国が悪いことをやったら、その国の国民が悪いことになるのか―国民であることと、(共同体主義としての)負荷を負うこと

 ロシアがやっている戦争を、歴史にからめて見てみるとどう言えるだろうか。

 歴史にからめて見てみると、ロシアがいまやっている戦争は、歴史に刻まれるような国(ロシア)の悪行と言えるかもしれない。

 ロシアの国と国民(ロシア人)とを分けて見てみると、国がやった悪行と、国民とを分けて見てみられる。

 国がやった悪行に、国民はどう関わっているのだろうか。歴史においてはそれが問われるのがある。

 時間の流れで見ると、かつての国民と、いまの国民と、未来の国民がいる。かつての国がやった悪行に、かつての国民が関わっている度合いは濃い。かつての国の行ないに、いまの国民が関わっている度合いはどれくらいかがあり、また未来の国民が関わっている度合いはどれくらいかがある。

 関わりの度合いの濃さとしては、未来の国民よりも、いまの国民のほうが、国の行ないへの関わりの度合いは濃いだろう。

 国がやったことへの関わりの度合いをうすめてしまうのは、歴史を忘却してしまうことになるから、関わりの度合いを濃くしつづけて行くことが、歴史を(忘却せずに)想起しつづけて行くことにつながる。

 かつてのことではなくて、いまの時点でロシアはウクライナに攻めこんで戦争をしているから、まだ生々しさがある。ロシアがやっている戦争に、ロシアの国民はどれくらい関わりがあるのかと言えば、主権者としては関わりがあるのだと言わざるをえない。

 国(ロシア)が殺人をやったとして、そのことが、国民(ロシア人)が殺人をやったことと等しくなるのかと言えば、そこまでは言えないかもしれないが、国民には主権者としての関係性がある。

 理想論としては、国民が主権をもち、主権者であることがいるから、それからすると、主権者として国がやった悪いことのあとしまつを引き受けるべきだろう。

 国(ロシア)が悪いことをやったから、国民(ロシア人)が悪いのだとはいえそうにない。国と国民とをふ分けせずに、同一視してしまうと、ロシア人である事実(is)をもってして悪いとしてしまうから、自然主義の誤びゅうになる。事実(is)から価値(ought)を導くのはまちがいである。

 ロシア人であるのは、ロシアの国民であり、主権者である(または理想論としては主権者であるべき)ことだ。ロシア人が悪いとはいえないが、主権者としてやるべきことがあるとは言えるのがあり、そのなすべきこととは、ロシアの国がやった悪いことを批判して、国がやった負の歴史を想起しつづけることだろう。国がやった悪いことの責任をとらせて行く。

 ロシアが戦争をやっていて、歴史に刻まれるような悪いことをやっていることからすると、もはや、ロシアの国民は、ウラジーミル・プーチン大統領を支持するかそれともしないかといった次元にあるのだとはいえそうにない。

 国の長や政権を支持するかしないかといった次元にあるのではないのがいまのロシアだろう。国がなした悪い行ないを、国に認めさせて、国になすべきこと(被害者への謝罪や補償など)をやらせて行く。主権者としては、ロシアの国民(またはほかの国の国民であっても)は、国の悪行をきびしく批判しないとならない段階に入っていると言える。

 参照文献 『歴史 / 修正主義 思考のフロンティア』高橋哲哉 『サンデルの政治哲学 〈正義〉とは何か』小林正弥(まさや) 『天才児のための論理思考入門』三浦俊彦