国葬と、編集―安倍元首相は、再編集(脱構築)されることがいる

 国葬が行なわれるのが、殺された安倍元首相だ。

 国葬が行なわれることになっている安倍晋三元首相についてを、どのように見なせるだろうか。

 少なからぬ反対の声が言われているのが国葬にはある。すべての国民が国葬をよしとしているわけではない。

 何をやることがいるのかといえば、人物としての安倍元首相を見るさいに、ふ分けをせざるをえない。ふ分けをやらざるをえないのがある。

 ふ分けをしてみると、犯人に殺された点については、安倍元首相は気の毒ではある。事件があったことは、気の毒なことではあるけど、それは、いろいろにふ分けしたさいの、その中の一つのことにすぎない。

 総合と分析では、総合としてすべてを一まとめにするのではなくて、分析でふ分けしてみたい。事件があり、それが気の毒だったからといって、それで国葬をやるのだとするのは、総合のあり方であり、(数学でいわれる)積分化することになる。

 こまかく見ていって、微分化するようにしてみると、それはそれ、これはこれ、とできる。微分化するようにしてみると、事件がおきて気の毒だったことのほかの、もっといろいろなことをくみ入れないとならないのが明らかになる。

 少なくとも、正と負の二つのところがあったのが安倍元首相だ。国葬をやると、正のところだけをとり上げることになり、負のところが切り捨てられて捨象されてしまう。正と負をふ分けしたさいに、正だけをとり上げることになるのが国葬だ。

 編集されてしまうのが国葬だ。安倍元首相がどういう人物だったのかが、編集された形であつかわれる。正と負がある中で、それらが主観で取捨選択されるのだ。

 人物の評価づけをいい加減にすませてしまっているのが日本にはあり、昭和天皇が戦争においておかした罪をきちんとさばかなかった。アメリカとの取り引きで、昭和天皇は戦争における罪を見逃されることになったのである。

 ふさわしい人物の評価づけをするうえでは、昭和天皇つまり良い人物だったといった構築のあり方を改めて、戦争で罪をおかしたことを十分にとり上げるべきだった。戦争の責任者としての罪をとり上げて、罪のある人物だとすることが必要だった。昭和天皇が責任者として戦争でおかした罪は、公共性があるので、その罪と罰のつり合いがとられるべきだったのである。

 あたかも良い人物であるかのような評価づけがなされて、そうした構築がされているのを、改めて行きたい。構築を改めて行き、脱構築(deconstruction)して行く。

 昭和天皇にたいする構築が、脱構築されなかったのと同じように、安倍元首相にたいする構築も、脱構築されないのだと、まずさがある。どちらの人物も、構築されているのを改めて、脱構築されることが必要なのである。

 正と負の二面があるうちで、正の一面だけによる評価づけがされる。そうした構築が行なわれる。昭和天皇と安倍元首相には、それがなされているので、構築を改めて行かないとならない。脱構築をしないとならない。

 脱構築をするうえでは、正と負の二面があるのを見るようにして行く。正と負をふ分けするようにして、正の一面だけをとり上げるのではないようにする。正の一面だけによるのだと、良い人物であったかのように基礎づけやしたて上げすることになってしまう。

 適した構築にするためには、正と負の二面があるうちの、負の面を切り捨てて捨象してしまわないようにする。負の面を捨象してしまうと、否定の契機が隠ぺいされてしまう。

 否定の契機を隠して、その隠したこともまた隠して、抹消する。二重の抹消だ。それだと、昭和天皇がどうだったのかや、安倍元首相がどうだったのかが、わからなくなってしまう。負の面や否定の契機を隠さないで、いかに明らかにするのかが大切になってくる。

 参照文献 『構築主義とは何か』上野千鶴子編 『微分積分を知らずに経営を語るな』内山力(つとむ) 『思想の星座』今村仁司 『国体論 菊と星条旗白井聡(さとし) 『知の編集術』松岡正剛(せいごう) 『脱構築 思考のフロンティア』守中高明