれば、上にもきびしくして行く。上と下であつかいをそろえるのでないと、正義にならない。上と下であつかいに差をつけてしまうと、社会における平等をなして行くことにならないのである。

 どういうところに気をつけることがいるのかといえば、制度において、上と下のあつかいのあり方だ。制度においては、上と下であつかいに差があることがあり、上である強者に益になっていて、下である弱者には損になる。上の強者は益を得やすくて、下の弱者は損をこうむりやすい。そういうふうに制度がなっていることがしばしばある。

 上位の次元(meta)に目を向けて行く。上位のところにあるのが憲法であり、そこでは平等がよしとされているのがある。平等化して行くことができるのがあるけど、それをきらっているのが自民党だろう。平等化したくない。不平等であったほうがよい。格差があったほうが自民党にとってはよいのである。

 同じものには同じあつかいをして行く。正義の原則だ。政治のうら金では、正義の原則に反したことがなされている。原則に反しているのがあり、不正義(不正)になっている。それで色々な批判の声が人々からおきているのである。

 あくまでも、自民党はほかのものとはちがう。ほかのものよりも一段ほど上にあるのが自民党だ。同じなのではなくてちがうものなのであれば、ちがうあつかいであってもよい。正義の原則が当てはまらない。

 修辞学でいわれる議論の型(topos)がある。型において、類似からの議論であれば、同じものに当たることになり、同じあつかいにしなければならない。そうではなくて差異からの議論もまたあり、ちがうものなのであれば同じあつかいにしなくてよい。

 ほかのものとはちがう特別なあつかいになっているのが自民党だろう。差異からの議論によっている。この特別あつかいを、はたして普遍化することができるのかといえば、それができるとは言えそうにない。普遍化することができない差別のあつかいになっているのである。

 普遍化することができない差別をなくして行く。不平等なのを、平等化して行く。政治でうら金が作られるのをなくすために、社会における平等をなして行くことがいる。そのための制度はすでにあり、自民党憲法を守るようにすればよい。

 より上位のところに目を向けてみれば、平等をよしとしているのが憲法なのだから、それを自民党が守ろうとせずにやぶっているのがわざわいしているのである。憲法を守るようにしないかぎり、平等化がさまたげられつづけることになるから、政治のうら金が作られることを防ぐことができづらい。

 参照文献 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『超訳 日本国憲法池上彰(いけがみあきら) 『一三歳からの法学部入門』荘司雅彦 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫法哲学入門』長尾龍一 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『差別原論 〈わたし〉のなかの権力とつきあう』好井裕明(よしいひろあき) 『信頼学の教室』中谷内一也(なかやちかずや) 『脱構築 思考のフロンティア』守中高明 『縦並び社会 貧富はこうして作られる』毎日新聞社会部

政治のうら金についての疑いと、元首相

 うら金についての疑いはまったくない。森喜朗元首相に、うたがいがまったくないとしているのが岸田首相だ。

 でんわで聞いてみたら、森元首相にはうたがいがまったくないことがわかったのだとしているのが与党である自由民主党岸田文雄首相である。ほんとうに森元首相にはうら金についての疑いがないのだろうか。

 白と黒と灰色の三つの色で見てみると、森元首相をまっ白だとしているのが岸田首相だろう。本当に白なのかどうかといえば、そうとはできそうにない。少なくとも灰色なのが森元首相だ。

 まったく疑いがないとできるほど白いのではないのが森元首相である。少なくとも灰色なのだから、裏にいるのではなくて、表に出てきてきちんとうら金のことについて説明の責任(accountability)をはたす。それがいるのが森元首相である。

 白だったら潔白だ。黒だったら悪いのが明らかである。灰色はその中間に当たる。灰色だとしたらいったい政治家または公人はどうするべきだろうか。

 完全に白なのではなくてたとえ灰色であるのだとしても、説明しなくてよい。説明の責任をはたさないでよい。とりわけ安倍晋三元首相の政権の時からそうなってしまっている。まちがった悪いあり方になっているのがあり、いまだに改められていない。

 立証や挙証の責任を負っているのが政治家だけど、その責任がほかの者に転嫁されてしまう。責任の転嫁だ。

 いまいちど、どこに責任のありかがあるのかを確かめてみる。立証や挙証の責任がどこにあるのかだ。安倍元首相のときに、その責任が政治家には無いことにされてしまった。政治家を批判する人が、責任を負う。そうされてしまった。

 責任を転じてみる。ふさわしいところに責任を転じるようにする。政治家を批判する人に責任があるのではなくて、政治家じしんが責任を負う。政治家じしんが責任を負うのがあり、立証や挙証の責任をはたさないとならない。

 修辞学でいわれる先決の問題の要求がある。先決の問題として解決や証明が求められるものだ。うら金のことでは、森元首相をふくめて、当事者の政治家が立証や挙証の責任をはたして行く。説明の責任をはたすことがいる。

 疑いがないものは、とにかく疑いがない。悪いことをやっていないものは、とにかくやっていない。そうするのだと、循環の論法になってしまう。論点の先取である。はじめに結論が決められてしまっていて、その結論をくり返しているのにすぎない。ふむべき手つづきがすっ飛ばされていて、とちゅうの過程(process)が欠けてしまっている。結論を支えるための支えが無い。

 とちゅうの過程のところを重んじて行く。手つづきをしっかりとふんで行くようにして、先決の問題として解決や証明がいることを片づけて行く。うら金のことではそれがいるのがあり、自民党の当事者の政治家が立証や挙証の責任を十分にはたさなければならないのがある。

 政治家を批判する人に責任をなすりつけてきたのが安倍元首相のときだから、そのときからつづいている悪いあり方を改めて行く。批判者を排除するのではなくて、包摂して行く。批判者を包摂して行くようにしないと、政治においてのよくない思想の傾向(ideology)がどんどん強まってしまう。

 参照文献 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『「説明責任」とは何か メディア戦略の視点から考える』井之上喬(たかし) 『社会認識の歩み』内田義彦 『追及力 権力の暴走を食い止める』森ゆうこ 望月衣塑子(いそこ) 『「責任」はだれにあるのか』小浜逸郎(こはまいつお) 『反論が苦手な人の議論トレーニング』吉岡友治(ゆうじ) 『うたがいの神様』千原ジュニア 『九九.九%は仮説 思いこみで判断しないための考え方』竹内薫(かおる) 『考える技術』大前研一名誉毀損 表現の自由をめぐる攻防』山田隆司(やまだりゅうじ)

危機への対応と逃避:政党と会社でいること

 政治の政党と、民間の会社を比べてみる。

 政党では、うら金を作っていたのが与党である自由民主党だ。

 悪い行ないをした政党と、悪い行ないをした会社で、共にいることはいったいどういったことなのだろうか。

 周辺と核心にふ分けしてみる。核心に当たることとして何がいるのかといえば、社会の関係(public relations)や説明の責任(accountability)をなすことだ。悪い行ないをした政党や会社は、それらをなすことが核心としている。

 もしも会社が悪い行ないをしたとすれば、その会社は社会の関係や説明の責任をはたさないとならない。それらをはたさないでよいほど、甘くはない。

 会社と同じことが当てはまるのが政党だろう。それなのにもかかわらず、政党においてはやらなくてもよいとされてしまっているところがあるのが、社会の関係や説明の責任をなすことだ。あたかもそれらをやらないですむかのようにされてしまっている。

 そんなにやらないでもよいかのような周辺のこととされてしまっているところがあるのが、政党における社会の関係や説明の責任である。核心のことには当たらないかのようにされているけど、そうではなくて、それらをやることは核心に当たることなのだと見なしたい。

 日本の芸能の会社では、かつての会社の長が悪いことをやっていたうたがいがあり、それがとり沙汰された。そのさいに、会社は社会の関係や説明の責任をそこまでしっかりとはたしていない。

 会社の中でも大手になると、政治との関わりなんかを持っていることがあり、複合体のようになっている。芸能と政治のゆ着である。報道とのゆ着もまたある。ほかの分野とのゆ着があることによって、社会の関係や説明の責任がはたされなくなる。

 力をもった政党だと、ほかの分野との複合体をなしている。政と報(報道)とのゆ着だ。ほかのものとのゆ着があるから、政党が悪い行ないをしたさいに、社会の関係や説明の責任がはたされなくなってしまう。政党へのきびしい追及が行なわれづらい。

 倫理観と双方向性と自己の修正の三つがいるのが、社会の関係や説明の責任だ。それらの三つによることがいるのがあるけど、日本の政党や会社が悪い行ないをしたさいに、それらの三つが抜きになることが少なくないものだろう。とりわけ力をもった政党だとそうなりやすい。

 どこかの会社がもしも悪い行ないをしたさいに、その会社がどういう倫理観を持っているのかを示す。いっぱんの人たちや報道などと、双方向性のやり取りをなす。会社のあり方がおかしいのであれば、自己の修正をして行く。

 一部の大手の会社だと、たとえ悪い行ないが明らかになっても、社の倫理観を示さなかったり、双方向性のやり取りをしなかったり、自己の修正をしなかったりすることがある。力をもった政党もまた一部の大手の会社と同じようになってしまいがちだ。

 会社においては核心に当たるけど、政党だったらそうではなくて周辺のことにすぎない。そこまでやることがいるものではない。会社と政党とでは差異性があることになるけど、そうではなくて類似性があるものとしてみたい。

 政党であれば社会の関係や説明の責任を必ずしもなさなくてもよいのかといえば、そうとはできそうにない。会社のばあいと同じように政党でもまた核心に当たることなのが社会の関係や説明の責任をなすことだ。

 周辺と核心をふ分けしてみたさいに、周辺にあたることだったら必ずしもやらなくてもよいかもしれないけど、核心に当たることは避けては通りづらい。抜きにすることができないものなのであれば、それをしっかりと労力をかけてやってしまったほうが合理性が高い。どこまでもついて回ることになるのが、核心に当たるものだろう。

 核心に当たることをやらないままだと、政党であっても会社であっても、(政党や社が)悪い行ないをしたことについて、それを片づけたことにならない。核心を押さえるようにすることがきもだから、それを押さえるのでないと、うまく逃げ切ったようであったとしても、逃げ切れない。

 かんじんな時に、やるべきことをやっておくのでないと、その政党や会社は、呪われた部分をいつまでも抱えこみつづけることになる。呪われた部分を内に抱えこみつづけているようだと、その政党や会社はこれから先にそう長くは持たないかもしれない。

 これから先において長く生き残りつづけたいのであれば、呪われた部分を片づけるようにして行く。核心に当たることである社会の関係や説明の責任をきちんとなすことがいる。

 正と負の二つがあるなかで、負に当たるものである呪われた部分ときちんと向き合うことが避けられない。人は過剰性をもつから、力を持つ個人や集団は、しだいに負の呪われた部分がたまっていってしまう。乱ざつさ(entropy)だ。何らかの形でとちゅうでそれをきちんと片づけることがいることになる。

 参照文献 『「説明責任」とは何か メディア戦略の視点から考える』井之上喬(たかし) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『共謀者たち 政治家と新聞記者を繋(つな)ぐ暗黒回廊(かいろう)』河野太郎 牧野洋(よう) 『法律より怖い「会社の掟」 不祥事が続く五つの理由』稲垣重雄 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫橋下徹の問題解決の授業 大炎上知事編』橋下徹 『失敗の研究 巨大組織が崩れるとき』金田信一郎 『危機を避けられない時代のクライシス・マネジメント』アイアン・ミトロフ 上野正安、大貫功雄(おおぬきいさお)訳 『こうして組織は腐敗する 日本一やさしいガバナンス入門書』中島隆信 『変われない組織は亡(ほろ)びる』二宮清純(にのみやせいじゅん) 河野太郎 『「責任」はだれにあるのか』小浜逸郎(こはまいつお) 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信

報道の自律性(autonomy)を問う:万博への批判についての論争

 テレビ番組で出演者が万博を批判することを言う。

 番組の中における万博への批判をどのようにとらえられるだろうか。

 批判を言った出演者は、万博への出入りを禁じる。万博から排除する。万博の関係者の政治家はそう言った。

 二〇二五年に関西で行なわれるのが日本国際博覧会だ。

 なんでテレビ番組や新聞では万博への批判があまりなされないのかといえば、報道の媒体は、国の思想の傾向(ideology)の装置だからだ。

 二〇二一年に開かれた東京五輪でも、それを良しとする報道が多かった。五輪を批判する報道はあまりなされなかったのである。五輪に協調してしまう。報道の媒体が、国の思想の傾向の装置であることから来ている。

 国(や地域)のもよおしに協調するのがよいとはかぎらない。悪いもよおしであることも少なくないから、協調してしまうとかえってまずい。非協調のほうがかえって良いことがある。いっけんすると非協調なのはよくないようだけど、そのほうがかえって良いことがあるのである。良くないことに協調したってしかたがない。

 人々をもよおしへと動員(mobilization)して行く。政治ではそれがなされる。動員されることによって、良くないもよおしに協調してしまう。そのばあいは動員されるのにあらがって非協調なほうがよい。動員されて協調してしまうとよくないことが中にはある。

 万博をよしとするのが、万博の関係者だ。万博の関係者は、思想の傾向をもつ。中立なのではなくてかたよっているのである。万博を批判するテレビ番組の出演者もまた思想の傾向をもっているのはたしかだ。

 中立な立ち場から判断する思想なのが自由主義(liberalism)だ。万博の関係者の言いぶんだけによるのだと、一つの立ち場だけによっているからかたよっている。反対の立ち場の視点をくみ入れないとならない。いろいろなちがう立ち場がよしとされることがいる。色々な立ち場があってよい。視点を多様化して行く。

 中立なのではなくてかたよっているのが万博をよしとする関係者である。関係者がもつ思想の傾向へ、批判を行なう。テレビ番組において出演者が万博を批判するのは、思想の傾向への批判だ。思想の傾向への批判は、排除されてしまう。包摂されづらい。ぜい弱性(vulnerability)をもつ。

 現実とはずれてしまっているのが、万博をよしとする思想の傾向だ。現実とはずれてしまっているから、批判を行なうことがいるけど、その批判は排除されやすい。テレビ番組や新聞なんかで万博への批判の報道はあまりなされない。

 何がまずいのかといえば、他律性(heteronomy)による報道だ。何らかの強制にしたがって行動するのが他律性である。万博の報道は他律性になってしまっている。万博をよしとすることを強制させられている。そこにまずさがある。

 自律性(autonomy)による報道が理想である。自分の意思によってのぞましい行動をなすのが自律性である。万博を批判したいのであれば、自由に批判の報道を行なう。万博をよしとするのにせよ、批判をするのにせよ、いずれにしても思想の傾向によっているのはまぬがれないけど、そのうえで、自律性によって報じるのがのぞましい。

 五輪でもそうだったけど、万博においても、日本の報道は他律性によりすぎだ。五輪や万博をよしとする報道が多いのである。報道がもっと自律性によれるようにして行くことがいる。そうでないと、万博においては、それがもつ思想の傾向を批判することができづらい。現実と大きくずれた思想の傾向がまかり通ってしまう。

 なにが大事なのかといえば、万博を開くことであるよりも、憲法を重んじることだ。いまの日本の国の憲法では自律性がよしとされているのである。万博のことはさしあたって置いておくとして、憲法を重んじるようにすれば、万博を批判する報道をしやすい。自律性による報道ができるようになる。

 日本の報道のあり方は他律性によりすぎていて自律性がとぼしいのがあり、そこを批判することがなりたつ。国の思想の傾向の装置なのが報道だから、他律性によってしまうのはあるけど、その中で自律性をできるだけ持つようにして行く。

 万博のことはとりあえず置いておくとすると、憲法をしっかりと重んじるようにしていって、それをないがしろにしないようにすることがいる。かんじんなのは万博よりも憲法だと言えるだろう。憲法をまず重んじるようにすることがいり、それがあってそののちに来るのが万博だ。万博を優先させてしまうのはまずい。

 参照文献 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『政治家を疑え』高瀬淳一 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『超訳 日本国憲法池上彰(いけがみあきら) 『徹底図解 社会心理学 歴史に残る心理学実験から現代の学際的研究まで』山岸俊男監修 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや) 『カルチュラル・スタディーズ 思考のフロンティア』吉見俊哉(よしみしゅんや) 『情報操作のトリック その歴史と方法』川上和久

万博と五輪の、費用に対する効果のじっさいのところ

 もよおしの万博の、費用に対する効果はどれくらいあるのだろうか。

 二〇二五年に関西でもよおされる日本国際博覧会では、なん兆円にものぼるばく大な経済の効果がおきるのだとされている。明らかな正の経済の効果があるのは確かだという。

 そもそも、あらゆるものの費用に対する効果はあいまいだ。はっきりとさせづらいのが費用に対する効果なのである。

 もよおしの五輪(二〇二一年の東京五輪)をもち出してみると、かけた費用にたいしてどれくらいの効果があったのかははっきりとしない。すべての国民にどれくらいの恩恵があったのかは定かではないのがある。

 費用は出であり、効果は入りである。出るものと入るものがあるけど、それらはそこまできっちりとしているものではない。

 すごい少ない出だとされていたのが五輪だ。出が少ないのが五輪だとされていたけど、見通しの甘さがあったのである。とちゅうで出が増えていった。はじめに言っていたのよりも出が多くなったのである。

 少なめにしがちなのが出であり、多めにしがちなのが入りである。見通しが甘くなるのがあり、五輪ではそれがおきた。じっさいにふたを開けてみれば、よけいに出がかかってしまう。出が増えてしまう。

 あらかじめこれくらいの入りがあるだろうとしていたのが、それよりも少ない入りになってしまう。何か思わぬような負のできごとがおきたら、入りが思ったよりも少なくなってしまうことがある。卵がかえる前にひよこの数を数えるなと言われている(Don't count your chickens before they are hatched.)。

 ごまかしをしないで、正直になる。誠実になる。それで万博を見てみると、費用にたいする効果がよいとか悪いとかといったことであるよりも、それをはっきりさせづらい。あいまいなのである。よくわからないものについては、よくわからないのだとするべきであり、あたかもそれがはっきりと分かるかのようにするべきではないだろう。

 すごい費用対効果が高いのだとされているのが万博だけど、そもそもの話として費用対効果ははっきりとさせられないことが多いものだから、あやしさがある。あいまいさがあって明らかにしづらいものを、あたかも明らかにすることができるかのように言っている。分からないことを、あたかも分かるかのように言う。そうだとするとそこには不誠実さがある。

 もうけの話があって、自分が一万円ほど払えば、あとになって一〇万円を得られる。現金で一万円ほど払うことで、あとで現金で一〇万円が得られる。たしかに触知ができる(tangible な)形で、現金を払って、あとで現金を手にできるのだったら確からしさが高い。

 不たしかさがあるのが万博だろう。たしかなのは、税金で費用を払わされる点だ。じっさいに会場に行く人は、入場料などを払う。そこはたしかだけど、見かえりとしてどれくらいの利益が得られるのかは不たしかである。見かえりのところは触知ができない(tangible ではない)。

 ほとんどのものごとは費用対効果がはっきりとしない。それをあたかもはっきりとさせられるかのようにしているのが万博であり、すごい費用対効果が高いかのように関係者は言っている。そこにうさんくささがある。

 費用の痛みは確かにあるのだとしても、効果のところは触知ができない。(絵にかいたもちのように)触知ができない効果でしかなのである。確かに手に取れるような効果があるとはいえず、そこがあやふやだ。わからなくて不明なところは、(分かるかのようにするのではなくて)わからないのだとするのでないと誠実ではない。まるですべてを分かるかのようにするのではなくて、分かるところと分からないところをふ分けしたほうが誠実だ。

 参照文献 『目のつけどころ(が悪ければ、論理力も地頭力も、何の役にも立ちません。)』山田真哉(しんや) 『カルチュラル・スタディーズ 思考のフロンティア』吉見俊哉(よしみしゅんや)

悪い大人たちを問題化する:差別や暴力の問題

 多くの子どもたちや女性たちが、パレスチナでは殺されている。

 イスラエルによってパレスチナの子どもたちや女性たちが殺されているが、その中で子どもに目を向けてみるとどういったことが見えてくるだろうか。

 大人と子どもを比べてみる。子どもよりも大人の悪さが浮かび上がってくるのがある。

 パレスチナの子どもたちは、成長して大人になったら暴力主義者(terrorist)になるかもしれない。暴力主義者になるのをあらかじめ防ぐのだとして、イスラエルパレスチナの子どもたちを殺す。子どもを殺すのを正当化している。

 どういうのが悪い人なのだろうか。悪い人とは、力をもった子どもだ。子どものような大人である。

 じっさいの子どもは力をもたない。非力である。まだ大人のような理性をもたない。善や悪の判断が十分にできないため、善悪の彼岸にある。大人におけるような罪を当てはめられないのである。

 見かけは大人だけど、中身は子どもで、力をもっているのが悪人だ。形式としては大人だけど、実質は子どもである。思想家のトマス・ホッブズ氏はそのように言う。

 たとえイスラエルの子どもであろうとも、パレスチナの子どもであろうとも、やがて成長して大人になったさいに悪人になることがある。悪い大人になることがあり、力をもった子どもになることがある。どこの国または地域の子どもでも、しょうらい悪人になることがある点では共通点をもつ。

 日本の国を見てみると、差別主義者の政治家がいる。与党である自由民主党の政治家で差別主義者がいるけど、そういう人であったとしても子どものころからそうだったのではない。小さい子どものころから差別主義者であることは基本としてない。

 思想の傾向(ideology)にまだ深くそまっていないのが子どもだ。子どもが成長していって大人になるさいに、思想の傾向にそまって行く。それで差別主義者になってしまう。

 どっぷりと思想の傾向にそまってしまっているのが、日本の差別主義者の政治家だ。悪い大人である。そういう人でも、自分がもっている思想の傾向をさしあたってわきに置いておくことができれば、子どものころにかえることができるかもしれない。まだ差別主義者ではなかったかつての子どものころに近づける見こみがある。

 大人が、子どもを見ならう。それがあっても良いものだろう。大人よりも子どものほうが優れているところがある。大人と子どもを比べてみるとそう見なすことがなりたつ。

 国は思想の傾向をもつ。国の思想の傾向の装置があり、それにからめ取られてしまう。主体がからめ取られてしまうのがあり、それによって国の思想の傾向に染まることになる。

 主体は行動者であり、客体である相手を差別してしまう。行動者である主体が差別の行動をとってしまうのである。主体が客体を表象する。心の中の像(image)を外に表現したものなのが表象だ。主体が上に立ち、下の客体を表象して行く。おとったものとして主体によって表象されてしまうのが客体だ。

 まだ国の思想の傾向の装置にそこまでからめ取られていないのが子どものころだ。未完成なありようである。実存によっている。実存が本質に先だつ。

 大人になってしまうと、本質が存在に先だってしまう。本質主義だ。本質のところには国を当てはめることがなりたつ。イスラエルであれば、イスラエルが存在に先だってしまうのである。国家主義(nationalism)だ。

 まだ子どものころであれば、実存主義のところがあって、実存が本質に先だっている。国や民族のちがいによって差別をしづらい。大人ほどには差別をしづらいのがあり、境界の線を超えることがなりたつ。

 大人は悪くて子どもは良いのだとするのはたんじゅんな分類づけになってしまいそうだ。もうちょっとふ分けしてみると、良い大人と悪い大人がいて、よい子どもと悪い子どもがある。それらのうちで、悪い大人は危ない。

 日本の政治家の中には差別主義者がいて、そうした人は悪い大人だ。イスラエルの政治家の中にも悪い大人はいるものだろう。良い大人であればよいけど、悪い大人であるのなら、子どもから学ぶことがあってよい。悪い大人と比べたら、子どものほうがましだろう。

 イスラエルパレスチナに暴力をふるっているのは、悪い大人の行ないだ。子どもを殺すことはあってはならない。悪い大人が悪さをしているのを改めることがまず重要なことだ。子どもについては、できるだけ将来において悪い大人にならないようにして行く。良い大人に成長して行けるようにして、またちゃんと子どもから大人になれるようにして行く。

 どういうのが悪い大人なのかといえば、そのじっさいの事例は日本にもイスラエルにもいる。差別主義者や暴力主義者の政治家がそうだ。子どもによくない影響を与えるような悪い大人は日本にもイスラエルにもいるから、そうした悪い大人の悪さを問題化して行く。悪い大人の悪さを改めることが先決である。

 たとえ悪い大人であったとしても、子どものころからそうだったのではなくて、まだ子どものうちは差別主義者ではなかった見こみが低くない。まだひどく小さい赤ちゃんのころから差別主義者の人はいないから、すごい悪い大人と比べたら赤ちゃんのほうがましだろう。

 大人のありようを自明なものとするのではなくて、それを異化して行く。本質化や自然化するのではなくて、脱自然化をこころみる。脱自然化するうえで、子どもをもち出す。大人のあり方を批判するために子どもをもち出してみて、悪い大人の悪さを少しでも浮きぼりにしていって、それを改められたらさいわいだ。イスラエルパレスチナでは、イスラエルパレスチナに暴力をふるうのを止めて行きたい。

 参照文献 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『差別原論 〈わたし〉のなかの権力とつきあう』好井裕明(よしいひろあき) 『法哲学入門』長尾龍一 『境界線の政治学杉田敦(あつし) 『構築主義とは何か』上野千鶴子編 『ポケット図解 構造主義がよ~くわかる本 人間と社会を縛る構造を解き明かす』高田明典(あきのり) 『カルチュラル・スタディーズ 思考のフロンティア』吉見俊哉(よしみしゅんや) 『砂漠の思想』安部公房(こうぼう) 『「他者」の起源(the origin of others) ノーベル賞作家のハーバード連続講演録』トニ・モリスン 荒このみ訳 『アイデンティティ(identity) / 他者性(otherness) 思考のフロンティア』細見和之(ほそみかずゆき) 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『暴力 思考のフロンティア』上野成利(なりとし) 『罪と罰を考える』渥美東洋(あつみとうよう) 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信ナショナリズム 思考のフロンティア』姜尚中(かんさんじゅん) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや)