野党は批判ばかりしているのと、与党の政権のたよりなさ、もしくは政権の無さ―政権の不在

 野党は批判ばかりしている。だから野党はだめなのだと言われるのがある。そのなかで、野党の立憲民主党は批判ばかりのあり方を変えて、政策を提案して行くような提案型の野党で行こうとしている。提案型の野党で行くのは、必ずしもうまく行っていなくて不発になっていると報じられているのがある。そのことについてをどのように見なせるだろうか。

 野党は批判ばかりしているからだめだと言われるいっぽうで、かたや与党はどうなのだろうか。与党である自由民主党の政権はちゃんとしているのだろうか。

 野党はだめだけど与党はまだましだと言われるのがあるが、そのことをきびしく見てみたい。きびしく見てみると、野党よりは与党はまだましだと言えるよりは、与党による政権はだめだと言えるのがあり、さらによりつっこんでいうと、日本にはそもそも政権と言えるものが無い。

 政権へ向けて批判を行なうのが野党だけど、その批判を行なう先である政権が日本の国にはそもそもあるとは言えそうにない。きびしく見てみるとそう言えるのがある。政権と呼べるようなものが、厳密に言うと日本には無い。政権は、(大きな)穴としてあると言ってよい。その穴に、フタのおおい(cover)がしてあるのだ。

 無責任の体系になっているのが日本の国の政治であり、無政府主義(anarchism)のようになっているところがある。説明の責任(accountability)をしっかりと引きうける政権がない。一つの原理にもとづくのがいるのが、原理がなくなってしまっている。

 無政府のあり方である anarchy の語は、archy が原理やもと(元、素)をあらわす。a(an)は否定をあらわす。archy が否定されることで、archy が一つも無いことになり、無政府を意味する。

 無政府でありながらも、原理はあると言えばあり、それは経済においては新自由主義(neoliberalism)による市場の原理主義だ。もう一つには、憲法の改正を目ざす憲法の改正の原理主義がある。与党の自民党はこれらによっている。

 政府や政権と呼べるものがない中で、原理主義によっているのが、日本の国の政治だと言えそうだ。きびしく見てみればそう言うことが言える。原理は無いが、原理主義ではある。

 いまの日本の国の政治は与党である自民党の一強になってしまっているから、一つのもと(archy)だけになってしまっている。一つのもとだけになっているのは君主制(monarchism)や独裁主義や専制主義だ。君主制の monarchism は、もとである archy がたった一つ(mono)しかないものだ。もとがたった一つしかないことから、抑制と均衡(checks and balances)がはたらかない。

 日本の国の中には、政府や政権と呼べるものがないが、そのなかで、国の外のアメリカがもと(archy)になっている。アメリカを上にいただいていて、その下に従属してあるのが日本の国である。

 アメリカがもと(archy)になっているのが日本の国であり、アメリカへの批判が行なわれない。アメリカに従属するだけになっている。日本の国の中にはもと(archy)がないから、アメリカを批判しようにもそのしようがなく、ただアメリカにくっついて行くだけしかできない。情けないあり方になっている。

 日本の国にとってはもと(archy)になっているのがアメリカだが、アメリカの国の中は制度としてはいくつかのもと(archy)に分散されている。制度としてはアメリカは抑制と均衡があるていど働いている。そこが日本の国とのちがいだろう。日本は制度として抑制と均衡がはたらいていない。そのために一強のあり方になっている。

 民主主義であるのとともに共和主義(republicanism)によっているのがアメリカであり、共和主義では一つのもと(archy)による君主制のあり方が否定される。一つのもとによるあり方をよしとするのではないことから、もとをいくつかに分けて、権力が分散されるあり方がとられている。

 アメリカにはいちおう政府や政権と呼べるものがあるけど、日本にはそれが無い。日本のあり方は、日本の国を飛びこして、アメリカをもと(archy)としている。日本の国を飛びこして、アメリカをもととするあり方を改めるようにして、外交では、アメリカとはちがうほかのもと(たとえば中国など)とも日本は協調してやって行くことがあってもよいものだろう。アメリカだけをもととするのではなくて、ほかに色々なもとを持ち、もとを分散化させたほうが、危険性が少ない。危険性の分散(risk hedge)だ。

 日本の国の中では、与党の自民党による一強のあり方によるのではなくて、もとをいくつも持ったほうがよい。もとが一つだけしかないのではなくて、いくつもあったほうが、多元のあり方になる。多元(poly)にもと(archy)があるのが多元の支配(polyarchy)だ。いくつものもとによっていたほうが、全体がまちがった方向につっ走って行くのを防ぎやすい。制度としてはアメリカの国の中はそういったあり方になっているのがあるから、日本の国はそのあり方をアメリカから学んだほうがよい。

 参照文献 『日本を追い込む五つの罠』カレル・ヴァン・ウォルフレン 井上実(みのり)訳 『「野党」論 何のためにあるのか』吉田徹 『原理主義と民主主義』根岸毅(たけし) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『「説明責任」とは何か メディア戦略の視点から考える』井之上喬(たかし) 『国体論 菊と星条旗白井聡(さとし)