日本の国の中では日本語を使い、よその国の中ではその国の言葉を使うべきなのだろうか

 日本の国のことが嫌いであるのなら日本語を使うな。日本の国の中にいるのなら日本語を使うべきで、アメリカの国の中にいるのなら英語を使うべきで、中国の国の中にいるのなら中国語を使うべきだ。ツイッターのツイートではそう言われていたのを見かけた。これははたしてふさわしいことなのだろうか。

 日本の国の中にいるのだとしても、日本の国の学校の教育では外国語として英語が教えられている。そのほかにもさまざまな学校においてさまざまな外国語が教えられているのがあり、それはよいことである。日本の国とはちがう文化や言語に触れることは益になることだろう。それが害になることだとは言えそうにない。

 これまでの日本の国をふり返られるとすると、むかしからいついかなるさいにも日本語が中心としてもっとも重んじられていたとは言い切れそうにはない。日本よりもすぐれた文明国が外にあるとされていたのがあり、かつてはそれは中国であり、いまではアメリカだ。いまでも中国は文明国といえばそういえるのはあるが、政治では独裁主義になっていて立憲主義(憲法主義)や自由主義(liberalism)ができていない。

 中国が文明国だとされていたときには日本の中の政治の支配者が人々を支配する言葉として漢語を用いていたとされる。いまではそれにくわえて英語がある。日本の政治で官僚や政治家が人々にわかりづらい(漢語ふうの)むずかしい言葉を使いがちなのはここから来ている。政治は公共(public)によるもので広く誰でも参加するべきことなのだから、人々にわかりやすい易しい言い方で政治のものごとが語られるべきだがじっさいにはそうはなっていない。そうしたことがしばしばあり、そのことが害になっていて、人々が政治に関心をもつことや国民主権のさまたげになっている。

 日本語と外国語とのあいだの分類線はきっちりと引かれているものであるよりは揺らいでいる。そう見なせるのがある。関係主義によって見てみられるとすると、日本語と外国語とはたがいに関係し合うものであり、その関係がまず第一次のものとしてある。

 日本語には三つの層があるとされ、和語と漢語とカタカナ語(外来語)だ。そのことについて作家の浅田次郎氏は、日本語には和文脈と漢文脈と洋文脈があると言っている。そのうちで漢語はもともと外国である中国から来ているものだし、カタカナ語もまた外国から来ているものだ。それらがあることによって日本語はなりたっているのだとすると、その三つのどれもが大切なものだ。

 外にあるものとの関わり合いがあることによって日本語はなりたっている。そう言えるのだとすると、完全に純粋な日本語が実体として確固としてあるとするよりは、外と関係し合う中の一つの現象としてあることになる。内と外とが断絶しているのではなくてそれらが互いに相互流通し合う。内の中に外があり、外の中に内がある。

 たとえ日本人であったり日本の国のことが好きだと公言していたり日本の国の中にいたりするのだとしても日本語をきちんと使えていない。その代表の例としてあげられるのが与党である自由民主党の政権の中心をになう政治家なのではないだろうか。政権の中心にいればいるほど日本語をきちんと使えていない。言っていることに矛盾がたくさんある。言葉の使い方がずさんだ。修辞(rhetoric)にたよりすぎている。

 日本の国のことが嫌いだと見なされてしまうのが議会の内や外の反対勢力(opposition)だ。政権の中心をになう政治家と反対勢力とを対比して見られるとすると、日本語の点にかんしていえば反対勢力のほうが能力は高いだろう。政権のほうが日本語をきちんとあつかう能力が低い。

 形式論と実質論に分けて見られるとすると、政権の中心をになう政治家はいっけんすると形としては日本語らしきものを使っているかもしれないが、きちんとしたまともな日本語を使っているのだとは言いがたい。きびしく見なすことができるとすればそういうことが言えるだろう。

 創造性の点で見てみられるとすると、政権の中心をになう政治家には創造性が欠けているのが目だつ。もっと創造性を高めることがないと政治がきちんとしたものになりづらい。そのためにはきちんとした日本語が使えるようになることがいる。政権にはそれを求めたい。

 自由民主主義(liberal democracy)においてなくてはならないものである説明責任(accountability)が果たされていないのがあり、政権による説明の量と質はともに不十分だ。与党と野党がお互いにかみ合った議論ができていなくて、その主となる原因は与党の答弁のまずさにある。そのことが象徴としてあらわれているのが安倍晋三前首相の桜を見る会のことだ。その悪いあり方が改められることがなく引きつがれている。そこを大きく改めて行き、政治の創造性を少しでも高めてほしいものである。

 参照文献 『日本語の二一世紀のために』丸谷才一 山崎正和 『ポケット図解 構造主義がよ~くわかる本 人間と社会を縛る構造を解き明かす』高田明典(あきのり) 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『「説明責任」とは何か メディア戦略の視点から考える』井之上喬(たかし) 『創造力をみがくヒント』伊藤進 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『「野党」論 何のためにあるのか』吉田徹 『日本史の考え方 河合塾イシカワの東大合格講座!』石川晶康(あきやす) 『待つ女 浅田次郎読本』浅田次郎