犬笛とねこ―犬型の社会としての日本の国

 影響力がある人が犬笛をふく。笛が鳴った音を聞きつけて、手下にあたるたくさんの人たちが動く。

 ぜい弱性や可傷性(vulnerability)をもつ人が悪玉化される。標的(target)にされる。犬笛が吹かれることで、そのもとにたくさんの人が動き、標的の排除が行なわれる。そのことについてをどのように見なすことができるだろうか。

 じっさいにほんとうに犬笛にあたるものが吹かれるわけではないが、あたかもそれが吹かれるかのような動きがおきる。興味深い言いあらわし方なのが犬笛を吹くと言う言い方だ。

 日本の社会の中で犬笛が吹くことが行なわれているのは、ここさいきんで日本の社会が右傾化しているのが関わっているものだろう。日本の社会は右に右にといったように右傾化が強まっている。犬笛がたびたび吹かれてきていることにそれが映し出されている。

 もともと日本の国は左が弱く、左の受け皿がない。主義でいうと、右である新自由主義(neoliberalism)が強くて、左である社会民主主義(social democracy)が弱い。新自由主義からくる自己責任論が大手をふってかっぽしているのだ。

 たとえ犬笛が吹かれても猫であればそれには反応しない。反応がおきるのは犬にたいしてだ。日本の社会は犬型の社会の性格が強いので、犬笛を吹くことが効果をもつ。もしも日本の社会がねこ型の社会であれば、犬笛を吹くことの効果はそれほど大きくはない。

 犬型の社会の性格が強いあり方から、ねこ型の社会に転じて行く。そのことがいまの日本の社会には求められている。そう見なしてみたい。従順な犬のあり方によることから、犬笛が吹かれることが効果を持つことになる。

 犬笛が吹かれたとしてもそれが意味をなさずに無効化されるようになってほしいものだ。いまの日本の社会では、犬笛を吹けばそれによって従順な犬たちが反応してじっさいに動いて行く。空気を読んでそんたくを働かせるような順応や服従や同調や忠誠のあり方が強いのが日本の社会だろう。

 国どうしの関係においては日本はアメリカの犬になっているところが大きい。アメリカが犬笛を吹くと、日本はそれに従って動く。日本はアメリカが吹く犬笛に従う犬のようになっているが、これはきびしく見ればだらしがなく情けないあり方だ。アメリカのあり方に日本は乗っかっているのがあり、日本としてはこうだといったものがない。アメリカに依存するところが大きいので、世界の中で日本は独自のあり方を持っているものとしては他の国からは尊敬されていない。

 戦前や戦時中においては、日本の国は天皇が吹く犬笛によって国民は動かされていた。天皇は犬笛を吹く役をにない、それに従うのが下にいる国民つまり臣民だった。天皇は生きている神だとされていたのである。

 戦後になって犬笛を吹く役がアメリカになった。日本にとってアメリカこそが光だとなったのだ。光であるアメリカの吹く犬笛によって動く国になったのが日本である。光であるアメリカの方だけを見ているのが日本だ。そのことを甘く見れば、半分は正しいが半分はまちがっているだろう。

 犬笛が吹かれたらそれに反応して動くといったような犬のようなあり方ではなくて、猫のようなあり方に転じることがあったらよい。犬笛が吹かれてそれによって動くのは、しょせんは犬笛が吹かれなければ自分からは動けないことをしめす。

 犬笛が吹かれたら、それに従うのではなくて、それにさからう。そうしたことがあることがいる。一般として言えば日本人は犬笛が吹かれたらそれにさからわずに大人しく従いがちだ。権威に弱い。それは日本の社会が犬型の社会の性格が強くて、それが改まる見こみが立っていないからである。

 参照文献 『右傾化する日本政治』中野晃一 『「ネコ型」人間の時代 直感こそ AI に勝る』太田肇(はじめ) 『現代思想を読む事典』今村仁司