選挙の改革を定義づけしてみる。
定義づけとはいっても客観のものではなくてあくまで主観のものだ。
国の議会で、定数の削減がいわれているけど、それは改革(身を切る改革)には当たりそうにない。
なんで議会で定数の削減をしただけでは改革には当たらないのか。選挙の改革を(主観で)定義づけしてみると、体制を変えないと改革することにはなっていないからだ。選挙の体制(しくみ)を変えることではじめて改革をしたのだとできることになる。
日本維新の会は身を切る改革をいっているけど、議会で議席を減らすだけでは改革にはあたりそうにない。にせの、ごまかしの改革である。語りとしていっているだけのものだからそれをそのまま丸ごとうのみにはできづらい。
構造の改革をなす。そのためには、選挙の体制を変えるようにしたい。議会で議席を減らすだけだと、体制が保たれつづけてしまうから、反改革である。既成の勢力(establishment)にとって都合がよい。
関西で既成の勢力にあたるのが維新の会だろう。維新の会にとって、体制を変えるのは都合が悪い。体制を保ったほうが維新の会にとって都合がよいから、反改革を行なっている。構造の改革をさせない。議会で議席を減らすことは、じっさいには改革の否定になっている。
国においては与党である自由民主党が力をもつ。自民党にとっては体制を保ちつづけたほうが都合がよい。体制を変えられては自民党にとって都合が悪いから、それをさせない。改革の否定である。
主観で定義づけをしてみると、体制を変えることが改革なのだから、それをなすのはおもに反体制派(anti-establishment)だ。にせやごまかしの改革ではなくて、じっさいに改革をなすのだったら、反体制派を包摂することがいる。
反体制派を包摂するのではなくて排除しているのがいまの日本の政治だろう。反体制派つぶしである。体制にとって都合が悪いものをつぶすために、議会で議席を減らすことがすすめられている。
階層(class)によってみてみると、上の階層と下の階層がある。上の階層にとって都合がよいあり方をそのまま保つ。差別の秩序の温存だ。国の政治では体制の中心にいるのが自民党であり、その秩序のあり方を保ちつづけてゆく。下の階層を、そのまま下に置きつづける。
差別の秩序を変えるのでないと、改革にはならないことになる。差別の秩序がそのまま保たれるのは反改革だ。上の階層と下の階層が固定化されているのを改めて、上と下がひっくり返るのでないと構築(construction)や構成が改まらない。
議会で議席を減らすのが改革として語られているけど、改革の語を外してみる。改革の語はよい響きをもっているから、それをとってみると、議席を減らすのは必ずしもよいことではないものだろう。
含意として、改革はよい意味あいをもっている。よく響くところを持っているから、それを取ってみて、議席を減らすことに目を向けてみると、それはとくによい含意をもっていそうにない。状況によってちがう。議席が多すぎるのなら減らすことはよいことだけど、どんな状況であっても議席を減らすことがよいのとはちがう。
ちょうどよい(just な)議会の議席の数量はどれくらいなのかがある。そこがはっきりしていない。あいまいである。修辞学では、多義またはあいまいさの虚偽がある。ちょうどよい議会での議席の数量がはっきりとしていないのであれば、あいまいさがあるのだから、議席をへらす改革のよさは虚偽におちいる。
構成されたことが慣習になっている。いまの選挙の制度のありようが慣習になっているから、それを反省してゆく。慣習をそのままつづけるのではなくて反省するようにしないと改革をなしづらい。たんに議会で議席をへらすだけだと、慣習がつづいてしまい、反省することにはならないのだから、強制にしたがった行動だろう。自由がない。
かつてをふり返ってみる。温故知新(おんこちしん)主義である。たんに議会で議席をへらすだけではなかったのが一九九〇年代になされた政治の改革である。一九九〇年代の政治の改革では、選挙の制度を変えたのがあり、これはいちおう改革に当たるものだった。構造をすこし改革した。よくも悪くも選挙のしくみを変えたのである。
いまとかつての間がある。かつてが忘れ去られている。忘れられてしまっているかつてを想起してゆく。かつての一九九〇年代を思ってみると、それとるいじ性があるのがいまの日本の政治のありようだろう。るいじ性とは、政治の改革の必要性の高さだ。政治のありようを、一から作り直す。
今しかなくなっていて、そこにしか目が向けられていないふうだけど、かつてと重ね合わせてみる。一九九〇年代と重ね合わせてみると、それと今はるいじ性がありそうだ。差別の秩序が温存されているけど、それを改めて、固定化された階層の上と下をひっくり返さないとならない。
自民党や維新の会がやろうとしているのは、それらが語っていることとはちがい(ぎゃくに)、じっさいには反改革だろう。政治で改革をなそうとするのはやさしくない。総論では改革に賛成でも、各論では改革に反対がおきる。各論では反対がおきてしまうから、政治では改革が前にすすみづらい。改革の否定がつづく。
むずかしさはあるけど、かつてを思ってみると、せめて一九九〇年代のときのあり方にもどせたらよさそうだ。というのも、一九九〇年代に選挙の制度の改革がなされたけど、そのときのあり方よりも悪くされたのが今だからである。
改革されたてのころよりも悪くされてしまっていて、(小選挙区制と合わせて行なわれている)比例代表制の議席の数なんかがすこし減らされてしまっているという。議席がへってしまったのはよいことではなくて悪いことだと見なすことができるから、それをもとに戻す。
そのまま小選挙区制が引きつづいて今にいたっているから一九九〇年代のときとるいじ性をもつ。るいじ性はあるけど差異性もまたある。差異性としては、比例代表制の議席の数などがすこし減らされているようだから、それをもとに戻したい。
とくに大きなことはやらなくても、いったんいちばんはじめに制度が新しく作られたときと同じに戻すだけでも、いまのあり方よりはちょっとは良くなりそうだ。それくらいにいまのあり方は悪いし、それをますます悪くしようとしているのが自民党や維新の会だろう。
差異性があることでは、一九九〇年代よりもさらに政治の状況が悪そうなのがいまの日本の政治である。同じくらいに悪いのではなくてもっと悪くなってしまっている。一九九〇年代のときよりも政治が右傾化しまくりだ。右へと旋回しすぎている。反自由の政治がすすむ。
たんに議会での議席の数が多いか少ないかだけではなくて、どういう構造の改革があったらよいのかでは、戦後の五十五年体制のときがある。五十五年体制のときは政治がうんとよかったとは必ずしもできないだろうけど、左派の野党が一定の力をもちつづけていた。
戦後の一九五五年につくられたのが五十五年体制である。吉田茂元首相が考えたものだという。この年に自民党がつくられることになる。二つの保守の政党が合わさってできた。そのころは東西の冷戦のときであり、日本を赤化(せっか)させないことを使命とする。日本が共産主義化するのをふせぐ。左傾化させない。
五十五年体制のころは今ほどには自民党の政治家の質が悪くはなかっただろう。いまほどには政治家の質が劣化していなくて、あるていどの見識をもった人たちもいたはずだ。まだ敗戦してからそこまで時間がたっていなかったのが大きかった。戦争の経験者が多く生きていたのがさいわいする。
左派の野党では、日本社会党があった。日本社会党がつねに三分の一の議席をもちつづけていて、安定していたのだとされる。ここで一つ目を向けられるのは、政党の名前に社会の語が含まれていて、それが一定より以上の力をもっていた点だ。そこに少なからぬ意味あいがある。
かつてと比べると、いまは社会の語が含まれている左派の政党が弱体化しまくっている。それによって日本の政治がひどく悪くなってしまっているのだとおしはかれる。かなり主観のおしはかりではあるけど、社会の語が含まれている左派の政党の弱まりと、日本の政治の悪化や劣化とが、ちょうど比例している。
日本の話ではないけどいまの米国の政治では社会の語が含まれている左派の政党(集団)がすこし盛り上がっているという。米国の政治はすごく悪くなっていそうだけど、そのなかで民主の社会主義(社会の民主主義)のもり上がりがちょっとおきているのはよいことだ。
いまの日本の野党は力が落ちてしまっている。社会民主党もそうであり、かろうじて政党が保たれているありようだ。社会民主党は、政党の名前に社会の語がふくまれているから、それが力をもつようになったらよい。かならずしも社会民主党でなくてもよいけど、どの野党も弱まってしまっているのがあるから、なにか社会の語が含まれている政党がもり上がれば、もしかしたら米国の政治と似たようになるかもしれない。
必ずしも確かな根拠があるわけではない。そこまで根拠はないけど、五十五年体制のころのように、安定して力を持ちつづけるような、社会の語が名前に含まれる左派の政党があればよい。日本の政治がいまよりもよくなることがのぞめる。
選挙の改革をやるのだったら、維新の会が身を切る改革といっているような、たんに議会で議席をへらすだけなのはよくない。そうではなくて、せめて一九九〇年代のときにもどすのや、そのときと今とを重ね合わせてみるのや、五十五年体制のときのよかったところに目を向けてみたい。
維新の会は、語っていることが改革にはなっていないのだから、改革と言うのはやめたほうがよい。身を切っていないのだし、改革になってもいない。
維新の会にかぎらずだけど、政治家の語りは信じないようにして、言われていることをそのまま丸ごとうのみにしないほうがだまされずにすむ。政治家の語りを信じれば認知の費用(cost)は安くてすむけど、損や害がおきかねないからあとで高くつく。
参照文献 『カルチュラル・スタディーズ 思考のフロンティア』吉見俊哉(よしみしゅんや) 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや) 『橋下徹の問題解決の授業 大炎上知事編』橋下徹(はしもととおる) 『JAPAN UNMASKED : The Character & Culture of the Japanese』Boyé Lafayette De Mente 『政治家を疑え』高瀬淳一 『歴史という教養』片山杜秀(もりひで) 『脱構築 思考のフロンティア』守中高明 『構築主義とは何か』上野千鶴子(ちづこ)編 『細野真宏の数学嫌いでも「数学的思考力」が飛躍的に身に付く本!』細野真宏 『うたがいの神様』千原ジュニア 『右傾化する日本政治』中野晃一(こういち) 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『社会(the social) 思考のフロンティア』市野川容孝(いちのかわやすたか) 『現代思想を読む事典』今村仁司(ひとし)編 『倫理学を学ぶ人のために』宇都宮芳明(よしあき)、熊野純彦(くまのすみひこ)編 『うその倫理学』亀山純生(すみお) 『思考のレッスン』丸谷才一(まるやさいいち) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『本当にわかる論理学』三浦俊彦 『科学的とはどういう意味か』森博嗣(ひろし) 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『社会階層 豊かさの中の不平等』原純輔(じゅんすけ) 盛山(せいやま)和夫 『東大人気教授が教える 思考体力を鍛える』西成活裕(にしなりかつひろ) 『差別原論 〈わたし〉のなかの権力とつきあう』好井裕明(よしいひろあき) 『絶対に知っておくべき日本と日本人の一〇大問題』星浩(ほしひろし) 『世襲議員 構造と問題点』稲井田茂(いないだしげる)