国葬と、否定の弁証法―非専制や非全体化(非全体主義化)

 殺された安倍元首相の国葬が行なわれる。

 安倍晋三元首相について、西洋の弁証法(dialectic)によって見られるとするとどういったことが言えるだろうか。

 弁証法の正と反と合がある中で、正と反の二つ(の立ち場)にふ分けをしてみたい。

 正と反にふ分けをしてみると、それらがたやすく合にはいたらない。哲学者のテオドール・アドルノ氏がいった、否定弁証法である。

 否定弁証法で見てみると、まず、安倍元首相について、正と反の二つの見なし方がなりたつ。正は安倍元首相をよしとする。反は安倍元首相をきびしく批判をして行く。

 国葬をやってしまうと、安倍元首相にたいして、正つまり合とすることになる。正からいっきょに合へともって行く。反が抜け落ちてしまうのである。

 肯定弁証法によるもよおしになるのが国葬だ。どちらかといえば正により重みが置かれて、正から合へとじかに向かう。合の止揚(aufheben)にいたれるのだとする。

 事件がおきたことで犯人に殺されたのが安倍元首相であり、それは気の毒なことではある。事件はあってはならないものだった。事件はあるべきことではなかったが、そこから国葬を行なうことをいさぎよく決めてしまったのが岸田文雄首相だろう。

 いさぎよく国葬をやることを決めてしまうと、肯定弁証法になってしまう。そこに欠けてしまうのがねばりだ。ねばりによって、否定弁証法をとるようにして、正と反のあいだの矛盾を見て行く。正と反のあいだに矛盾があることを認めて、そこにとどまりつづける。そのねばりが欠けているのが岸田首相だ。

 どういった政治家だったのが安倍元首相なのかといえば、肯定弁証法によるよりも、否定弁証法によるのがふさわしい人物だった。正の立ち場に立つ人もいたが、反の立ち場に立つ人もいた。反の立ち場である、反安倍の人たちもいたのである。

 卵でいえば、まだきっちりと火が通って固まってはいない。生卵や半熟卵のようであるのが、安倍元首相にたいする評価だ。まだしっかりと固ゆで卵のように評価が定まっていなくて、価値がぐらぐらとゆれ動いている。

 現実ばなれしてしまうことになるのが国葬だろう。現実がどうなっているのかを見てみると、肯定弁証法にはできづらく、否定弁証法にならざるをえない。正と反を、合にいたらせづらい。合に止揚できづらい。矛盾がおきているのが、安倍元首相にたいしての見なし方だ。

 いさぎよく決めてしまわずに、ためをもつようにして、留保をもっておけばよかった。ねばりをもつようにして、正だけではなくて、反がもつ積極性も見て行く。正だけでこと足りるのだとして、そこからじかに合に持って行くのではなくて、反もよく見るようにして、反安倍の声をよく聞くようにすればよかった。

 反安倍は、消極や否定なだけではなくて、そこに積極性もある。いうなれば、失敗の効用(ふつうは負や否定のものだとされているものが持っている積極性や効用)のようなものである。

 日本は、何かといさぎよくやりがちであり、ねばりが足りていない。国葬でも、それがあらわれ出ている。いさぎよく決めてしまわないで、もっとねばるようにしていれば、早まって国葬をやることを決めることを避けられた。いさぎよく決めてしまったので、上からごういんに国葬をやるような形になっている。

 参照文献 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『対の思想』駒田信二(しんじ) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫