犯人が安倍元首相を殺した事件の、心のしくみやからくり―心や国のしくみやからくり

 きのうに、国葬が行なわれた。

 国葬が行なわれたのが、犯人に殺された安倍晋三元首相だ。

 安倍元首相が犯人に殺された事件についてを、どのように見なすことができるだろうか。

 事件についてを、精神分析学でいわれるものと、社会契約論によって見てみたい。

 人どうしが殺し合う。放っておくとそうなってしまう。性悪説からはそう見なせる。

 たがいに人どうしが殺し合うのを止めるようにして、みんなが生きて行けるようにして行く。自然状態(natural state)から社会状態(civil state)への移行だ。移行は、西洋の弁証法でいわれる正と反と合の、合の止揚(aufheben)だ。

 自然状態においては、人どうしが殺し合ってしまうけど、社会状態ではそれを防げる。その社会状態において、なしてはいけないことをやったのが犯人だろう。

 犯人が、社会状態においてなしてはいけないことをやってしまったのは、心の中の基本の衝動につき動かされたからだろう。

 だれの心の中にも基本の衝動がある。だから、人は放っておくとたがいに殺し合ってしまう。性悪説からはそう見なせる。

 基本の衝動を完全になくすことはできないけど、それを抑えこむことはできる。抑えこむのをになうのが、超自我や自己だ。超自我は、これをなしてはだめだとか、あれをしてはだめだとかの、いろいろな要求をつきつける。超自我からの色々な要求をくみ入れて、うまくつり合いをとって行くのが自己だ。なまの形で基本の衝動が出ないようにして行く。

 国でいえば、(人の心における)基本の衝動に当たるのが、部分の内乱の勢力(behemoth)だ。部分の内乱の勢力を完全になくすことはできず、それは国の中にありつづける。部分の内乱の勢力を抑えこむことはできて、それによって国(leviathan)がなりたつ。

 基本の衝動(id、es、it)や、部分の内乱の勢力は、悪いだけなのかといえば、そうとは言い切れそうにない。それらは、放っておくと、人を殺すことにつながることがあり、そのほかの悪いことをしてしまうことにもなるけど、ぜんぶが悪くはたらくとは限らない。

 何が良いことで何が悪いことなのかは、どちらかといえば、自己による分別によるものだろう。分別をつけたさいに、良いか悪いかが分けられることになる。その分別をつける前のあり方であるところがあるのが基本の衝動であり、善悪の彼岸に当たるところがあり、善悪を超えている。

 人からすれば悪いことに当たるのだとしても、たとえば猫が(人からすれば)悪さをしたとしても、その猫がやったことは、善悪の彼岸に当たるものであり、善悪を超えているところがある。猫がやったことは、人間がいうところの善悪の分別の、前(それ以前)に当たることだ。

 一つの国は、人の心でいえば自己(self)に当たり、部分の内乱の勢力ではない。国を超えて、世界から見てみると、一つの国は(世界の中では)部分の内乱の勢力なのである。人の心でいえば、基本の衝動に当たるのだ。

 人の心でいえば、基本の衝動でもあり、また自己でもあるのが、国である。基本の衝動なだけでもないし、自己であるだけでもない。(その地域からすれば)全体にも当たり、(世界の全体からすれば)部分にも当たるのが国だからだ。

 いまロシアがウクライナに戦争をしかけていて、ロシアが国際法をやぶっているのは、国が基本の衝動であることから来ている。ロシアは、国が基本の衝動であるのがむき出しになっていて、国際法つまり超自我からの要求に耳を閉ざしているのだ。

 人の心でいえば、自己がうまくつり合いをとって行くことがいるけど、それができづらくなっていて、難しさがおきている。つり合いがくずれている。

 日本では、超自我つまりいまの日本の憲法を守らずに、やぶる動きが強まっている。超自我である憲法は、いろいろな要求を命じるものだけど、それをやぶる動きが強くなっていて、憲法をこわそうとすることがもくろまれている。

 ロシアでは、国家主義(nationalism)が強まっていて、国がもつ基本の衝動がむき出しになっているけど、日本にもそれと同じことがおきている。日本でも、国の基本の衝動がそうとうに前面に出てきていて、それが中心になってきている。

 社会状態がくずれてしまっているところがあるのが、いまの日本だろう。すべての人の命が、みんなひとしく保証されているのではない。生きるべき命と、死んでもよい命が、選別されているところがある。価値のある命と、価値のない命が、分けられていて、価値のない命は生きているべきではないとするようなところがある。

 社会状態がくずれてしまうと、自然状態に戻ってしまう。自然状態になってしまうと、人どうしが殺し合う、万人の万人にたいする闘争(the war of all against all)がおきることになる。

 一つの国の中ではなくて、国を超えた世界を見てみると、世界は自然状態になっている。万国の万国にたいする闘争がおきているのだ。その闘争は、いぜんからおきつづけていて、完全にそれが止まったことはない。闘争が弱まったり強まったりしているのにすぎない。

 快か不快かといった、たんじゅんな感情の分け方になっていて、不快をなくすといったことで、基本の衝動につき動かされて、犯人は安倍元首相を殺すことにいたった。もしかするとそうしたことによっていたかもしれない。

 犯人にかぎらず、人や国が、快か不快かのたんじゅんな感情の分け方になっていて、不快なものをなくすのがよいとするような、基本の衝動につき動かされることがおきている。

 快なのは味方や善(や正義)だ。不快なのは敵や悪(や不正義)だ。不快なものである、敵をやっつける。悪をやっつける。これは、安倍元首相を殺した犯人がとっていたあり方かもしれない。犯人に殺された安倍元首相も、生きていたときにこのあり方によっているのがかなり大きかった。

 犯人と安倍元首相は、不快なものにたいする溜(た)めがなくて、不快なものをすぐになくしてしまおうとしていた。犯人についてはくわしくはわからないけど、生きていたときの安倍元首相はそうだったのがあり、これは安倍元首相にかぎったことではない。ほかの人、または国(国々)のあり方が、不快なものへの溜めを失っている。

 基本の衝動からすると、不快なものをすぐになくそうとすることになるけど、それにたいして溜めをもつようにしたい。自己によって、うまい具合につり合いを取れるようにして行きたいものである。

 犯人や安倍元首相にかぎらず、いまの状況は、自己によるつり合いをとるのができづらくなっていて、快か不快かのたんじゅんな分け方がとられて、不快をすぐになくしてしまおうとするような、よくないあり方になっているのがあるから、それを改めて行きたい。国でいえば、国は基本の衝動によるのがあるから、それがむき出しにならないようにして、国家主義が強まらないようにして、反国家主義超国家主義(trans-nationalism)や脱国家主義によるようにして行きたい。

 参照文献 『リヴァイアサン 近代国家の思想と歴史』長尾龍一 『心脳コントロール社会』小森陽一精神分析 思考のフロンティア』十川幸司(とがわこうじ) 『現代思想を読む事典』今村仁司