自殺者を生まないためには、経済を回すだけでよいのか―経済を回すだけで救われるのか

 ウイルスの感染が広がっているなかで、自殺者が増えてしまう。自殺者が増えるのを防ぐために、経済を回して行かないとならない。経済を止めないようにしなければならない。そう言われているのがあるが、それはふさわしいことなのだろうか。

 たしかに、自殺者が多くならないために、経済を回して行くのはいることではあるだろうが、それとは別に、民主主義がきちんとできていないことが悪くひびいている。そう見なしてみたい。

 自殺者を多く生みかねないもととして、民主主義ができていなくて、それが壊されてしまっているのがある。民主主義では、すべての個人の基本の人権が無条件で守られていないとならない。とりあえず、どのような個人であったとしても、最低限において生きていられることになる。民主主義における最低限の条件の一つだ。

 いまの日本の国を見てみると、民主主義が壊されてしまっていて、原理主義になっているのがある。そこから自殺者を多く生みかねなくなっている。たとえ経済を回すのだとしても、それによって民主主義が建て直されることにはなりづらい。

 経済の新自由主義(neoliberalism)による市場の原理主義では、めぐまれた階層(class)とめぐまれない階層に分かれて、格差がおきることになる。格差がわざわいして、自殺者を多く生みかねないことになる。市場の原理主義によって、経済を回すのだと、格差が改まることはのぞめない。

 新自由主義による市場の原理主義によりすぎるのを改めるようにして、民主主義による贈与の原理をもっと充実させて行く。市場の原理主義によるのではない、贈与の原理を十分に充実させることがないと、めぐまれない階層が十分にすくい上げられず、すくわれなくなる。

 贈与の原理は、同等性によるものであり、個人であればみんな同じだとするのにもとづく。個人の尊重だ。民主主義における平等の理想である。理想論とはちがって現実論としては、市場の原理主義がとられているから、不平等になってしまっているのがある。贈与の原理が弱いから、不平等があまり改まっていない。

 理想論を現実化することができづらいのがある。たんに理想論を言っていればそれでよいとは言えないのもある。理想論と現実論とのあいだのおり合いをつけることがいる。現実論としては、国の財政が借金だらけでゆとりがないことがひびいている。日本の国の財政はそうとうにきびしいのが現実だろう。

 経済を止めないようにして、それを回して行くのは、これまでの秩序を保ちつづけようとすることであり、これまでの秩序が生んでいる差別をそのまま放ったらかしにしつづけることになる。これまでの秩序が生んでいる差別を、抜本として改めようとすることにはつながりづらい。

 自殺する人が多く出るのであれば、そこには日本の国がかかえる病理が映し出されることになる。たとえ自殺する人が多くおきないのだとしても、日本の国がかかえている病理がないことになるのではなくて、それが表面には出てこないで潜在化しているだけだ。潜在化している日本の国の病理を、おもてに出すようにしてあぶり出さなければならない。国の病理を見えるかたちにして行く。

 民間の自動車会社のトヨタ自動車で行なわれているように、問題にたいして、なぜの問いかけを何回もくり返して行く。問題が見つからないのであれば、それでよしとするのではなくて、問題が見つかるまでしつように目を光らせつづけて行く。

 たんに、自殺者を多く生まないようにするために、経済を回して行くのだけでは、十分なことだとは言えそうにない。トヨタ自動車で行なわれているような、しっかりと問題を深く掘り下げていったり、問題をしつように見つけていったりすることがないとならない。

 科学のゆとりをもつようにして、日本の国がかかえている病理を見るようにして行きたい。国の病理としては、民主主義が壊されていて、原理主義になっているのがある。新自由主義の市場の原理主義が強まっている。自己責任論がとられて、個人が悪いことにされてしまう。憲法の改正の原理主義がおきていて、民主主義とともに立憲主義が壊されてしまっている。

 社会に包摂されている人よりも、社会の排除をこうむっている人のほうが、自殺をしやすい。そう言えるのがあり、社会の排除(social exclusion)についてをとり上げることがいる。社会の排除をこうむるから、自殺をしてしまうことになる。そういったことが少なくないものだろう。

 社会の排除や、生きるのに欠かせない衣食住の財を個人からはく奪してしまっていることを、とり落とさないようにしたい。基本の必要(basic needs)が満たされないで、はく奪されてしまう。排除やはく奪があるのをとり落としていると、自殺者を多く生まないようにするきちんとした手だてをとりづらい。たとえ経済を回しつづけるのだとしても、排除やはく奪はいぜんとしておきつづけているのがあるから、やるべきことが十分にやられないままになってしまう。

 排除やはく奪があるのがおおい(cover)によって隠ぺいされていて、それらの穴が空いているのが見えづらくなっているが、おおいをとり外してみると、穴ぼこだらけになっていることが危ぶまれる。たとえ経済を回しつづけたとしても、穴の上にかぶされているおおいをとり外すことにはならず、おおいをかぶせつづけることにしかなりづらい。穴つまり排除やはく奪があることや、格差があることが、見えづらくされたままになる。

 参照文献 『原理主義と民主主義』根岸毅(たけし) 『逆説の法則』西成活裕(にしなりかつひろ) 『社会的排除 参加の欠如・不確かな帰属』岩田正美 『事例でみる 生活困窮者』一般社団法人社会的包摂サポートセンター編 『理性と権力 生産主義的理性批判の試み』今村仁司トヨタ式「スピード問題解決」』若松義人 『社会階層 豊かさの中の不平等』原純輔(じゅんすけ) 盛山(せいやま)和夫 『十八歳からの格差論 日本に本当に必要なもの』井手英策(えいさく) 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ)