日本は敵国を先制攻撃するべきなのか―国の自己保存

 日本の国にとっての敵となる国がある。敵となる国が日本に攻撃をしかけて来かねない。攻撃されそうなのであれば、日本の国がまえもって先制で敵の国をたたく。与党である自由民主党の総裁選の候補者の一人はそうしたことを言っていた。

 総裁選の候補者がいうように、敵となる国にたいして日本は先制の攻撃を行ない、敵の国を先に叩いてしまったほうがよいのだろうか。

 日本の国の防衛においては、軍事による物理の力(hard power)に重みを置くことが言われがちだ。日本では物理の力に重みをおく武張ったことが言われやすい。自民党の総裁選ではそれが見うけられる。

 日本の国が先制の攻撃をするべきかどうかでは、そこにいろいろなまずさがある。国どうしの争いでは、それを文化の力(soft power)の点から見てみると、先に手を出したほうが負けであるところがある。じっさいに物理の力によって手を出してしまったら、手を出した時点で手を出した方に非があるものだろう。文化の力をとり落とすことはできないから、物理の力だけに頼ればよいものではない。

 日本は国として武張ったものをよしとしがちだ。それでじっさいに手を出してしまい大きな失敗をおかしたのが戦争のときだ。歴史において日本の国が他の国から批判を受けているのは、過去に日本の国がじっさいに手を出したからだろう。歴史をしっかりと反省するのであれば、日本の国は文化の力に力を入れて行き、基本として国際協調主義によってやって行くべきだ。

 国際連合による国連憲章では、武力不行使原則が言われている。国は原則として武力を用いてはならないのである。原則論としてそれがあり、そこには例外論として例外が認められているのにとどまる。自国が他から攻撃されていることが客観に証明できるさいに、あくまでも自国を防衛するために必要でかつ最小限の武力を用いられるのに限られている。先制に攻撃してはならないことになっている。

 敵だと見なした国を先制に攻撃してしまうのは国際法に違反するものだろう。国際法に違反することは文化の力の点からするとよくないことである。非があることになる。きちんと国際法の決まりを守るようにして、それにのっとった形で国の政治をなして行くことを国の内や外にはっきりと示す。物理の力にやたらに頼りすぎるよりはそのほうが効果がありそうだ。

 世界の全体から見てみれば、あくまでも部分にすぎないのが一つの国だ。一つの国の内だけを見ていては十分ではない。たんに部分のまとまりにすぎないのが国なのだから、部分どうしの集まりである世界の全体に目を向けて行く。部分のまとまりをいかに絶対化しないようにできるのかが求められている。

 それぞれの部分がそれぞれを絶対化してしまっていることから、世界の平和がなりたたなくなっているのである。それぞれの部分はそれぞれを絶対化しがちなのがあり、それがたびたび国どうしの争いを引きおこしてきた。

 日本の国の安全がどうかは大事なことではあるが、そのさいに日本の国はあくまでも世界の全体からするとたんなる部分にすぎないことに注意を向けたい。部分だけを見るのではなくて世界の全体を見るようにして、世界の平和を重んじて行く。世界の平和をなすためには、核兵器をなくしていったり国がもつ軍事力を小さくしていったりといったことがのぞましい。

 世界において国がもつ物理の力を小さくして行き、全体の文化の力を高めて行くことがいかにできるかに世界の平和はかかっているといえるだろう。それができないと、世界の全体が自然状態(natural state)つまり戦争状態のままになり、各国の各国に対する闘争(the war of all against all)がやまない。世界政府や世界の中央政府はないのだから、世界の全体は自然状態であり、社会状態(civil state)にはいまだになっていない。

 それぞれの国がもつ自己保存をいかに暴走させないように抑えられるかが大切だ。共同幻想にすぎないのが国であり、グローバル化しているいまは、国の中のあちらこちらにたくさんの穴が空いていて、国の幻想性や虚構性が浮きぼりになっているところが一つにはある。

 参照文献 『「集団的自衛権」批判』松竹伸幸現代思想を読む事典』今村仁司編 『リヴァイアサン 近代国家の思想と歴史』長尾龍一 『グローバリゼーションとは何か 液状化する世界を読み解く』伊豫谷登士翁(いよたにとしお) 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ)