安倍元首相と、そのやり方(手法)―主体による客体の表象と、表象の政治性

 殺された安倍元首相の、国葬が行なわれようとしている。

 生きていたときの安倍元首相は、いったいどのようであったのだろうか。

 生きていたときは、安倍元首相は、主体は悪くないのだとしていた。主体、つまり安倍元首相は、いっさい悪くはない。悪いのは客体だとしていた。

 主体は善で、客体が悪だとする。そのやり方をしていたのが安倍元首相だった。

 主体はいっさい悪くなくて、客体に悪さを押しつける。それが見られたのである。

 客体を悪いものだと見なすのは、主体による。主体は、客体を表象(representation)する。主体は能動で、客体は受動だ。表象するのが主体で、表象されるのが客体だ。

 国では、日本が主体に当たるのがあった。主体である日本はいっさい悪くない。ほかの国が悪い。韓国が悪い、または中国が悪い。

 日本はいっさい悪くはないのだとしてしまうと、歴史修正主義におちいる。日本の負の歴史を隠ぺいしてしまう。

 生きているときに、やり方が悪かったのがあるから、それを改めて行きたい。生きていたときの安倍元首相のやり方は悪いものだったから、それを変えて行く。

 いまだに、生きていたときの安倍元首相のやり方が、とられつづけている。そこに悪さがある。安倍元首相は主体であり、善であった。いっさい悪くなかった。主体はまったく悪くなくて、客体がぜんぶ悪かった。それで、安倍元首相がまつり上げられている。

 人物であるよりも、方法論の悪さを見てみたい。方法論、つまりやり方が悪かったのがあるから、それを改めるようにして、主体が悪さを引き受けて行く。客体に悪さを押しつけないようにして行く。

 方法論の悪さがあったのがあり、それがいまだに引きつづいている。安倍元首相が、すごい良い政治家だったといったふうにされているのは、安倍元首相が主体だったからである。主体は善で、客体は悪だとする図式によっていたのがあり、その図式が生きつづけている。

 主体が、悪い方法論をとっていた。悪いやり方をしていたのがあったので、主体には悪いところがあった。主体としての、安倍元首相のあり方を、どんどん批判して行く。主体であったことによって、悪いところが隠ぺいされてしまっていたのがあり、特権化されていた。

 生きていたときに、あたかもすごく良い政治家だったといったふうにしてしまうと、安倍元首相を、主体の位置に置きつづけることになってしまう。主体の位置に置きつづけると、主体は善で客体は悪の図式が引きつづいてしまう。

 客体に悪いことをぜんぶ押しつけて、主体はまったく悪くないのだとしていたのがあるから、そのあり方をそのまま取りつづけるのではないようにしたい。主体がもっていた色々な悪さを、どんどん明るみに出して行く。安倍元首相が生きていたときに、それがどんどんなされるべきだったが、なされなかった。主体の位置に、安倍元首相が固定化されてしまっていたのだ。(客体への)差別によっていたのである。

 参照文献 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『歴史 / 修正主義 思考のフロンティア』高橋哲哉