安倍元首相の、冥福を祈るべきなのか―何に協調するべき(だったの)か

 殺された安倍元首相の、冥福を祈るべきなのだろうか。

 安倍晋三元首相の冥福を祈ったり、国葬を行なうのをよしとしたりする。それらのことに、協調(協力)するべきなのだろうか。協調しないことは、よくないことなのだろうか。

 冥福を祈るべきだとか、国葬をやるのをよしとするべきだとかとするのは、それらへの協調をよしとすることだ。

 何に協調するべきなのかでは、安倍元首相が殺される前の、生きているときに、安倍元首相をきびしく批判して、責任をきびしく追及するべきだった。

 殺されたあとではなくて、殺される前の、生きていて、政治家だったときに、やるべきことがあった。やるべきこと、つまり協調するべきことがあったけど、協調ができていなかった。それで社会の矛盾がおきていた。

 政治において、安倍元首相は、動物でいえば、猫やオオカミだった。強い自我だった。民主主義では、猫やオオカミはいてはならないものである。弱い自我である、ねずみや羊たちだけでやって行かないとならないのが民主主義である。

 猫やオオカミだったのが安倍元首相だが、その猫の首に、ねずみたちが鈴をかけるべきだった。ねずみたちがみんなで協調し合えばそれができた。やろうと思えばできたことだし、やるべきことだったけど、それがなされなかった。協調しない人が多かったからである。

 猫の首には、鈴がかけられるべきではあったが、猫そのものが殺されるべきではなかった。猫が殺されたのは、あるべきことではなかったけど、それとともに、猫やオオカミがいることもまた、民主主義においてはあるべきことではなかったのである。

 何に協調するべきなのかといえば、猫(つまり安倍元首相)が殺されてから、その冥福を祈ったり、国葬をやるのをよしとしたりするのがよいことなのではない。猫が生きているときに、猫の首に鈴をかけることに、協調するべきだったのである。

 たとえ、安倍元首相が、猫やオオカミに当たるからといって、殺されたことの冥福を祈るのはあってよいことだろう。それはあってもよいことだけど、気をつけるべきなのは、強い自我にすがったり、強い自我をよしとしたりするのはよくないことである点だ。

 冥福を祈ったり、国葬をやるのをよしとしたりすることに、協調をしても、それほど意味はない。それよりも、猫(つまり安倍元首相)が生きていたときに、猫の首に鈴をかけられず、協調できなかったことをふり返るのには意味がある。

 猫である安倍元首相は、猫に協調させようとしていて、それがかなりうまく行った。猫に協調する人が多かった。そこに、まずさがあった。猫に協調してしまわずに、猫の首に鈴をかけることに協調できたらよかった。

 どうして、猫に協調する人が多く出てしまったのか。猫の首に鈴をかけることへの協調がおきなかったのか。協調の動機づけ(incentive)のあり方をふり返ることには意味がある。あり方をふり返ることをせずに、たんに、猫の死について冥福を祈るだけでは、強い自我にすがったり、強い自我をよしとすることにしかならない。民主主義にとっては益にならないことである。

 参照文献 『社会的ジレンマ 「環境破壊」から「いじめ」まで』山岸俊男 『民主主義の本質と価値 他一篇』ハンス・ケルゼン 長尾龍一、植田俊太郎訳