ロシアとウクライナの戦争と、勝ちと負け

 ロシアがウクライナに軍を攻めこませている。戦争がおきていると言われている。

 ロシアの中では、戦争に反対する人々の声がおきているという。ロシアのウラジーミル・プーチン大統領が戦争をやることを決めたことに、反対する声があげられている。

 ロシアとウクライナのあいだの戦争についてを、どのように見なすことができるだろうか。

 いったいどのようなことが正義に当たるのかでは、それを形式論と実質論に分けて見てみられる。戦争で勝ったほうが正義であり、負けたほうは悪に当たるのかがある。戦争と平和では、どちらが正義に当たるのかがある。

 国際連合国連憲章では、武力の行使が原則として禁じられている。例外のときだけにしか武力を使ってはいけない。ロシアがウクライナに軍を送って攻めこんでいるのは、武力を使える例外のときに当たるものではない。

 ロシアがやっていることは、国際法に反しているから、形式論として見れば形式をふまえられていない。形式としての弱さをもつ。形式によって支えられていない。いくらロシアが自国を正当化や合理化して、実質の正義を言うのだとしても、そこには十分な説得性があるとは言えない。形式の国際の法の決まりをふまえられていないからだ。

 戦争をやって、勝ったほうが正しくなり、負けたほうがまちがっていたことになる。そういったことがあるのは一つにはあるけど、それだけではなくて、負けるが勝ち(stoop to conquer)といったところもある。

 科学のゆとりをもつようにして見れば、勝ったほうが正しくなるだけではなくて、負けるが勝ちといったところがあり、負けたからまちがうことになるとは限らない。

 武力によって手を出してしまったのがロシアであり、戦争をやることを選んでしまった。武力の力ではロシアはウクライナに勝てるかもしれないが、武力によらないところでは、負けたほうが勝つことがありえる。

 武力を使って手を出すか出さないかでは、手を出したほうが負けで、手を出されたほうが勝つ。手を出したのはロシアであり、出されたほうがウクライナだから、手を出してしまったロシアは負けだとすることがなりたつ。

 戦争と平和のどちらの方に正義があるのかでは、戦争であるよりも、平和のほうに正義があるのだとしてみたい。ロシアからすれば、正義のために戦争をやることを決めたのだとして、自国を正当化や合理化する。自国がやったことを正しいことであるとする。

 純粋な正義のために戦争を行なうのよりも、たとえ不純ではあったとしても平和によるのを選びたい。戦争がおきるよりは平和のほうがまだましだから、正義のためだといったことで戦争をやることを決めてしまうのは危ない。

 戦争を行なうことを決めたのは、それをする誘引(incentive)がロシアにはたらいたからだろう。負の誘引に動かされてしまったのがロシアであり、負の誘引にあらがうことができたらよかった。それにあらがえずに、負の誘引に動かされてしまった。

 負の誘引にあらがうためには、国の中にしっかりと抑制と均衡(checks and balances)がはたらいていることがいる。権力がいくつかに分散されていて、一元の支配ではなくて多元の支配(polyarchy)になっていれば、国の全体がまちがった方向に向かって行くのを少しは防ぎやすい。いかに国の動きに抑制をかけられるのかが重要だ。

 戦争のいぜんに、プーチン大統領がほかのところで言っていたことからうかがえるのは、プーチン大統領国家主義(nationalism)によっていることだ。想像の共同体や共同幻想であるのにすぎない国のことを実体化する。国家の公を肥大化させて行く。プーチン大統領にはそれがあるので、そこに危なさがある。プーチン大統領が、国のことを先に立たせて第一にするような国家主義や自民族中心主義(ethnocentrism)によっていることが、ロシアとウクライナの戦争がおきたもとの一つとしてありそうだ。

 参照文献 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『逆説の法則』西成活裕(にしなりかつひろ) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫社会的ジレンマ 「環境破壊」から「いじめ」まで』山岸俊男 『公私 一語の辞典』溝口雄三リヴァイアサン 近代国家の思想と歴史』長尾龍一