ロシアとウクライナの戦争と、価値どうしのぶつかり合い―価値の多神教

 ロシアとウクライナのあいだで戦争がおきている。

 戦争に反対をする声が、ロシアの国の中では一部で言われている。国民が声をあげることで、それが罪に当たり、ロシアの警察につかまる人が出ているという。

 ロシアの国民が戦争に反対する声をあげることは、悪いことなのだろうか。声をあげる国民が、ロシアの警察につかまってしまうのはなぜなのだろうか。声をあげる自由が国民に無いのだとすれば、それはなぜなのだろうか。

 警察は、その国がもつ国家装置だ。警察や軍隊は、国家装置または国家の抑圧の装置だ。

 ともに国家装置なのが軍隊と警察であり、軍隊がやっていることのじゃまをさせないようにしているのが警察だ。軍隊がやっていることに、国民が反対の声をあげるのを、警察がつかまえる。そのさいの警察は、国家公安警察や政治警察だ。軍隊と警察は、共犯の関係にある。

 戦争に反対の声をあげるのではなくて、戦争をよしとする。戦争をよしとするのは、そういった意見を国民が持っているのであるよりは、意見を持っていない。戦争をよしとするのは、ロシアの国が行なっていることにただ従っているだけだから、国民が自分の意見を独自に持っているとは見なせそうにない。自分の意見が無いのである。

 自分の意見を持つことをさせないようにしているのがロシアの国だろう。国民が自分の意見を持つことを認めない。戦争に反対の声をあげるのは、自分の意見を持っていることだから、それと反対に当たることは、戦争をよしとすることであるよりは、なにも自分の意見を持たないことだ。ロシアの国では、国民が自分の意見を持たないことがよしとされている。ただ国がやることに従っていればよい。

 いろいろな意見がある中で、戦争をよしとしたり、戦争に反対したりすることが言われる。意見は異見(意見つまり異見)だと言えるので、戦争をよしとすることの反対説に当たるのが戦争に反対をすることだ。戦争に反対することの反対説に当たるのが戦争をよしとすることだ。

 戦争をよしとすることは、一つの価値であり、そのいっぽうで、戦争に反対するのもまた一つの価値だ。価値どうしがぶつかり合うことになる。

 ロシアの国は、戦争をよしとする価値をとっている。戦争に反対の声をあげるのは、ロシアの国にとっては反価値に当たる。反価値に当たることだから、よくないことであり、悪に当たる。警察によってつかまえられることになる。

 倫理の点から見てみると、一つの価値を絶対化できづらい。一つの価値だけが正しいものだとすることはできづらく、基礎づけできづらい。戦争をよしとする価値だけを絶対化することはなりたたず、戦争に反対することも価値になる。

 戦争に反対することが価値なのだとすることができるから、それからすれば、戦争をやることは反価値だ。戦争をやることは悪である。戦争をやることは悪いことなので、ロシアの国が戦争をやっているのであれば、それは悪いことだ。

 いまロシアの国によって行なわれていることが、戦争なのではないことをじかに証明することはできづらい。何々ではないことを、じかに証明することは、悪魔の証明になってしまうから、それを間接に証明してみたい。

 間接の証明では、かりにロシアがやっていることを戦争であるのだと仮定してみる。または武力の行使であると仮定してみる。それらの仮説をとってみると、ロシアが戦争をやっているから、ロシアの国民が戦争に反対する声をあげるのを禁止しているのだと言えそうだ。

 ロシアでは、国が戦争をやっているから、戦争に反対する声をあげるのを禁じることが必要になっている。戦争をやっているまさにそのさいちゅうであれば、ふつうは、戦争に反対する声をあげるのを禁じることになるものだろう。

 国が戦争をやっているか、または武力の行使をやっているさいには、これこれこういったことがおきることになる。いろいろにおきることになることがあり、それがロシアではまさにおきている。国民の言論や表現の自由の否定などがおきているから、それからすればロシアでは戦争がおきてはいないのだと言い切ることはできづらい。

 どういったことが事実なのかの点では、事実の認定として、ロシアで戦争がおきていないのだとは完ぺきには言い切れそうにない。少なくとも、武力の行使がロシアによって行なわれていることは事実だろう。

 戦争が行なわれていて、その戦争に反対の声をあげるのは、戦争を反価値とするような価値をもつことだ。

 戦争を反価値だとする価値をもつことは、個人の個性だけど、その個性を否定しているのがロシアの国だ。個人の個性を否定して、個人のことをきびしく監視している。

 個人の個性を認めたり、個人をきびしく監視しないようにしたりすると、戦争はできづらい。かりに、ひゃっぽゆずったとしても、ロシアでは個人の個性を否定していて、個人のことをきびしく監視していることは事実だろう。それらのことは事実だから、戦争をうながすあり方がとられていることがわかる。

 戦争をうながすあり方がロシアではとられているのだから、そこで戦争がおきてもおかしくはなく、不思議はない。戦争を防ごうとする努力がなされていなくて、怠慢があるのがロシアの国だろう。個人の個性を認めたり、個人を監視しないようにしたりする努力がなされていない。

 参照文献 『本当にわかる論理学』三浦俊彦憲法が変わっても戦争にならない?』高橋哲哉斎藤貴男編著 『人を動かす質問力』谷原誠 『倫理思想辞典』星野勉、三嶋輝夫、関根清三編 『知の技法』小林康夫 船曳建夫(ふなびきたけお) 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『警察はなぜあるのか 行政機関と私たち』原野翹(あきら)