国葬と、外交―弔問の外交は、そこまで意味があるものなのか

 国葬をやらないと、(日本が)海外から笑われる。世界から笑われてしまう。世界から笑われないためにも、国葬をやることがいるのだという。

 もしも国葬をやらなければ、世界の国の指導者が、あれっと思うだろう。東京都の都知事はそう言っていた。

 殺された安倍元首相の国葬をやるのは、弔問(ちょうもん)の外交になるから、やるべきことだ。やることがありきであり、やらないのは論外だ。そのように見なされているけど、それはふさわしい見なし方なのだろうか。

 たしかに、安倍晋三元首相の国葬が、弔問の外交になることから、それをやる意味あいが大きいのだとする見かたはわからないことではない。そういった見かたが成り立たないではない。

 外交の効果を、過大に見なしすぎている。いっけんすると、世界からいろいろな人たちがまねかれるから、そこに大きな意味あいがあるかのような気がするけど、あらためて見てみると、効果がうすい。表面だけではなくて、それをほり下げて見てみるとそう見なせるところがある。

 いろいろな人たちが世界からまねかれるから、いっけんすると華々しく映るけど、見た目は華々しくてはではでしいだけであって、その内実はとぼしい。

 表面の効果は大きいかもしれないけど、そこにどれだけの実質があるかが大事なことだろう。実質としては、得るものが少なそうなものなのが国葬だ。

 外交がとても重要なのだと見なすのは、一理あるけど、そこには疑問符がつく。外交をだしにして、国内の内政をおろそかにしているのが日本にはある。都合がよいときだけ外交をもち出す。外交をやってますよみたいな、(テレビ用の)画うつりだけの、見せかけのことにすぎないことが少なくない。

 内と外とのあいだの相互作用で見てみると、国内の内政ががたがたになっていて、うまく行っていないのにもかかわらず、外交だけがうまく行くことはありえづらい。内政をきちんとやって行くことが、外交をしっかりとやることにつながって行くものだろう。

 例えられるとすると、外交は、遠いしんせきとのつき合いのようなところがあり、うわべのところがある。世界から安倍元首相の国葬にまねかれる人たちは、安倍元首相のことをよく知っていない。日本や安倍元首相のことをくわしく知らないで、あまり深い関心をもっていない。

 いまの時代は世界主義(globalism)になっているから、外交と内政を純粋には分けづらい。外の中に内があり、内の中に外がありといったふうである。外と内とが互いに交通し合う。近代では、外と内との交通が活発化して、空間や時間が圧縮化されている。

 どこに重要な意味あいがあるのかといえば、外交にあるのであるよりも、内政にこそあるのが、国葬だろう。外交によって、内政をしたがわせることができるのかといえば、それはできづらい。内政ががたがたになっているのがひびいてしまうから、そこをその場しのぎの外交によっては埋め合わせづらいのがある。

 外交よりも内政のほうが重要なのが国葬にはある。そのわけとしては、世界の極東にあるのが日本の国なのだから、世界(海外)はそこまで日本や安倍元首相のことに関心をもっていない。

 世界の中心にあるのが日本の国なのではない。ふさわしい認識をもつのだとすれば、日本は極東にある小さい島国にすぎず、そこまで(世界の中心の大国のようには)大きな関心を持たれていない。

 国葬をやろうがやるまいが、そこまで大きな意味あいをもつものではなく、やらないならやらないで、あっそう、くらいですんでしまいそうだ。やらなかったとしても、世界から日本が笑われることはなく、どうぞ日本のご自由に、といったくらいのものだろう。かつてのようには、そこまで日本は世界から注目されていないからだ(Japan passing、Japan nothing)。

 参照文献 『十三歳からの日本外交 それって、関係あるの!?』孫崎享(まごさきうける) 『グローバリゼーションとは何か 液状化する世界を読み解く』伊豫谷登士翁(いよたにとしお) 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき)