国葬をやるのは、正しい。日本の外から人をまねく、外交の効果がある。その効果が大きい。そう言われている。
犯人に殺された安倍晋三元首相の国葬は、外交としてのはたらきをもつ。外交のはたらきがあるから、やることがありきだ。
日本の国の中で、反対の声をふくめて、色々なことが言われているのは、意味がないことだ。そう見られているのがある。
国葬には、外交のはたらきがあるから、行なわれなければならないものなのだろうか。日本の国の中で、声をあげたとしても、それは意味がないことなのだろうか。
西洋の弁証法(dialectic)によるのと、形式論(手つづき論)と実質論(実体論)とによって、国葬を見てみたい。
外交のはたらきがあるから、国葬をやるのが正しいのだとするのは、実質論に当たるものだ。費用対効果で、税金の費用をかけただけの効果(外交の効果)があるのだとしている。
たんに、実質論だけによるのだと、弱さがある。外交のはたらきがあるのをもち出すだけだと、実質論によるだけであり、形式論が欠けている。
弁証法で見てみると、正と反と合がある中で、きちんと形式の手つづきをふめば、正と反から合に止揚(aufheben)できやすい。
正つまり合として、反をとり落としてしまい、正からじかに合にいたらせる。早まったあり方になっているのが、国葬にはある。
早まらないようにして、反をとり落とさないようにして行く。正から合にじかにいたろうとするのではなくて、正と反をくみ入れて、それから合にいたらせて行く。とちゅうの過程をすっ飛ばさないあり方だ。形式の手つづきをしっかりとふんで行く。
政治で何かをやるさいには、形式論によるようにしないと、形式の支えをのぞめない。法の決まりをしっかりと守るようにすることが、形式の支えになり、それが強みになる。
いくら、外交のはたらきがあるからといって、それは国葬の実質の良さを言うのにとどまるものであり、形式についてのことがらではない。形式を抜きにして、実質の良さだけをもち出すのだと、形式の支えがないから、うったえの力が弱い。
まどろっこしいようではあるけど、とちゅうの過程をすっ飛ばさないようにして、過程のところに力を入れて行く。弁証法では、正と反があるのをくみ入れて、その二つの立ち場を共に見て行く。二つの立ち場から、お互いにやり取りをし合う。
形式論の、手つづきなんかどうでもよくて、実質の良ささえあればよい。実質論によるあり方で、すぐに決断を下してしまうと、いっけんすると良いようではあるけど、まずさがおきてくる。決断したことに弱さが出てしまい、うったえに強さがのぞめない。
すぐに決断を下すのではなくて、非決断にして、じっくりとやるようにして、しんちょうさをもつようにする。弁証法で、正と反がある中で、それをうまいぐあいに合にいたらせるようにして行く。
正と反から、合にいたらせるのに失敗しているのが、国葬だろう。もしも合にいたらせられているのであれば、国葬をやらないようにしたり、国の全体を巻きこまないような形で安倍元首相のお葬式をやるようにしたりすることもできるだろう。そういった形の、国葬ではない、もうちょっと適切な形の合にいたらせることがのぞめる。
合にいたってはいなくて、それにいたらせるのに成功していないのが、国葬である。合にいたっていなくて、正と反が分裂したままになっている。矛盾がおきつづけている。矛盾がおきたままで、強引にやろうとしているのだ。矛盾を解消できず、合にいたれていないのは、形式の支えが欠けているからである。
形式論から見ると、悪さがいろいろにあるから、実質論としても正しいものとはいえなくなっている。実質論としては、外交のはたらきがあることが言われているけど、実質論によるだけだと、きびしさがあることはいなめない。
よくよく見てみると、実質の良さが言われていても、かんじんなものが不足している。かんじんなものとは、形式の手つづきであり、形式の支えがあるかどうかだ。それがないと、(いくら実質の良さがあったとしても)うったえとしては強くなりづらい。
参照文献 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『正しさとは何か』高田明典(あきのり)