大学は軍事の研究をやるべきなのか―軍事の研究をやらないのはよくないことなのか

 軍事の研究をやらない大学には、お金を与えない。大学に学問の研究の資金を与えない。大学にたいして、日本の政府はそう言っている。

 日本の政府が言っているように、大学は軍事の研究をやるべきなのだろうか。軍事の研究をこばまないようにするべきなのだろうか。

 軍事の研究をやるべきかどうかについては、それそのものが議論されるべきだろう。議論されるべきだと言うのは、西洋の哲学の弁証法(dialectic)を持ち出すことができるのをしめす。

 軍事の研究をするのであるよりも、大学は平和の研究をするほうがよい。そう見なしてみたい。世界を平和にするためには、軍事ではなくて、平和についての平和学などに力を入れて行く。大学は、平和学をやったほうがよい。

 弁証法によって見てみると、軍事の研究をやれと言っているのが日本の政府だから、その日本の政府の言うことは、正と反と合において、正に当たる。日本の政府の言うことつまり正を、そのまま合にするわけには行きづらい。

 政府の言っていることつまり正を、正つまり合としてしまうと、それそのものが戦争につながってしまう。政府が戦争をやれと言ったら、それに従わされてしまう。政府が戦争をやれと言ったら、それに従い、(政府が言っているものである)正つまり合だとはしないようにして行きたい。反である、反戦を言って行くことがいる。

 大学は、政府が言っていることである正にたいして、反であることがあるていど許されるべきだろう。正にたいして反であることがあるていど許されていないと、大学は自治(self-government)や自律性(autonomy)が無いことになる。大学は他律(heteronomy)であるだけになる。

 他律のあり方だと戦争をまねく。自律性があるのでないと、戦争をふせいで、平和を築くことがむずかしい。

 軍事の研究をやることで、その大学がよい大学になるのだとはいえそうにない。軍事の研究をやらないことが、その大学をよい大学にすることになる。そう見なしてみたい。軍事の研究をやることは、大学が大きな力に屈していることをしめす。適した価値の判断力をその大学が持っていないことを示している。倫理性においてその大学がまずさをもつことを示すことになる。

 どういった正の順機能(function)と、負の逆機能(dysfunction)があるのかを見て行きたい。負の逆機能としては、大学が軍事の研究に手を染めることにより、日本に戦争を呼びこむことにつながる。日本の政府の言いなりに大学がなるから、その他律のあり方が、戦争につながるあり方になる。

 負の逆機能としては、戦争が準備されてしまうところがあるのが、軍事の研究にはある。日本の国の中が一元化されてしまい、多元性が失われる。多元性が失われて一元性になることで、戦争がやりやすくなる。

 権力をもっているのが日本の政府だが、その権力と知つまり大学とが結びつき、ゆ着する。権力と知がたがいに共犯の関係になる。大学が軍事の研究をやるのは、権力と知の共犯の関係がつくられることを示す。

 知である大学が何をやるべきなのかと言えば、日本の政府が言っていることにすなおに従うことだとはいえそうにない。日本の政府の言っていることを丸ごとうのみにしないようにしてうたがって行く。政府つまり正にたいして、正つまり合とはせず、(正にたいする)反の立ち場に立とうとする。政府つまり正に従い、正つまり合とするのだと、権力と知とのゆ着がおきて、戦争がうながされて行く。

 いかに政府つまり正と距離をとり、反の立ち場に立つことができるのかが試されていると言える。日本では、政府つまり正と距離をとらずに、正と一体化することが多い。反の立ち場に立つと排除されてしまう。政府つまり正は、明らさまに、反の立ち場に立つのなら排除するぞとしている。政府のあり方そのものが、戦争を呼びこむものになっているのがある。

 政府との協調や、政府との一体化は、戦争をうながすのがあるから、政府の正にたいして、大学は反の立ち場に立つことがあったらよい。政府とおなじ正の立ち場に立ってしまうと、そこには対立がないから政治はない。大学がやるべきなのは、軍事の研究ではなくて、政治をやるべきだろう。大学は政治をやるべきであり、政治つまり対立するようにして、日本の政府と(全面的に)協調しないようにしたほうがよい。軍事の研究をするのではなくて、政治(つまり対立)をやってこそ、その大学の価値がある。

 参照文献 『平和を創る発想術 紛争から和解へ(岩波ブックレット)』ヨハン・ガルトゥング 京都 YWCA ほーぽのぽの会訳 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『政治の見方』岩崎正洋 西岡晋(すすむ) 山本達也