東京五輪の組織委員会の委員長による失言と、日本の国の政治において欠けている討議の倫理

 議論の参加者の中に女性が多くいると議論の時間が長びく。森喜朗氏はそうしたことを言った。この失言についてを、性別の点だけではなくてそのほかの点から見たらどのように見なすことができるだろうか。性別の点と合わせて、そのほかの点として討議の倫理(diskurs ethik)をあげられる。

 討議の倫理は哲学者のユルゲン・ハーバーマス氏による。日本の政治では討議の倫理がいちじるしく欠けていることが多い。それがあらわれ出ているのが、東京五輪組織委員会の委員長をつとめる森氏による失言だろう。

 日本の政治の中で行なわれている議論では、討議の倫理が欠けていることが目だち、退廃がおきている。権力をになう政治家が説明責任(accountability)を果たさないことが少なくなく、競争性と包摂性による自由民主主義(liberal democracy)が壊されている。

 社会の中にあるいろいろな声をすくい上げるのでないと、自由民主主義における包摂性がなくなり、排除が進む。議論の参加者の中で男性だけがよしとされるようなことになってしまう。それは排斥のあり方だろう。

 あからさまな排斥によるのではなくて、しぶしぶ参加をゆるすのだと、包括によるのにとどまり、多元性によるのだとはいえそうにない。かたちだけ参加をゆるすのだと、消極のあり方にとどまっていて、参加をゆるしてやっているといったことになりかねない。それだと包括にとどまっているから、もっと積極のものである多元性を目ざしたい。

 多元性によって積極にいろいろな者どうしがやり取りをし合うのでないと、自由主義における抑制と均衡(checks and balances)がはたらきづらい。抑制と均衡がはたらかないと集団がまちがった方向に向かってつっ走っていってしまいやすい。それが見られたのが戦前や戦時中の日本の国だ。

 日本の政治で権力をになう政治家が行なう説明は、えてして質と量がともにおそまつなことが多い。それは一〇〇パーセント政治家だけの責任とは言い切れないが、政治家の説明の質と量がおそまつなことが多いのは、討議の倫理が欠けていることが大きい。倫理性が失われているのがある。

 政治家が行なう質疑応答では、聞かれたこととはちがうことを答えるすれちがい答弁がしばしば行なわれている。すれちがい答弁が平気で許されてしまうと議論がなりたたなくなる。議論を行なう意味がなくなってしまうから、できるだけかみ合う答弁が行なわれるようにして、権力をになう政治家が倫理性をもつようにするべきである。

 議論がなりたっていないのや、議論の水準がきわめて低いことが日本の政治では目につく。公共のことがらである政治においては理想論としてはほんらいはもっと議論の水準が高くなければならないけど、現実論としてはうそやきべんや強弁がまかり通ってしまっている。議論の水準を少しでも高めて行こうといった目的意識や問題意識が見られない。

 経済が右肩上がりや上り調子ではなくて、日本の国の財政はきわめてきびしい。国の財政は赤字だらけで首が回らない。高齢者の方の数が増えて行き、子どもの数は減って行く。少子化が改まる見こみはうすい。その中で日本の政治において求められるのは言葉による政治だろう。そのいちばん必要となる言葉による政治の力が、日本の権力をになう政治家にはいちばん欠けている。森氏の失言からはそれを見てとることもできる。

 民主主義においては多数派による専制がおきる危なさがあるから、それがおきないようにするために、異性や少数派や弱者を承認して行く。異性や少数派や弱者に配分をして行く。議論をするさいには、異性や少数者や弱者に承認と配分をして行き、しぶしぶながら参加をゆるすといった消極によるのではなくて、より積極にお互いのやり取りを行ないそれが活発になるようにうながす。

 はじめから議論の中に異性や少数派や弱者の参加をゆるさない排斥でもなく、そうかといってしぶしぶながらお目こぼしのようなかたちで参加を認める包括でもなくて、積極に多元性があるようにして行きたい。日本の政治において欠けてしまっている討議の倫理を少しでももつようにして行き、多元性によるようにして行きたいものである。それで日本の社会において進んでしまっているように見うけられる排除を少しでも食い止めるようにして、異性や少数派や弱者が社会の中で排除されないようにしたい。

 多元性が失われたままだと、抑制と均衡がはたらかないから、戦前や戦時中の日本の国のようにまちがった方向に向かってつっ走っていってしまうおそれが高い。理想論としては多元性によるようにして抑制と均衡をはたらかせたいのがあるが、現実論としては一強や(三権分立ではなくて)一権になってしまっているのがあるから、かつての日本の国がしでかした大きなあやまちがふたたびくり返される見こみは小さくはないだろう。

 参照文献 『二一世紀の倫理』笠松幸一、和田和行編著 『十三歳からのテロ問題―リアルな「正義論」の話』加藤朗(あきら) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『議論のレッスン』福澤一吉(かずよし) 『宗教多元主義を学ぶ人のために』間瀬啓允(ひろまさ)編 『武器としての〈言葉政治〉 不利益分配時代の政治手法』高瀬淳一 『言葉が足りないとサルになる 現代ニッポンと言語力』岡田憲治(けんじ) 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ)