なにを報じるべきかと、それが国民に益になるかどうか―表象としての国の政治家

 高齢者がワクチンを打つ機会をいたずらにうばいかねない。機会がそこなわれかねない。朝日新聞毎日新聞などは、記事においてその機会をうばいかねないことをした。防衛相はそう言っていた。

 自衛隊がになったワクチンの予約の仕組みを試しに検証してみたのが朝日新聞毎日新聞だ。仕組みのなかに誤りがあったことを見つけてそれを記事にした。記事にしたことによって、高齢者がワクチンを打つ機会を損ないかねないことがおきたと言えるのだろうか。朝日新聞毎日新聞は悪いことをしたと言えるのだろうか。

 防衛相が言っていることを言い換えてみて、高齢者のことを一般化してみられる。一般化することによって高齢者に限定せずに広く国民にとって損や害となることをとり上げられる。高齢者は国民の部分集合であり、国民は全体集合だ。国民にとって益になることや、損や害になることがある。

 国民にとって益になることとは、国民の知る権利が満たされることだろう。これはいまの憲法の第二十一条の表現の自由によって保障されるものだという。国民に損や害になることとは、国民の知る権利が満たされないことだ。

 どのようなことが国民にとって益にはならず損や害になるのかといえば、報道機関が大本営発表のようなことを行なうことだろう。お上の言うことをそのままたれ流す。日本の報道はそうしたことが多い。

 個別のことではなくて、そもそもの話として見てみられるとすると、国民にさまざまな情報が広く与えられるのがよい。国民にさまざまな情報が広く開かれているのがのぞましい。そのことを大前提の価値観にできる。

 国民に与えられる情報が制限されてしまっている。国民に情報が広く与えられていない。情報が開かれていないで閉じている。そのことのほうがまずい。日本の報道のあり方は十分に自由だとは言えそうにない。不自由なところが少なくない。報道機関が国の手先になってしまっていて、国家のイデオロギー装置になっている。

 日本の国にはいろいろな言ってはならない禁忌(taboo)がある。その最大のものが天皇制への批判だ。天皇制への批判が最大の禁忌になっていて、それだけではなくほかにもいろいろな禁忌がある。自由にいろいろと言ってもよいあり方ではなくなっている。

 国の政治家が言っていることをそのまま丸ごとうのみにできるかといえばそれはできづらい。国の政治家は表象(representation)だから、国民そのもの(presentation)ではない。表象なのが国の政治家だから、言っていることをそのままうのみにしてたれ流して報道するのではないことがいる。

 国の政治家は表象であり、最終の結論となることを言うのではない。あくまでも仮説であるのにすぎないから、その仮説が当たっているか外れているかを一つひとつ確かめなければならない。仮説であるものをあたかも最終の結論であるかのように報じることが日本では多いだろう。国の政治家が言っていることを、確かとは言えない仮説としてとらえることが行なわれていない。

 表象なのが国の政治家であり、国民そのものではないから、国の政治家は国民のほうを向かないことが少なくない。国民にとって益になるようなことをしようとする動機づけが国の政治家にはそれほど高くない。国民に損や害をもたらす見こみが高いのが国の政治家だ。国民に損や害をもたらす見こみが高いのが国の政治家だから、国の政治家をきびしく監視することがいる。その監視がひどく甘くなっているのが日本のあり方だろう。

 個人の人権を守って行くことが国民の益になることだが、日本の政治ではこの意識が弱い。個人の私ではなくて国家の公を肥大化させようとしている。国の政治家は個人の人権などどうでもよいとしているのがあり、国家の公をいかに肥大化させるかに力を入れている。国民にとって損や害になる方向に向かおうとしているのが国の政治家だろう。

 報道機関よりは、むしろ国の政治家のほうが、国民に損や害をもたらす見こみが高い。国の政治家の肩をもつような権力の奴隷になり下がってしまえば、報道機関もまた同罪だ。権力の奴隷にはならず、権力をきびしく監視して行こうとする報道機関は日本には少ない。

 なにがまずいことなのかといえば、権力をきびしく監視して行こうとする報道機関がまずいのだとは言えそうにない。そうではなくて、その逆に国の政治家の言うことをすなおに聞いて、権力の奴隷になり下がってしまうことがまずい。権力からの呼びかけにすなおに応じる自発の服従である。聞きわけがよいすなおな自発の服従であるほうが権力にとってはやりやすくて都合がよい。

 権威主義になりやすくて、権力の言うことをすなおに聞きやすいのが日本の国にはあるから、権力への監視がおろそかになりがちだ。そこにまずさがあるのであって、権力を監視することをまずいとするのはお門ちがいのものであり、何をまずいことだとするのかがあべこべだ。国の政治家に甘いことがまずいと言えるだろう。

 国家の公と個人の私は相反するところがある。その二つが相反するのがあるから立憲主義がとられて、国の政治家が守るべき義務が憲法に定められている。国家の公をになう国の政治家は表象だから、国民そのものではない。表象である国の政治家がよしとすることは、いっけんすると国民にとって益になるかのようでいて、じつはそうではないところがある。表象なのが国の政治家だから、国民そのものではなくて、国民とのあいだにずれがある。

 表象である国の政治家がよしとすることは、いっけんすると国民にとって益になりそうであったとしても、じつは損や害になる。国の政治家がよしとはせずにいけないとすることが、いっけんすると国民にとって損や害になるかのようでいて、じつは国民に益になる。そうしたことがあり、国の政治家が言っていることはそのまま丸ごとうのみにすることはできない。

 参照文献 『一〇代の憲法な毎日』伊藤真(いとうまこと) 『公私 一語の辞典』溝口雄三現代思想を読む事典』今村仁司編 『考える技術』大前研一 『九九.九%は仮説 思いこみで判断しないための考え方』竹内薫 『権威と権力 いうことをきかせる原理・きく原理』なだいなだ