ロシアとウクライナの戦争で、ウクライナは降伏をするべきか―戦いつづけるのは正しいことなのか

 ロシアとウクライナのあいだで戦争がおきている。

 ウクライナは、自国に攻めこんできたロシアと戦っている。

 ロシアと戦いつづけるのではなくて、降伏することもありだ。日本のテレビ番組では、出演者がそう言っていた。

 ウクライナは、ロシアと戦いつづけるべきなのか、それとも降伏もまたありなのだろうか。

 いろいろな見かたができるのがある中で、テレビ番組の出演者が言っているように、ウクライナは降伏することもさぐるべきだと見なしたい。

 ロシアが一方的にウクライナに攻めこんだのだから、ロシアが悪いのはたしかだ。悪いのはロシアではあるけど、事実と価値の方法二元論で見てみると、ロシアとウクライナが戦い合っているのは事実(is)に当たる。

 事実に当たるのがロシアとウクライナの戦争であり、価値(ought)とはまたちがう。価値はどうなのかといえば、ウクライナはロシアと戦いつづけるべきだとするものもあるだろう。それだけではなくて、ウクライナは降伏することもあったほうがよいとすることもできる。

 戦争がおきていることは事実だけど、その事実からはじかには価値は出てこない。価値はどのようなものがふさわしいのかは、事実とは切り分けて見てみられる。戦争を止めるために、ウクライナが降伏することも、価値としてとることができるものだろう。あくまでも価値の一つにすぎないものではあるだろうが、いちおうそう言うことがなりたつ。

 事実からそのまま価値を導いてしまうのは自然主義の誤びゅうだ。戦争がおきているのであれば、その事実から、戦争をするべきだとする価値を導いてしまう。戦争がおきているからといって、その事実からじかに価値を導くような形で、戦争をするべきだ(戦争をつづけるべきだ)とは言えそうにない。戦争を止めるようにしたほうが、よい価値だと言えるのはある。

 ロシアが戦争を止めようとしないから、戦争がつづいてしまっているのだとしても、その戦争がつづいてしまっている事実をもってして、そこから、戦争をつづけるべきだとする価値を導けるとは言い切れそうにない。たとえどういう形であったとしても、とりあえず戦争をできるだけすみやかに(火急に)止めるべきだとする価値をとることもまたできるだろう。

 権利と義務の二つを見てみられるとすると、ロシアは国際的な義務をやぶった。ロシアは武力でウクライナに侵略したから、義務に反したことをしたが、そこには罰則がない。罰則がある具体の義務ではなくて、努力の義務をやぶったのにとどまる。世界には、世界政府と言えるものがないから、国が悪いことをやったとしても、罰則をかすことができない。世界は、無政府状態(anarchism)になっている。世界は、自然状態つまり戦争状態だ。

 ウクライナは、個別の自衛権を使っている。個別の自衛権は国がもつ権利だ。権利は、それを使わなければならないものではない。使ってもよいし使わなくてもよいものである。ウクライナが降伏するのだとすれば、権利を使わないことになる。

 戦いつづけるべきか、それとも降伏するべきかでは、二律背反(tradeoff)におちいってしまうところがウクライナにはあるかもしれない。たとえ戦いつづけたとしても、ロシアにたいしてはっきりとした勝ち目がウクライナにあるとは言えそうにないし、戦いつづけることによって失うことは小さくない。

 降伏するのだとしても、それによって失うものがおきてしまう。降伏すれば、ロシアがウクライナを支配することになる見こみが高そうだ。ロシアに従属することになり、国として自立することができなくなる。あくまでも国として自立することに大きな価値をもたせるのであれば、降伏することによって失うことになりそうなものは大きくなることが予想される。

 西洋の哲学の弁証法(dialectic)では、正と反と合があるが、ロシアが正でウクライナが反であるとして、それらが対立し合っているのが戦争だ。ウクライナはロシアと戦いつづけるのだと、対立がつづくことになるから、そこに不毛さがある。できるだけはやくに正と反を合にもって行き止揚(aufheben)することがのぞましい。

 合にもっていって止揚するのがのぞましいからといって、そこに危なさがあることもたしかだ。合にもって行くことで、ロシアに有利になり、ウクライナに不利になることが予想される。それではウクライナにとってはまずいことになるといえるのがある。合にもっていって止揚しつつ、悪い形の合にならないようにもしないとならない。合にもっていって止揚しさえすればそれでよいとはならないところにむずかしさがある。

 参照文献 『論理的に考えること』山下正男 『天才児のための論理思考入門』三浦俊彦