ロシアとウクライナの戦争と、日本の核の武装―核についての議論くらいはするべきなのか

 ロシアとウクライナのあいだで戦争がおきている。

 戦争がおきている中で、日本の国の防衛がいわれている。日本の国も核兵器をもつべきではないか。核兵器を共有する手もあると言われる。

 与党である自由民主党安倍晋三元首相や菅義偉前首相は、核についての議論くらいはあってもよいとしている。議論をすることは否定されるものではなく、禁忌(taboo)をつくらないほうがよい。

 自民党の政治家などが言うように、核の議論くらいはあってもよいのだろうか。それとも、議論はしないほうがよいのだろうか。

 議論をしないほうがよいのだとしているのが、野党の立憲民主党泉健太代表だ。日本の国は核を持たないほうがよいのだから、議論をするまでもない。議論をしようとするのは、核を持ちたいからなのにほかならない。その人が、日本に核を持たせようとしているのにほかならない。

 議論をするべきか、それともしないようにするべきかでは、議論をするべきだと見なしたい。なぜそう言えるのかといえば、西洋の哲学の弁証法(dialectic)でそれを見てみたい。弁証法で、正と反と合があるなかで、議論をしないのだと、正つまり合としてしまうことになってしまう。正つまり合とするのではなくて、正にたいして反があることを認めるようにして、議論をして行く。それがいることだろう。

 立憲民主党の泉代表のように、議論はするべきではないとするのでは、弁証法でそれをいえば、合の危なさを言っている。議論を行なって、合に止揚(aufheben)されるさいに、日本が核を持つことになってしまう。そのおそれはたしかにある。よくない合にいたればそうしたことがおきることはある。

 核についての議論をやるべきかそれともやらないようにするべきかでは、核の議論とするのとはちがって、核と議論として分けて見られる。核と議論では、核よりも議論のほうがむしろ大事だ。核が大事なのではなくて、議論のほうこそが大事なのだ。

 核と議論では、核よりも議論が大事なのだから、核ではなくて議論をとり上げるようにすることがいる。議論をとり上げるさいには、説明責任(accountability)や、社会関係(public relations)や、討議の倫理(diskurs ethik)などをあげることがなりたつ。

 日本の国の政治では、説明責任がないがしろにされていることが多い。説明がきちんとされない。説明が抜きであることが多い。そこが改善されることがいる。

 日本の国は低文脈の言葉と高文脈の文化による。学者のスチュアート・ホール氏による。言葉は低文脈だから、言葉がはしょられることが多い。説明が尽くされない。文化が高文脈であることから、空気を読んでそんたくすることが行なわれる。上の政治家の顔色をうかがう。

 とにかく日本の国は正しいといったあり方がとられることで、上から正しさが下に押しつけられて行く。上にさからってはならないといったような、前近代の江戸時代のようなあり方がいまだに日本の国ではとられている。国家主義(nationalism)が強い。日本の国の政治には、適した形の社会関係があるとは言いがたい。

 自分と相手とのあいだで、決まりを守りながら、議論をやって行く。決まりにもとづいて議論をすることがいるけど、日本の国の政治ではそれがないから、討議の倫理がない。決まりを抜きにして、強弁や詭弁がへいきでまかり通ってしまう。

 議論を好むのではなくて、その逆にそれをきらうところが日本の国の政治では強い。そこを改善することがなければ、核についての議論はできないだろう。修辞学でいわれる、先決問題要求として、核についての議論をやる前に、議論そのものについてを改善して行く。なにが優先とされるべきなのかでは、それがいえる。

 いきなり核についての議論をやっても、議論は成り立ちづらい。まず先決にされるべき問題が何も片づいていないからだ。核についての議論はやってもかまわないものであり、議論をするべきではないとは言えないが、それよりも前にやらなければならないことがたくさんある。核についての議論は、それらがきちんとできたあとの話だ。しかるべき段どりをていねいにふむことがいる。帝国主義の加速度によって性急にものごとを進めて行くのにはまったをかけないとならない。そう見なしてみたい。

 参照文献 『「説明責任」とは何か メディア戦略の視点から考える』井之上喬(たかし) 『入門 パブリック・リレーションズ』井之上喬 『議論のレッスン』福澤一吉(かずよし) 『論より詭弁 反論理的思考のすすめ』香西秀信