国葬と、民主主義―国葬の民主化、つまり国葬への反対や批判(の受けとめ)

 民主主義によるようにして行く。そうしなければならないから、国葬をやる。岸田首相はそうしたことを言っている。

 民主主義をもち出せば、殺された安倍晋三元首相の国葬を正当化することができるのだろうか。

 二つの極があって、一つの極は民主主義だ。もう一つの、それとは反対にある極には、専制主義や独裁主義がある。反民主主義だ。

 一つの極から、もうひとつのそれとは反対の極へと移ってしまう。反対の極へと転じてしまう。岸田文雄首相が言っていることからは、それが少しうかがえる。

 啓蒙(けいもう)の弁証法では、啓蒙が野蛮へと転化することがあるのだとされる。民主主義であれば、それを打ち出しすぎることによって、野蛮へと転化する。専制や独裁と化す。

 二つの極がある中で、一つの極から、もう一つの極へと循環して行く。移行して行く。極から極への循環の動きだ。

 民主主義がこわされてしまいかねなかったのが、安倍元首相が殺された事件だった。岸田首相はそう見なしているのだろうけど、それとは別のとらえ方がなりたつ。

 民主主義によっていたのが、安倍元首相なのではなかったのである。民主主義によっていたのではなかったから、安倍元首相が殺される事件がおきたとしても、それによって民主主義がこわれることにはならない。事件によって、民主主義がこわれるのではなくて、安倍元首相が民主主義をこわしまくっていたのだ。

 二つの極のうちで、民主主義の極にいたのが安倍元首相なのではなかった。そっちの極ではなくて、反民主主義の極にいたのが安倍元首相だったのである。専制や独裁の極だ。負の極にどんどん持って行こうとしていたのだ。

 事件がおきて、そのごに、国葬をやることが決められた。国葬をめぐっては、国葬への反対の声が少なからずある。反対の声が少なからずおきているのは、民主主義が復活しているきざしとも読みとれる。

 国葬を行なうのであるよりも、それに反対の声が少なからずあげられているところに、民主主義の極へのゆり戻しの動きのようなものを少し読みとれる。

 あまりにも、負の極へと向かって行きすぎていたのが、安倍元首相が生きていたときだ。反民主主義の、専制や独裁の極に向かって行きすぎていた。そこに危なさがあったのである。

 いままで良いあり方だったのではなくて、いままで悪いあり方だったのだから、そこをはきちがえないようにしたい。いままで悪いあり方だったのがあり、そこにだし抜けに事件がおきたのである。

 ずっと正の極にとどまりつづけることはできづらい。ずっと民主主義の極にとどまりつづけるのはできづらく、民主主義はなりたったとたんに形骸(けいがい)化して行く。負の極へと進んでいってしまう。

 いまの時点がどうなのかを見てみると、いまは、事件がおきて、それまで負の極にあったのが、ちょっと正の極へと向かうきざしがおきているかのようである。そのきざしは、国葬に反対する声が少なからずおきていることから見てとれるものだ。国葬を行なうから、正の極へといたれるのではないのである。

 参照文献 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『啓蒙の弁証法テオドール・アドルノ マックス・ホルクハイマー 徳永恂(まこと)訳