憲法の改正と、いろいろな民主化の必要性―いろいろなところのたえざる民主化や再行がいる

 憲法を改正するべきなのだろうか。

 かりに、国民投票をやって憲法を改正するのにしても、よい結果が出るとはかぎらない。

 いまの日本の憲法がつくられたいきさつを見てみると、民主主義が関わっていそうだ。

 戦前の日本は民主主義によっていなかった。民主主義によっていなかったのが日本だったので、戦後になって民主化されたのが日本だ。おもにアメリカが上に立ち、アメリカによって日本が民主化されたのがある。

 いまの日本の憲法がつくられる前の、戦前の日本は、民主主義によっていなかったので、大きな失敗がおきた。民主主義によっていなかったことから、戦前の日本は戦争に向かってつっ走って行き、国がほろぶところまで行った。戦争に負けることによって、やっと国の暴走がいちおうは止まった。

 民主主義は再行主義(redoism)であるとされるのがある。それからすると、戦前の日本は非民主主義であり、非再行主義だったために、国が戦争に向かってつっ走って行き、大きな失敗がおきたのがわかる。

 かつての戦前の日本の大きな失敗から教訓を得られるとすると、その一つには、非再行主義(非民主主義)の危なさがあげられる。国が非再行主義になっていると、国がまちがった方向に向かって進んで行きやすい。

 憲法の改正では、それを民主主義としてやって行く、つまり再行主義としてやって行くことがいるものだろう。そうして行かないと、非民主主義のあり方になってしまい、原理主義のあり方になってしまう。

 再行主義によるようにするのであれば、既成事実に重みを置きすぎないようにして、いろいろなところの人工の構築性を見て行きたい。自明なものとはしないようにして行く。たとえば、自衛隊を当たり前のものとするのではなくて、また自衛隊を海外に派兵することも当たり前とするのではないようにしたい。

 日本の国の中では、既成事実に重みを置きすぎないようにしたさいに、選挙のあり方を見直せる。日本の選挙のあり方は、民意を十分にすくい取るようにはできていない。選挙のあり方を見直すようにして、たとえば、世襲の議員がもっと少なくなるようにするべきだろう。

 戦前にはできていなかったものである、民主主義つまり再行主義で見てみると、憲法そのものであるよりは(憲法それそのものだけではなくて)、それをとり巻くまわりの文脈(context)の見直しがいることがあげられる。自衛隊のあり方や、選挙のあり方などを見直して、再行する(redo する)ことがいる。

 日本の国の外に目を向けると、これまでのように、日本はアメリカに従属して行けばよいとはいえなくなっている。アメリカに従属するあり方を見直して、アメリカと距離をとることがいる。アメリカとの関係を見直して再行することがいる。

 世界においては、アメリカだけではなくて、いろいろなことが再行されることがいるものだろう。日本の国の中で、憲法を改正する(つまり憲法を再行する)ようにするよりも、憲法をとり巻く文脈のほうを再行することがいる。まわりの文脈を再行するようにして、民主主義のあり方にして行く。

 たとえばロシアや中国なんかは、民主主義ではなくて独裁主義になっている。アメリカなんかも、そこまでしっかりと(理想といえるほどには)民主主義ができているとは言いがたい面がある。日本はかなり民主主義ができていない。日本の内や外を、民主主義によるようにして行くことが、民主主義をよしとしているいまの日本の憲法を生かすことにつながる。

 憲法の改正よりは、それをとり巻く文脈のほうをどんどん再行して行き、民主化して行く。民主化では、情報においては情報の民主化をして行く。ロシアや中国では国が情報の統制をやっているし、日本でも(ロシアや中国ほどではないとしても)それをやっている。情報の点でも、日本の国の内や外でそうとうな再行がいるものだろう。

 参照文献 『原理主義と民主主義』根岸毅(たけし) 『情報政治学講義』高瀬淳一 『世襲議員 構造と問題点』稲井田茂 『構築主義とは何か』上野千鶴子