ロシアとウクライナの戦争と、国のために戦う国民に感動すること―国のために命を捨ててでも戦うべきなのか

 自分の国のために、命をおしまずに戦う。そのことに感動した。与党である自由民主党の政治家はそう言っていた。

 ウクライナの国民が、自分の命をおしまずに、ロシアと戦う。そのことは、感動をもたらすものなのだろうか。自民党の政治家が言っているように、自国のために国民が戦うことは、感動することができることなのだろうか。

 戦争がおきている中で、ウクライナで自国のために戦っている国民や、ウクライナの大統領が日本の国会で演説したことを、どう受けとるのがふさわしいのかがある。自民党の政治家のように、自国のために戦っていることに感動するのがふさわしい受けとり方なのだとは言えそうにない。

 どういうふうに見なすのがよいのかでは、いろいろに見なすことができる中で、日本の憲法で言われていることにそった形でとらえるようにして行きたい。そうしないと、自民党の政治家のようにおかしなとらえ方をしてしまう。

 どういうふうに見なしたらよいのかわからずに迷ったときには、日本の憲法でいわれている価値をもとにするとわかりやすい。日本の憲法でいわれている価値は特殊なものであるよりは普遍性があるので、自民党の政治家のようなおかしな見かたにおちいるのをやや防ぎやすい。

 国にもとづくようにするべきか、それとも憲法にもとづくようにするべきなのか。そのどちらがよいのかでは、国ではなくて、憲法にもとづくようにしたい。国はあるとは言えないけど、憲法(憲法のテクスト)はあるとは言える。国があるとは言えないのは、国は共同幻想であり想像の共同体にすぎないからだ。

 憲法では、近代の立憲主義のものがよい。憲法であるのなら何でもよいわけではないから、そこには気をつけたい。国はあるとは言えないけど、憲法はあると言えるのだとして、その憲法は近代の立憲主義のものであることがいるのである。

 国にもとづくものである国家主義(nationalism)からすると、自国のために自分の命をおしまずに戦うことがよしとされる。いかに国のために役に立つことができるのかで評価づけがなされる。国のために役に立てば評価されて、役に立たなければ評価されない。

 国のためにどれだけ役に立つことができるのかで評価づけをしてしまうと、戦争がおきることをうながしてしまう。国家主義が強まると戦争を呼びおこすところがあり、そのしょうこに、ロシアでは国家主義が強い。戦争をやるような国では、どこでもみな国家主義が強いあり方になっている。

 戦争をしないようにするためには、国家主義を強めるのではなくて、それを弱めることがいる。自民党の政治家が言っていることは、国家主義を強めることになるものだから、戦争を呼びおこすことになる。戦争をやるのがよいことだといったことになり、戦争を否定することになっていず、肯定してしまっている。

 日本の沖縄県で言われているように、ぬちどぅ宝といったことが大事だろう。ぬちどぅは命の意味で、個人の命は宝だとする。戦争をやらないようにするためには、個人の命を宝だとして行く。個人がそれそのものが目的なのだとする人格主義(personalism)のあり方だ。

 国家主義ではなくて、人格主義によるようにすることが、戦争をやらないようにするためにはいる。人格主義によりながら戦争を行なうことはむずかしい。たとえどこの国の人であろうとも、味方の国の人であろうとも敵の国の人であろうとも、個人の命の価値は等価だろう。味方の国の人の命の価値は高くて、敵の国の人の命の価値が低いわけではない。

 だれがだれの命を守ることがいるのかでは、国民が国を守るのは、あるべきあり方が逆転してしまっている。国民が国を守るのではなくて、その逆に、国が国民の命(および基本の人権)を守るべきだ。国民が国を守るのだと、あり方がおかしいのがあり、なにが守られるべきなのかがおかしくなっている。何が守られるべきなのかでは、国民が守られるべきであり、個人が守られるべきだろう。個人の命および基本の人権(fundamental human rights)を守れないのでは、国がある意味がない。

 国にではなくて、個人の命に価値を置くことがいる。民主主義の点からしても、個人の命を守れないようでは、失敗してしまっている。すべての個人の命を守り、そのうえで政治をやって行くのが民主主義だ。

 民主主義が、国家主義にずれて行き、国に価値が置かれるようになるのはまずい。国家主義に横すべりしてしまわないようにして、あくまでも個人の命に価値を置いて行く。個人の命が守られないと、民主主義は成り立たないから、個人をそれそのものを目的とするような人格主義によるようにしたい。国に価値が置かれて、国にとっての役立ちといったことで、国のための道具や手段に個人がなるようではないようにしたい。

 本質主義によるのだと、個人よりも国が先に立ってしまう。国が先に立つことになる。国民であることが自然なことだとされる。本質化される。実存主義によるのであれば、実存は本質に先だつので、国を先に立たせないようにすることがなりたつ。国民であるよりも実存であることが重みをもつ。

 国民であることを脱自然化して、本質化しないようにしたい。国民であることを自然なものだとはしないようにして行く。国民であることには、人為や人工の構築性がある。ロシアやウクライナの国民は、戦争がおきている中で、国民として安住しているのであるよりは、実存として苦しんだり(苦しめられたり)悩んだり(悩まされたり)している人が少なくなさそうだ。

 参照文献 『超訳 日本国憲法池上彰(いけがみあきら) 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『人はなぜ戦うのか 考古学からみた戦争』松木武彦 『ナショナリズム(思考のフロンティア)』姜尚中(かんさんじゅん) 『リヴァイアサン 近代国家の思想と歴史』長尾龍一構築主義とは何か』上野千鶴子編 『原理主義と民主主義』根岸毅(たけし)