国葬への反対と、国葬の反対(反対の国葬)―国葬と、国葬の反対(国葬とは正反対のこと)を、どっちもやってみたらどうか

 国葬が行なわれることになっているのが、安倍元首相だ。

 国葬と、反国葬(国葬への反対や批判)を比べてみたらどういったことが見えてくるだろうか。

 すでにやることが決まっているのが、殺された安倍晋三元首相の国葬だ。それにたいして、反対の声がそれなりにおきている。

 反対の声では、国葬をやるべきではないと言われている。

 何かをやるかやらないかや、何かをやるべきだとかやるべきではないとするのとは別に、どちらもやってしまう。どちらもやる。国葬も、反国葬も、どちらも行なう。

 二つのもよおしがあって、国葬と、反国葬の、どちらかだけではなくて、どちらも共にやってみる。それで、二つのもよおしを比べてみたい。

 もよおしとはちょっとちがうけど、声をあげるのであれば、国葬をよしとするよりも、それに反対や批判の声をあげるほうが簡単だ。反国葬のほうが、声をあげるのはより易しい。

 国葬をよしとするのは、あんがい難しい。きちんと国葬をよしとするのであれば、そこには難しさがある。反対や批判の声がそれなりにあげられているのが国葬だから、それらの声を無視するわけには行かない。反対や批判の声を、十分に受けとめることがいり、そのうえで、国葬をよしとするようにしないとならない。てまがかかるのである。反対派を説得したり、納得してもらったりしないとならないのがあるから、労力がかかる。

 どちらのもよおしのほうがより中身があるのかといえば、国葬よりも反国葬だ。反国葬をやったほうが、国葬よりもより中身があるもよおしになる。

 政治でいろいろな不正や悪さや不祥事をしでかしたのが安倍元首相だから、国葬をやってしまうと、それらの負のことにフタのおおい(cover)をかぶせてしまう。呪われた部分が色々にあるのが見えなくなってしまう。

 フタのおおいを引っぺがすことになるのが反国葬だ。色々な穴が空いているのをさし示せる。色々な穴を発見(discover)できるのである。有意義なもよおしになることがのぞめるのである。

 犯人に殺されたのが安倍元首相であり、その事件そのものはあるべきことではなかった。それにたいして、とむらうことになるのが国葬だけど、中身としてはすかすかなもよおしだ。中身がぜんぜん無い。くうそである。

 とむらうことにはあまりならないのが反国葬だけど、そのかわりに中身がある。安倍元首相のことを、どしどし批判していって、ばしばし批判を行なう。批判をする材料にはこと欠かない。フタのおおいがかぶされているのを、どんどん引きはがす。色々な穴があるのをどんどんさし示して行く。

 二つのもよおしが、対等に、等しくあつかわれるのではない。国葬が上のものとしてあり、反国葬は下に位置づけられる。反国葬は、おもてからは排除されることになる。良くないもよおしだと見なされる。

 両論の併記みたいに、国葬と反国葬を共にやってみたらよさそうだ。一つの論だけではなくて、両論を併記することによって、視点が多様(多数)化されることになり、それによって浮かび上がってくるものがあるものだろう。

 視点を増やすはたらきがのぞめるのが、国葬をやるだけではなくて、反国葬もやることだ。一つだけではなくて、二つのもよおしを共にやれば、二つを比べることがなりたつ。

 二つを比べてみると、国葬よりも、反国葬のほうが、より(それを行なう)必要性が高い。国葬はあまりやる必要がないけど、反国葬はやる必要があるのだ。国葬はべつにやらなくてもよいけど、反国葬はぜひともやらなければならない。国葬をやる必要性があるのだと言うのであれば、反国葬はなおさらやる必要性がある。反国葬のほうが、それをやることのより強い理由(a fortiori)をもつ。

 参照文献 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『知的複眼思考法 誰でも持っている創造力のスイッチ』苅谷剛彦(かりやたけひこ) 『理性と権力 生産主義的理性批判の試み』今村仁司