香港や台湾の独自性をよしとしない、一つの中国はありえるのか―全体の虚偽性

 香港や台湾にたいして中国が圧力を強めている。香港や台湾の独立性を中国は否定している。中国の動きについてをどのように見なすことができるだろうか。いろいろに見られるのがある中で、そもそもの話として、一つの中国は幻想にすぎないと言える。

 哲学者のテオドール・アドルノ氏はこう言っている。全体は虚偽であり非真実であるとしている。

 全体は虚偽であり非真実であることからすると、一つの中国はなりたつものではない。中国の国の中には、独立を志向するものである部分としての香港や台湾があることになり、矛盾を抱えこんでいる。

 一つの中国は、香港や台湾の独立性を否定するものだが、これは人為で無理やりにつくり上げたものだから、現実とのあいだにずれがある。虚偽意識によるものである。

 中国だけにかぎらず、日本の国においても、一つの日本はなりたちづらい。すべての日本人がみんな同じあり方をしているのだとするのは幻想であり、虚偽意識によるものだ。日本人の中にはいろいろな考えを持っている人たちがいるから、その実在(sein)のところを認めざるをえない。

 アメリカをとり上げてみても、一つのアメリカはなりたたないものだろう。すべてのアメリカ人がみんな同じあり方をしているとはいえず、アメリカの国の中には主流の文化がある一方でそれと反対の対抗の文化(counter culture)がつねにあるのだとされる。学者の内田樹(たつる)氏による。

 中国だけにかぎらず、日本やアメリカを見てみても、一つの日本や一つのアメリカはなりたちそうにない。国である点ではおたがいに共通点があるから、中国においてもまた一つの中国はなりたたず、国の中に矛盾を抱えこむことになる。

 一つの国を一つの体系(system)として見てみると、体系としての決定の不能性をかかえている。体系の全体をとらえると部分がとらえられなくなり、部分をとらえると全体がとらえられなくなる。

 体系の内と外とのあいだの線引きでは、内と外とは相互に依存し合うので、内と外とのあいだの線を引けなくなる。内と外とのあいだの線は安定せずにつねに揺らぐ。人間の体でいえば、体の外から空気や栄養などを体の内にとりこんで、よけいなものを体の外に出す。

 内が実体としてそれだけで完結したものとしてあるとはいえず、外と関係し合っていて、関係のほうが先立っているのがあり、関係が第一次性のものとしてある。人間の体でいえば、外にあるものを食べたり飲んだり(空気を)吸ったりしなければ命を保てない。人間の体が実体としてそれそのものが完結したものとしてあるとは言えないように、国もまた実体としてあるとは言えそうにない。

 かくあるべきの当為(sollen)によるのが一つの中国であり、かくあるの実在を否定したところでなりたつものだ。国をなりたたせるためには、かくあるべきの当為によって人為の一つの全体性をつくらないとならないのはあるが、それはあくまでもつくりごとにすぎない。うそも方便といわれるが、その方便のようなものに当たる。擬制(fiction)だ。

 かくあるべきの当為に重きを置きすぎないようにして、実在において人それぞれによってさまざまな考え方やさまざまな声があることをくみ入れるようにすることが中国にはいる。人それぞれによってさまざまな遠近法(perspective)をもっているのがあり、たった一つだけの遠近法によるのではないのが国だから、大ざっぱにいえば、中国とはちがう形の、香港には香港の遠近法があり、台湾には台湾の遠近法があると言えるだろう。

 参照文献 『増補 靖国史観 日本思想を読みなおす』小島毅(つよし) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『理性と権力 生産主義的理性批判の試み』今村仁司 『愛国の作法』姜尚中(かんさんじゅん)