ロシアとウクライナの戦争と、ロシアの国の代表者―ロシアの大統領はいったい何者なのか

 ロシアとウクライナで戦争がおきている。

 戦争について、ロシアの国の中においても、批判の声がおきている。ロシアのウラジーミル・プーチン大統領への批判の声がおきている。このことについてをどのように見なせるだろうか。

 そもそも、プーチン大統領は、いったい何を代表や代理していると言えるのだろうか。ロシアの国民や、ロシアの国を代表しているのがプーチン大統領だとされている。そこをあらためて見てみれば、ほんとうにプーチン大統領はロシアの国民を代表しているのかをうたがえる。

 国の政治家は、表象(representation)であり、直接の現前(presentation)ではない。国民そのものとは言えないのが国の政治家であり、国の長であるプーチン大統領にもそれが言える。

 戦争にたいする批判や、プーチン大統領への批判が、ロシアの中でおきている。そのことは、プーチン大統領があくまでも表象にすぎないことがあらわれ出ているものだろう。表象であるプーチン大統領と、ロシアの国民とのあいだにずれがある。おたがいにぴったりとは合っていない。

 ロシアは大きな国だが、そのロシアの全体を完全に代表しているとは言えないのがプーチン大統領だ。ロシアの国の全体を完ぺきに代表しているとは言えないから、そこにもれや抜かりがあることはまぬがれない。

 ロシアの国の全体を完ぺきに代表しているといったほどには、プーチン大統領のことを基礎づけたりしたて上げたりできづらい。大きな物語とはいえず、小さな物語にとどまる。戦争への批判や、プーチン大統領への批判がロシアの国の中でおきているのは、大きな物語がなりたたず小さな物語であることを物語っているものだろう。

 ロシアはウクライナと戦争をするべきだとしているのがプーチン大統領だが、それはかくあるべきの当為(sollen)だ。当為によってつっ走っているのがプーチン大統領だが、それとはちがうかくあるの実在(sein)のところがある。

 当為とはちがって実在のところを見てみれば、ロシアの国の中にはいろいろな声があるのが見てとれる。当為だけを見てみれば、ロシアはウクライナと戦争をするべきだとなるが、実在のところを見てみれば、それとはちがういろいろな声があるのがわかってくる。

 実在のところをないがしろにしていて、当為だけによっているのがプーチン大統領だろう。そこから言えることは、実在のところを無視して当為だけによることの危なさが読みとれる。実在のところを無視してはならず、そこを重んじなければならない。

 ロシアの大統領であるのがプーチン大統領だが、そこには偶有性や偶然性があることはいなめない。表象であるのが国の政治家だから、そこには完全な必然性はなく、人為や人工の構築性がある。

 だれにでもなれるものであり、だれにでもつとまるものなのが、表象である国の政治家だ。プーチン大統領が、ロシアの大統領でなくてもとくにかまわない。それは、アメリカでいえば、ドナルド・トランプ前大統領がアメリカの大統領でなくてもとくにかまわなかったのと同じだ。

 この人でなければならないとは言えないのが国の政治家だ。あくまでも重みが置かれるべきなのは国民である。国民主権主義からするとそれが言える。国の政治家に重みが置かれてしまうのは、本末転倒になる危なさがある。

 意味や記号内容(signified)についてを、いろいろな記号表現(signifier)で言えるのと同じように、国の政治家はとりかえがきく。かけがえがある。記号表現に当たるのが国の政治家だから、プーチン大統領がロシアの大統領でなければならないとは言えない。ほかのもっとましな人がいくらでもいるはずだ。

 ロシアの国の中には、プーチン大統領よりももっとすぐれた人がたくさんにいるはずだ。この人でなければならないとは言えないし、とりたててすぐれてもいなくて能力に欠陥があるのがプーチン大統領だと言える。政治家は人間であり、人間は合理性に限界をもつから、完全な合理性をもつことはできず、まちがうことを避けられない。

 参照文献 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『増補 靖国史観 日本思想を読みなおす』小島毅(つよし) 『政治家を疑え』高瀬淳一 『構築主義とは何か』上野千鶴子