安倍元首相の死は、何人称の死に当たるのか―死者との距離の近さと遠さ

 安倍元首相の死は、いったいどういったものなのだろうか。

 犯人に殺されたのが安倍晋三元首相だ。これから先に国葬が行なわれることが予定されている。

 死には、一人称のものと二人称のものと三人称のものがある。歴史家のフィリップ・アリエス氏によるものだ。

 安倍元首相の当人(本人)にとっては、一人称の死がおきた。

 関係性がすごく近かった、家族や身内や、深い交わりがあった友人や知人などにとっては、二人称の死だ。

 多くの日本人にとっては、安倍元首相の死は三人称の死だ。

 多くの日本人にとっては、あなたの死だとか、君の死だとかといったようには、安倍元首相とは距離が近くはなかっただろう。距離が近くて、濃い関係性をもっていた人は、数が限られている。

 人間が具体の関係性をもてるのは、一五〇人くらいが上限だとされる。ダンバー数だ。人類学者のロビン・ダンバー氏による。

 多くの日本人にとっては、具体に人間どうしの関係を結べるのは、多くても一五〇人くらいのものだろう。ダンバー数を超えるほどに、多くの人と深い交わりをもつのはむずかしい。

 ほとんどの日本人にとっては、ダンバー数である一五〇人の内に含まれていたのではなくて、その外に置かれていたのが安倍元首相だ。その安倍元首相の死は、三人称の死にならざるをえない。

 三人称の死に当たるのが安倍元首相の死だから、多くの日本人を丸ごと引っくるめて国葬を行なうのは必ずしもふさわしいとは言い切れそうにない。

 二人称の死に当たる、身内や家族などにとっては、お葬式は意味があることだろう。(一人称の死に当たる当人にとってであるよりも)二人称の死に当たる、あとに残された人たちのために、お葬式を行なうことがいるともできる。

 国葬にまねかれる、ほかの国の参加者たちは、三人称の死に当たるのがあるから、お葬式をやることが何としてでもいるといったほどではない。お葬式をやり、それにまねかれて(来いと言われて)いるから、だったら行く、といったほどのものだろう。

 市町村でいえば、市葬、町葬、村葬、県葬などがあげられる。村みたいな小さいまとまりであったとしても、そこの長(村長)が殺されたとして、村葬をやるのがふさわしいかは、必ずしも定かではない。村長がどういった人だったかにもよる。村長が悪い政治家だったさいには、村葬をやるべきではないとする村民も出るだろう。

 市町村や県よりも、もっと飛躍がおきるのが国だ。ダンバー数である一五〇人をはるかに超えるのが国だから、具体の人間どうしの関係性がない人がほとんどだ。国の中で、だれかが死んでも、そのほとんどは三人称の死だ。

 死は悲しむべきことだけど、三人称の死にあたるものについて、国葬にするのがふさわしいのかには疑問符がつく。国葬にすると、国民のすべてを巻きこんでしまうが、三人称の死でそれをやるのは、巻きこむ数が多すぎだ。もっと数を限定化して、二人称の死に当たる人たちだけを巻きこむのがふさわしいものだろう。

 参照文献 『死とは何か』池田晶子(あきこ) 『愛国の作法』姜尚中(かんさんじゅん)