国の軍は、何を守るものなのか―国民を守ることと、国体を守ることとのちがい

 いまロシアとウクライナが戦争をやっているのを、どのように見なせるだろうか。

 日本が置かれている東アジアでは、緊張がおきているのがある。中国と台湾の対立や、北朝鮮がミサイルを多くうっている。

 日本の国の安全のためには、日本の軍事を強めるべきなのだろうか。

 軍は、国民のことを守らない。それが見てとれるのが、ロシアとウクライナの戦争だろう。

 日本でいえば、日本の軍は、国民のことを守るためにあるものではない。軍は国体を守るためにある。国体は、天皇制を核とするものだ。

 国体さえ守ることができれば、国民のことなどどうだってよいのだとしているのが軍である。

 国の抑圧の装置なのが軍であり、抑圧としてはたらくものだ。それが見てとれるのがロシアとウクライナの戦争にはあり、どちらの国においても、国民を抑圧しているのが軍だろう。

 思想の傾向(ideology)の装置としては、ロシアはロシアをよしとすることを言うし、ウクライナウクライナをよしとすることを言う。ロシアはウクライナを敵と見なすし、ウクライナはロシアを敵だと見なす。

 おたがいに、べつべつの思想の傾向をもつのがロシアとウクライナであり、それぞれがべつべつの思想の傾向の装置をもつ。ロシアにおいては、ロシアを批判したりウクライナをよしとしたりする思想をもつことは許されない。ウクライナでは、ウクライナを批判したりロシアをよしとしたりする思想を持つのは許されていないだろう。

 いろいろな思想(thought、idea)をもつことができるのでないと、思想の自由がその国にあるとはいえそうにない。思想の自由があって、それを表現する自由がないと、いろいろに思ったり言ったりすることができなくなる。

 それぞれの国は、どうしても自国をよしとして中心化する思想の傾向をもつ。それはどこの国にもあることだ。自国を中心化するのが強すぎると、自由がなくなるのでよくない。自国をよしとする思想の傾向が強すぎると、思想の自由が損なわれるし、表現の自由もうばわれてしまう。

 自国をよしとする思想の傾向をやわらげて、自国を脱中心化して行く。いろいろな思想を自由にもてるようにして、いろいろな表現を自由に行なえるようにして行く。のぞましいあり方にするためには、自国を絶対化しないようにすることがいる。

 どちらの国の軍も、国民を守るのであるよりも、それはなおざりになっていて、国民を抑圧するのが主になっているのがロシアとウクライナだろう。どちらの国も、思想の傾向がかたよりすぎていて、自国を絶対化しているのがうかがえる。

 軍は国民を守るのではないから、他国とのあいだに戦争がおきてしまう。ロシアとウクライナの戦争についてを、そのように見なすことが一つにはできそうだ。軍は国民ではなくて国体を守るためのものだから、国民はたとえ死んでも、国体さえ守られればよい。国民を抑圧することによって、国体を守ろうとする。

 国を絶対化してしまうと、国がもつ思想の傾向が強くなりすぎてしまい、かたよりすぎてしまう。かたよりが強い国どうしで、戦争がおきてしまう。戦争を防ぐには、軍事を強めるようにするのではなくて、国を相対化していって、脱中心化するようにして行きたい。たとえ軍事を強めて強兵にしても、それは国民を抑圧することになるし、国民は守られずに国体だけが守られることになる。そこに気をつけるようにしたい。

 参照文献 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『国体論 菊と星条旗白井聡(さとし) 『十三歳からの日本外交 それって、関係あるの!?』孫崎享(まごさきうける) 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『相対化の時代』坂本義和超訳 日本国憲法池上彰(いけがみあきら)