ヒトラーに例えるのとは別に、ヒトラーをほかのものに例えてみる―強い猫やオオカミと、弱いねずみや羊

 ヒトラーに例えるのはよくない。日本ではそう言われているのがあるが、ヒトラーをほかのものに置き換えられるとすると、どのようなものに置き換えられるだろうか。動物に置き換えられるとすると、ヒトラーは猫やオオカミに当たる。

 猫やオオカミは、強いものだ。それにたいして、ねずみや羊は弱いものだ。ヒトラーの反対や逆に当たるものは何かと言えば、それは弱いものに当たる。

 強いものである、猫やオオカミが出てくると、危なさがおきてくる。強いものによるのは、いっけんするとよさそうに見えるけど、じっさいには危ないものである。強さが悪くはたらくことが少なくない。

 ヒトラーに例えるのは、動物でいえば、ねずみや羊ではないことをさす。猫やオオカミに当たるものであるのをしめす。どちらかといえば、動物で言うならばねずみや羊には当たらず、猫やオオカミに当たるのであれば、ヒトラーに例えることができることがある。

 ひとたびヒトラーのような強いものが出てきてしまうと、社会の矛盾がおきてしまう。いったん強いものが出てきてしまうと、いつまでも権力を握りつづけることがおきる。強いものである猫の首に、どのねずみたちも鈴をかけられなくなる。

 日本ではないほかの国では、たとえば、中国やロシアやミャンマーなどは、国の指導者をヒトラーに例えることができる。中国やロシアやミャンマーでは、強いものが出てきてしまっていて、それが権力を握りつづけている。強いものである猫の首に、どのねずみたちも鈴をかけられなくなっている。

 ヒトラーのような強いものが出てきてしまうと、他律(heteronomy)のあり方になってしまう。強いものが、超越の他者(hetero)になり、ほかのものを動かす。超越の他者は、日本でいえば、天皇がそれに当たるものだった。天皇が絶対化されていた。天皇は生きている神だとされたのである。

 他律によることになるのがヒトラーであり、その反対や逆は自律(autonomy)のあり方だ。他律によるのだと、民主主義だとは言えない。自律によるのでないと民主主義だとは言えないのがあり、超越の他者によって動かされるのではないことがいる。

 天皇による他律のあり方が以前の日本ではとられていたのがあり、天皇ヒトラーに例えられるものだ。いまでは天皇が絶対化されていないから、その点では他律のあり方が改まったが、広い意味での天皇制の他律のあり方がまだ力をもちつづけている。完全に根だやしにすることができていなくて、いまだにしぶとく力をもちつづけている。

 まだ天皇制の国体が生きのこりつづけていて、いまは日本の国の外のアメリカが絶対化されていて、戦前における天皇に位置しているところがある。アメリカに従属して依存しているのが日本だ。アメリカが強いものに当たり、猫やオオカミに当たる。

 強いものが出てくるのをまちのぞみつづけているのが日本にはあり、じっさいにそれがすでに出てきてしまっているのがある。与党である自由民主党は、一強となってしまっていて、党として強いものになってしまっている。党として猫やオオカミに当たる。

 個人主義が弱くて、集団主義が強いのが日本にはある。いちおうそう言うことが言えるとすると、個人主義ではなくて集団主義によっているのは、強いものが出てくることをうながしやすい。強いものが上に立ち、下のものがそれにすなおにしたがう。集団としてそうしたあり方になりがちだ。

 いまの日本ではまさに、社会の矛盾がおきてしまっていて、強いものである猫の首に、どのねずみたちも鈴をかけられなくなっている。国の中でそうなっているのがあるし、国の外の強いものであるアメリカにも、さからえなくなっている。

 理想論としては、強いものが出てこないで、猫やオオカミがいないのがのぞましい。ねずみたちや羊たちしかいなくて、弱いねずみたちや羊たちがたがいに仲よく(または対立しながらも)やって行く。

 現実論を見てみると、弱いねずみたちや羊たちどうしでやっていっているとは言えそうにない。強いものである猫やオオカミが出てきてしまっていて、それらが力をもっている。

 現実論によるとするのであれば、動物でいえば、強い猫やオオカミがいたるところにいるから、ヒトラーに例えられるものがいろいろにある。日本の国の中にも、また国の外にも、ヒトラーに例えられるものが色々にある。

 日本では、理想論によるような、弱いねずみたちや弱い羊たちどうしでやって行くのができていない。そこがかなり弱い。民主主義ができていないのだ。現実論が重みをもってしまっていて、強いものが出てくるのをどんどんうながしている。強いものである猫やオオカミがすでに出てきてしまっていて、猫の首にどのねずみたちも鈴をかけられなくなっている。社会の矛盾がすでにおきている。

 きびしくいえば、すでに日本では、ある点においては、ヒトラーに例えるかどうかよりもさらにより進んで、ヒトラーが出てきてしまっているのだと言えなくはない。ヒトラーに例えるのかどうかよりも、さらにより深刻なことになっていて、ゆでがえる現象がおきている。

 いろいろな兆候が出ているのが見逃されることでヒトラーが出てくることになった。いろいろに出ていた兆候が軽んじられた。いまの日本では、いろいろに出ている兆候がどんどんと見逃されていっている。いろいろな兆候が重んじられて受けとめられていない。

 いかにして強いものである猫やオオカミによらないで、弱いねずみや羊たちどうしでやって行けるようにするのかの、理想論が探られなければならない。いろいろに出ている兆候が見逃されていて軽んじられて、ヒトラーのような強いものが日本で出てくることがおきてしまっているのがあるから、社会の矛盾がおきていることは否定できづらい。

 参照文献 『社会的ジレンマ 「環境破壊」から「いじめ」まで』山岸俊男 『民主主義の本質と価値 他一篇』ハンス・ケルゼン 長尾龍一、植田俊太郎訳 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『国体論 菊と星条旗白井聡(さとし) 『右傾化する日本政治』中野晃一 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫