国葬と、外交―外交(や国内の政治)で大きな成果をなしたのが安倍元首相だったのか

 国の内や外で、色々な成果を残した。国の外では、外交で大きな成果を出した。国葬されることになっている安倍元首相はそうだったのだと、岸田文雄首相はしている。

 外交で大きな成果を残したのが、安倍晋三元首相だったのだろうか。そこには少なからぬ疑問符がつく。

 国の外の外交もだめで、国の内の内政もだめだった。どちらもだめだったのが、安倍元首相の政治だった。すごくきびしく見れば、そう見なせる。

 外も内もだめだったとするのは、かなりきびしいものであり、一面の見なし方のきらいはある。否定の一面だけを見たものだ。きびしく見るのではなくて、甘く見れば(つり合いをとるようにして見れば)、よい一面(正の一面)もあったのはたしかだろう。

 原理や原則(principle)が欠けていた。主体性が欠けていた。安倍元首相にはそれらが無かったので、外交で成果を作れなかった。内政でも成果を出せなかったのである。

 そもそも(そもそもの話として)どうなのかといったような、もとになる価値観を持つことがいる。それが無かったのが安倍元首相であり、日本の国だ。

 たんに、目先の選挙で勝てればよい。勝ちさえすればそれでよい。勝つためだったら、何でも使う。韓国の新宗教(旧統一教会)の力を借りてでも、勝てればよいのだ。勝つことだけが自己目的化していた。

 これをするくらいなら(たとえば韓国の新宗教の力を借りるくらいであれば)、負けてもよいとするような、歯止めが欠けていたのである。これをやるくらいだったら、まだしも負けたほうがましだ、といったものがなかった。勝つつまり正しい、負けるつまりまちがい、みたいなまちがった発想によっていた。

 日本をよしとする愛国によるのは、まっとうな価値観ではない。まっとうな原理や原則になるものではない。いちばん安っぽいものなのが愛国だ。

 原理や原則をもっていないと、予測がなりたたない。この人(またはこの国)は、こういうときにこう動くのだと、外から見て予測が立つようでないと、信頼されない。信頼されないと、価値を共有し合うことができない。

 アメリカにすがりつづけているのが日本の国だろう。アメリカへの従属である。アメリカの附傭(ふよう)国となっていて、植民地のようになっているところがある。アメリカの手下やこぶんである。

 戦後の日本は、日本の国の外に天皇を置いているのがあり、天皇に当たるのがアメリカである。アメリカにはさからえない。安倍元首相は、そのあり方によっていた。そこから脱することができなかったのである。

 天皇に当たるのがアメリカであり、権威になっている。その権威を批判したり疑ったりするくらいでないと、きちんとしたあり方になることができづらい。権威つまりアメリカを良しとしすぎていたのが安倍元首相だった。権威を批判したり疑ったりすることがなかった。

 アメリカとのあいだに、協調はあるけど対立がないから、まんまとアメリカのやり方にはまってしまっているのが日本だろう。アメリカにやられないようにするためには、協調するだけではなくて対立することが必要であり、対立つまり政治をやって行く。その努力がいる。

 アメリカが作った図式みたいなものに、そのまま乗っかる。アメリカの新保守主義(neoconservatism)を、日本でも同じようにやって行く。それだと、アメリカにおまかせするあり方になり、対米の従属になるから、主体性をもてない。日本が自由に色々にやって行くことができない。

 少なくともアメリカとのあいだではうまく行っているようではあったけど、アメリカにすら見くだされてしまう。いちばん仲がよいようであるアメリカにすら見くびられて、見下げられてしまう。日本はそうしたあつかいを受けていそうだ。

 薬と毒の転化(pharmakon)でいえば、日本にとってアメリカは薬のようではあるけど、それは毒になる。毒に転じる。薬のようでいて、それが毒に転じてしまうから、日本では、いま毒が回っている。安倍元首相が、外交や内政でなしたことは、薬のようではあったが、毒に転じたものが少なくはないだろう。

 参照文献 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『十三歳からの日本外交 それって、関係あるの!?』孫崎享(まごさきうける) 『国体論 菊と星条旗白井聡(さとし) 『信頼学の教室』中谷内一也(なかやちかずや) 『安心社会から信頼社会へ 日本型システムの行方』山岸俊男 『政治の見方』岩崎正洋 西岡晋(すすむ) 山本達也