自民党の長にだれが選ばれるのかが総裁選では争われる―総裁選と、集団の数々の不祥事

 首相が辞めることを決めた。与党である自由民主党菅義偉首相は、党の長の地位を退くことにしたという。

 菅首相が辞めることを決めたことについてをどのように見なすことができるだろうか。菅首相が辞めることによって、自民党の総裁選ではいろいろな有力な政治家が総裁選に出馬することがおきている。

 自民党で行なわれる総裁選では、だれが党の長になるのかが争われる。その争いが表面においては行なわれるが、そこで見逃されてはならないことは、集団の中の対立の欠如である。

 集団の中で対立が欠けているのが自民党のあり方だろう。和のしばりが強くはたらく。これまでをふり返ってみると、集団の中で前首相の安倍晋三首相にさからう人がいなかった。石破茂氏などのほんの一部の例外をのぞく。いまの首相である菅首相にさからう人はいなかった。集団の中がほぼ協調の一辺倒になっているのである。さからう人は集団の辺境に追いやられて冷遇されるしうちを受ける。排除されるのだ。

 集団の中に対立が欠けていて協調だけになっていることから、集団の中に不祥事がまん延する。構造として見てみると、対立が欠けて協調だけといった構造が変わりづらいから、党の長にだれが選ばれたとしても、不祥事が引きつづく。これまでの不祥事がずっと引きつがれて行く。自浄されず清算されることがない。

 むかしの自民党であれば、いまのように選挙の仕組みが小選挙区制ではなかったことから、党の中にいろいろな派閥があって、お互いに対立し合うところがあった。それによっていくらかの自浄のはたらきがあった。いまはそれが見こめなくなっている。集団の中で対立が失われていて、協調に重みが大きく置かれている。それが災いしていて、不祥事がたくさんおきてきている。

 対立と協調のつり合いが崩れていて不つり合いになっているのが自民党のありようだろう。うまい具合に対立しながら協調するといったようにはなれていない。協調に重みが置かれすぎていることから不健全なあり方になっている。

 憲法の改正をかかげることによって何となくまとまっているのが自民党だと見られる。その憲法の改正では、表面としてそれが言われているのにとどまっていて、深くまで掘り下げられていない。自民党がつくった憲法改憲の草案は内容がめちゃくちゃであり、近代の立憲主義からかけ離れたしろものだ。改正にはなっていなくて内容がより悪化(後退)している。

 政治で行なわれるいろいろな政策にこれまでにいくつものまちがいがあった。それがいまにまで引きつづいていて持ちこされている。政策にいろいろなまちがいがおきたのは、自民党の中に対立が欠けていて協調に重みが置かれすぎているからである。政権がやることがすべてよしとされることになり、政権のまちがいが修正されることがなくなる。

 表面としてはだれを党の長に選ぶのかが争われる。総裁選ではそれが争われるが、だれが選ばれるのかの具体のところは置いておくとして、これまでにたくさんの不祥事が集団においておきてきていることや、それにフタのおおいがしつづけられてきていることや、不祥事を生む構造が温存されつづけていることがある。

 不祥事を生む構造としては、集団の中で対立が欠けていて協調に重みが置かれすぎていることで、集団の中で中心化(求心化)と全体化が強まっているのがある。その構造のまずさを改めることがなければ、だれが党の長として選ばれたところで、それほど代わり映えはしないだろう。集団が抱えている負の構造に踏みこんでそのまずさを改めることがいる。対立と協調のつり合いが欠けていて、不つり合いになっていると、反動がおきることになり、集団のまとまりが土台の大もとから大きく崩れることがおきかねない。

 参照文献 『法律より怖い「会社の掟」 不祥事が続く五つの理由』稲垣重雄 『政治の見方』岩崎正洋 西岡晋(すすむ) 山本達也 『現代政治理論』川崎修、杉田敦