国葬と、死の欲動―集団の死の欲動の高まり

 安倍元首相の死によるのが、国葬だ。

 日本の国について、死の点から見てみるとどういったことが言えるだろうか。

 人だけではなくて、集団についても、生の欲動(eros)と死の欲動(thanatos)を当てはめられる。

 日本の国の中で、死の欲動を高めていったのが、安倍晋三元首相だった。

 政治においてやるべきなのは、その集団の生の欲動を高めて行くことだ。生の欲動を高めて行けば、その集団が良いあり方になって行く。人々が生きて行きやすくなって行く。

 生の欲動を高めて行かずに、死の欲動を高めていったのが安倍元首相だった。政治においてやるべきこととは逆のことをやっていたのだ。

 集団において死の欲動が高まってしまうのは、歴史においては、ナチス・ドイツをあげられる。ナチス・ドイツで、アドルフ・ヒトラーが出てきたのは、そのときのドイツで死の欲動が高まっていたことによる。

 どのようにしたら、その集団において生の欲動が高まるのかといえば、三つの点をあげられる。安心や安全を高める。正義や公正を高めて行く。自由を高めて行く。この三点をやって行く。学者のエーリッヒ・フロム氏による。

 もしも、いまの日本の国で、生の欲動がとても高くなっているのであれば、人々がすごく生きて行きやすくなっているはずだ。いまの日本を見てみると、生きて行きづらい、息苦しい。さつばつとしている。ぎすぎすしている。ぴりぴり、かりかりしている。ゆとりがなく、(弱者や少数者への)寛容性がない。客観ではなくて主観ではあるけど、そんなようなところがうかがえる。

 生きていたときに、安倍元首相が、日本で死の欲動を高めずに、生の欲動を高めて行っていたとするのなら、国葬でそこまで反対はおきなかっただろう。すごく多くの人におしまれたはずである。

 国葬にたいして、少なからぬ反対の声がおきているのは、生きていたときの安倍元首相が日本で死の欲動をどんどん高めていっていたからなのを示す。

 国葬であんまり反対の声がおきないためには、その国で、死の欲動が高まっていないことがいる。国の死の欲動を高めた当人(張本人)が、国葬にされるのではないことがいる。

 国の死の欲動を高めた当人が国葬にされるのだと、その国葬は変なことになってしまう。少なからぬいわかんがおきてこざるをえない。国葬にされるからには、その政治家が、国の生の欲動を高めたのでないと、日本の国のためになったとはいえない。まっとうな政治の仕事をしたとはいえない。

 生きているときの安倍元首相が、もしもまっとうな政治の仕事をして、国の生の欲動を高めていたのであれば、安倍元首相は自分が政治の世界にはいられなかった。国の生の欲動を高めることは、安倍元首相にとっては自分の否定になる。政治家としての自分を自分で否定することになる。

 国の生の欲動が高まっている状況においては、安倍元首相は上の地位に立つことはできなかった。政治の世界にとどまることができなくなる。有権者が、悪い政治家に票を入れないようにしていれば、安倍元首相は、選挙で当選できず、落選していただろう。すごくきびしく見ればそう見なすことがなりたつ。

 参照文献 『悪の力』姜尚中(かんさんじゅん) 『憲法が変わっても戦争にならない?』高橋哲哉斎藤貴男編著 『「自由」の危機 息苦しさの正体』藤原辰史(ふじはらたつし)他