ロシアとウクライナの戦争と、大きな価値―自由、正義、平和

 ロシアとウクライナのあいだで戦争がおきている。

 戦争がおきていることについてを価値の点から見てみられるとするとどういったことが言えるだろうか。

 価値の点から戦争を見てみられるとすると、大きい価値を持ち出せる。大きい価値では、自由と正義と平和がある。

 自由と正義と平和は、その反対に当たるものは強制と不正と戦争だ。

 定義づけをするのが難しいのが自由や正義や平和だ。多義性やあいまいさをかかえもつ。反対のものからとらえられるのにとどまる。強制がないのが自由だ。不正がないのが正義だ。戦争ではないのが平和だ。

 経済学者のフリードリヒ・ハイエク氏は、大きな価値は、はっきりとは定義づけできないものだと言う。はっきりとさせようとするとかえって危ない。反対のものに転化する危なさをもつ。自由を絶対化すると強制になる。正義を絶対化すると不正になる。平和を絶対化すると戦争になる(平和のための戦争になる)。

 ロシアがいまどうなっているのかを価値の点から見てみたい。ロシアでは、国の権力者であるウラジーミル・プーチン大統領が、戦争を引きおこして、戦争を行なっている。ロシアの国が、国として自由に行動をしたことで、ロシアの国民が不自由におちいっている。戦争でロシアに攻められているウクライナの国民も不自由におちいっている。

 自由が失われていて、不自由になっていて、強制がおきているのが、ロシアやウクライナだ。とくにロシアは国が専制主義や独裁主義におちいっている。プーチン大統領は独裁者になっている。自由の価値が失われていることがわかる。

 いろいろな不正がおきているのがロシアの国だろう。プーチン大統領はいろいろな嘘をついているし、権力者による権力のらん用がおきている。正義が転化してしまい、不正義におちいっている。ロシアでは正義の価値が失われていることがわかる。

 いままさに戦争が行なわれているのがロシアやウクライナだから、平和の価値が失われている。平和は戦争がないことだから、戦争がおきているのであれば、平和の価値は損なわれている。

 平和のために戦争を行なうといったことになっているのがロシアだろう。ウクライナでもそうなっているところがあるかもしれない。平和の価値においては、とにかく戦争をおこさないようにして、戦争をしないようにすることがいる。戦争をしてしまったり、戦争がおきてしまったりすれば、平和の価値がなくなることになる。

 価値が反価値に転じてしまう。逆のものになってしまう。それがおきているのがいまのロシアだろう。ウクライナでもそれが部分的におきているところがある。自由が強制になる。正義が不正になる。平和が戦争になる。ロシアではそうしたことがおきている。

 さしあたっては強制がないようにして行く。さしあたっては不正がないようにして行く。さしあたっては戦争がおきないようにして行く。大きな価値によるようにするためには、反対の反価値に当たるものではないようにして行くのがおだやかだ。反価値である、強制や不正や戦争がおきてしまうと、大きな価値が損なわれてしまうから、けっきょくのところ色々なことが台なしになってしまうし、元も子もなくなってしまう。

 じかに自由や正義や平和を目ざすのよりは、その反対の反価値に当たる、強制や不正や戦争をなくして行く。強制や不正や戦争を減らして行く。いきなりゼロにはできないのにしても、できるかぎり強制や不正や戦争をゼロに近づけて行く。

 反価値である、強制や不正や戦争をやって行くのは、大きな価値である自由や正義や平和をなそうとすることになり、反価値つまり価値のようになる。そこに危なさがある。反価値が価値に通じてしまうのがあり、交通でいえば、反価値と価値とは行き来がさえぎられている反交通だとは言えそうにない。

 回転とびらのように、価値が反価値になり、反価値が価値になりといったことがおきる。回転とびらがくるくると回るように、価値がひっくり返って反価値になり、反価値がひっくり返って価値になる。ロシアではいまそれがおきていると言える。ウクライナでも部分的にそれがおきているところがあるかもしれない。じかに大きな価値である自由や正義や平和をとろうとすると、危なさがあることはたしかだ。平和でいえば、平和のための戦争といったようなことになる。

 参照文献 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信