臨時国会をひらくことを与党がこばんでいること

 野党が臨時国会をひらくことを求めている。定められた条件を満たした形で野党は求めをおこしている。それなのにもかかわらず与党である自由民主党の政権は臨時国会をひらくことをこばんでいる。これは憲法に違反するものだと見られている。

 いまの自民党菅義偉首相の政権がやっているように、たとえ野党がひらくことを求めていても、与党の気に食わなければ臨時国会をひらかなくてもよいのだろうか。野党の求めに聞く耳を持たずにないがしろにしつづけるのでよいのだろうか。

 大切なことは、自由主義(liberalism)によるようにすることにある。自由主義によるようにして、普遍化できない差別をなくす。特権化がおきないようにして行く。

 自由主義によるようにするのに加えて、矛盾がおきないようにすることもいる。法律には素人ではあるが、法律は、何々であれば何々がいるといった形になっているものだろう。

 何々であれば何々がいるの形では、原因と結果の因果関係になっている。野党が求めているのは原因に当たるものだ。臨時国会をひらくことを野党が求めていて、それが一定の基準を満たしているのであれば、十分な原因が満たされたことをしめす。十分な原因が満たされたさいに、それがどういったことを含意していて、どういった結果がおきなければならないのかを明らかにすることがいる。

 できるだけ矛盾がおきないようにするためには、原因に当たることが満たされていれば、結果がきちんと引きおこらなければならない。結果となるものがもしもおきていないのであれば、原因が満たされていないことになってしまうから、矛盾がおきてしまうのである。結果がおきていないのであれば、原因もまた満たされていないのでないとならない。

 権利であればゆるいけど、義務はきつい。権利はそれを行使しなくてもよいが、義務はやらなければならないものだ。臨時国会をひらかなければならないのは義務に当たることだろうから、ひらかなくてもよいことにはならないものだろう。もしもひらかないのであれば、義務に違反していることをしめす。義務であるのなら、それをやるか(守るか)もしくは違反するかの二つしかない。

 義務のなかでもゆるめなのが努力義務だから、自民党の政権は臨時国会をひらかなければならないことを努力義務だとしているのかもしれない。努力義務であれば、たとえひらかなくても許されることになる。

 かりにゆるい義務だと見なすのにしても、与党であるときと野党であるときとで、言うことがそのつどちがうようでは駄目である。与党であるときにも野党であるときにも、言うことがつねに一貫していることが自由主義ではいる。立ち場が変われば言うことが変わるようでは特権化がおきてしまう。

 自分たちが与党の立ち場のときは自分たちに甘めにして、自分たちが野党の立ち場であるときには与党にたいしてきびしいことを言う。そういうようであっては言うことに一貫性がないから普遍化できない差別がおきてしまう。

 甘くするかきびしくするかでいえば、甘くするのならいつでも甘くするようにして、厳しくするのであればいつでも厳しくすることがいる。そうした一貫性がいちじるしく欠けているのが自民党だろう。自民党のみならず、広く日本の社会がそうなっているのがある。

 日本の社会の一般のことは置いておいて、政治の世界に限定してみると、政治のあり方がどんどん弱い方向に向かっていっている。弱い方向とは、自分には甘くて他にはきびしいものだ。一貫性がなくなり、自由主義が壊されることになっている。液状化してしまっていて、ゆるゆるやどろどろとしているのがあり、大切にされるべきものが溶けていっている。

 政治において弱い方向にどんどん流れて行くことにたいして歯止めをかけて行かないとならない。放っておいたらどんどん弱い方向に流されて行く。それでいまのおかしなあり方にいたっているのである。なしくずしに弱い方向に向かっていってしまっていて、なんでもありといった悪いあり方になっている。

 大前提となる価値観のところから見直すようにして行く。根本のところに立ち返るようにする。それがいまの日本の政治においていることだろう。自民党がよいとか野党が悪いとか駄目だとかそういったことは実質に当たることだけど、それとはちがい、形式を重んじて行く。

 形式ががたがたに崩れてしまっていて、実質に重みが置かれてしまっていることから、おかしなことが政治でいろいろに行なわれてしまっている。形式のところが崩れていて、そこがきちんとしていないから、実質が弱くなっているのである。一般性や客観性がある形式をきちんとふまえて政治をやらなければ、実質が弱いまま改まらない。

 あんがい盲点や穴となってしまっているのが形式を重んじることだろう。そこを軽んじることによって、実質が弱まることになり、よい政策が行なわれづらい。よい政策といえばふつうはじかに実質がどうかがとり上げられがちだ。

 実質をじかにとり上げるのではなくて、遠まわりなようではあるが、形式をしっかりと重んじたほうが、実質がよくなりやすい。形式の手つづきのところがすっ飛ばされていて、そこがきちんとできていないのがいまの日本の政治の悪いところだろう。形式の手つづきに当たることには、立憲主義によるようにして憲法を守ることや、十分な議論をやることなどがあげられる。

 形式を重んじるのは長期の利益にかないやすい。科学のゆとりを持てている。形式をないがしろにして軽んじるのは短期の利益を追っているときだ。たとえば、明日になったら世界が終わるのだとすれば、だれも法の決まりを守らない。そこで法の決まりを守っても意味はほとんどない。いまの日本の政治は、極端にいうと、明日になったら世界が終わるといったようになっているところがある。お上が形式をないがしろにしていてそれをぶち壊しつづけている。科学のゆとりを欠いているのである。あぶない兆候だと言えるものだ。

 参照文献 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『本当にわかる論理学』三浦俊彦 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『論理的に考えること』山下正男 『逆説の法則』西成活裕(にしなりかつひろ) 『文学の中の法』長尾龍一