国葬と、その含意するところ―国葬は何を含意することになるのか

 ちかぢか行なわれることになっているのが、安倍元首相の国葬だ。

 何を含意しているものなのが、国葬なのだろうか。

 たとえば、食べものを食べれば、お腹が満たされる。そのさい、食べものを食べることは、お腹が満たされることを含意している。

 食べものでいえば、食べものを食べるのは原因に当たり、お腹が満たされるのは結果だ。原因と結果の因果の関係がなりたつ。

 まだいまの時点では行なわれていないのが国葬だけど、それが行なわれたあとにおいて、それがどういったことを含意することになるのかがある。

 たとえ国葬にされたからといって、その政治家がすぐれていたことを意味するのではない。たとえ国葬にされていないからといって、その政治家がすぐれていないことを意味しない。

 だから何なのだ(so what?)と、なぜそうなのか(why so?)の点から見てみると、国葬が行なわれたからといって、だから何なのだといったことになる。だから何なのだの点からすれば、安倍晋三元首相が国葬にされたからといって、すぐれた政治家だったのだとはならず、そこは不たしかだ。

 なぜそうなのかの点からすると、なぜ国葬にされることになったのかには、うらに隠されたいろいろな思わくが関わっている。おもてには出せないような、うらの思わくが働く。うらのじじょう(大人のじじょう)があって、それが重みをもつ。

 国が決めたことなのだとしても、それはあまりあてにはならない。格づけみたいなことで、不良から優良までを国が決めるとして、最優良な政治家なのが安倍元首相なのだとする。

 最優良な政治家が国葬にされることになるのだとしても、それはあくまでも国が格づけしたことであるのにすぎない。国の格づけが、いんちきである見こみは低くはない。いついかなるさいにも、国が正しい格づけをするとは見なせず、正しさの保証はない。

 ことわざでは、馬の耳に念仏、猫に小判、ぶたに真珠と言われる。国葬は、これらの念仏や小判や真珠に当たるところがある。念仏や小判や真珠は、馬や猫やぶたにとっては、だから何なのだといったものに当たる。価値がない。

 どこまでがたしかで、どこから先が不たしかなのかを分けてみると、国葬が行なわれたあとであれば、それが行なわれたことはたしかなことに当たる。そこは、何々であるの事実(is)に当たるものだ。

 事後になってみれば、国葬が行なわれたことは事実に当たることになるけど、そこから、何々であるべきの価値(ought)をみちびいてしまうと、自然主義の誤びゅうになる。

 多くの政治家は、安倍元首相のようには国葬にはされないけど、それは事実に当たることだ。国葬にされていない事実から、価値をみちびくことはできない。事実はたしかなことだけど、それをたとえ知ったからといって、価値がどうなのかはまた別の話だ。

 哲学の新カント学派の方法二元論で見てみると、事実と価値を分けることがなりたつ。いくら事実をくわしくこまかく知ったのだとしても、そこから価値は出てはこない。価値については、また別にとり上げるようにして、別な話としてさぐって行くことがいる。

 日本の国の思わくとしては、国葬にされたのが安倍元首相であることから、すぐれた政治家だったのだと評価づけしたいのがある。国のその思わくには、説得性があまりない。

 国の思わくを見てみると、国葬にされたことが原因となって、そこから安倍元首相がいだいな政治家だったのだとする結果をおこさせる。

 原因と結果は、因果の関係であり、その二つの結びつきは、物語だ。

 国は、国葬にされたことで、安倍元首相をよしとする物語をとっている。その物語は、あるていどは通じるだろうけど、大きな物語とまではなりづらい。

 因果の関係は、物語にすぎないものだから、原因と結果の結びつきを、ばらばらにして(ばらして)、別々に分けることがなりたつ。原因と結果を別々に分けて、国葬国葬、安倍元首相を良しとするかどうかは良しとするかどうか、と切り分けることがなりたつ。

 物語では、こうなったらこうなりますよ、といった応報律がある。たとえば、良いことをしたら良いことがおきますよとか、悪いことをしたら悪いことがおきますよ、といったものだ。

 物語の応報律の点から見てみると、安倍元首相についてのあつかいはめちゃめちゃなところがある。良いことをすれば、そのむくいとして、よいことがおきる。悪いことをしたら、そのむくいとして、悪いことがおきる。そういったようにはなっていない。

 いちおう、日本の国は、安倍元首相にたいして、応報律の物語を当てはめてはいる。それで国葬をやろうとしているのだ。国による応報律の物語は、物語としてはたんしているものだろう。

 国の物語では、良いことをしたら、(良いことではなくて)悪いことがおきる、または、悪いことをしたら、(悪いことではなくて)良いことがおきる、みたいになっているところがあるのだ。これだと、納得をえづらい。さいごには、悪がちゃんとせいばいされるのでないと、話としては落ちつきが悪いのである。グレシャムの法則である、悪貨は良貨を駆逐(くちく)することになっている。ことわざでいう、憎まれっ子世にはばかるとなっている。

 参照文献 『本当にわかる論理学』三浦俊彦 『「科学的思考」のレッスン 学校で教えてくれないサイエンス』戸田山和久 『文学の中の法』長尾龍一 『細野真宏の数学嫌いでも「数学的思考力」が飛躍的に身に付く本!』細野真宏 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『できる大人はこう考える』高瀬淳一