日本を守ることと、力(might)と正しさ(right)―力の危なさと、(単一の)正義の危なさ

 日本の防衛費を増やして行く。軍事の力を強めて行く。いまはそれがいるのだとさかんに言われている。

 日本の国を守るためには、いったい何をやればよいのだろうか。たんに、防衛費を増やすだけでよいのだろうか。軍事の力を強めるだけでよいのだろうか。

 国が力をもつのは、それがよく働くとはかぎらない。力(might)は、正しさ(right)とは分けられる。

 力をもつのは、子どもが大人になるようなものであり、大人だからといってよいことをするとはかぎらない。大人が悪さをすると、たちが悪い。大人は力を持っているだけに、悪いことをすると被害が大きくなる。

 力をもつようにするところに目を向けるのではなくて、正しさのところに目を向けたい。正しさでは、その度合いとして、排他と包摂と多元性をあげられる。

 力を持っていて、排他であると、国が悪くなる。力をもっていて排他の国は、いまはロシアがある。中国もそれに当たる。アメリカも部分としてはそうなっている。アメリカのなかで、新保守主義(neoconservatism)などの右派や保守派は、排他のあり方であり、悪いあり方だ。

 どこに着眼するかの、着眼の点では、国がどれくらい力をもつかを見るのではない。国がもつ、防衛や軍事の力を見るのではない。そこを見るのではなくて、正しさのところに着眼してみると、国が排他になっていると、悪いあり方だと言える。

 力と正しさを分けて見たさいに、たんに力が強いだけでは、正しいことにはならない。力が強くて悪いことをすることがある。力が強いのは、子どもではなくて大人であることになるが、大人が悪いことをすることは少なくない。悪い人は、子どものような大人であると、思想家のトマス・ホッブズ氏は言う。

 いまの日本を見てみると、子どものような大人の政治家がたくさんいる。子どものような大人の政治家が、中心化されているのがいまの日本の政治だ。すでに、力の悪用がおきている。

 力と正しさを分けてみると、力ではなくて、正しさがいかに大事なのかが見えてくる。正しさでは、国が排他になっていると悪い。包摂だとまずまずであり、多元性であればよいあり方だ。

 正しさにおいては、国が排他になっていて、こうであるべきだとする当為(sollen)が上から押しつけられる。たった一つだけのかくあるべきの当為が上から押しつけられるのだと、良くないあり方である。

 なぜ、国が排他のあり方になっていると悪いのかといえば、上からたった一つだけの当為が押しつけられてしまい、そのほかの価値が許されなくなってしまうためだ。国が戦争をやるべきだと言えば、それがゆいいつの価値になってしまい、そのほかの反戦などの価値が許されなくなってしまう。

 いまのロシアは国が排他のあり方になっているから、たった一つの価値しかなくなっている。国が戦争をやっていて、それだけがゆいいつの価値になっている。反戦の価値が許されない。反戦の価値が許されていれば、戦争に歯止めをかけることができる見こみがあるけど、国によるたった一つだけの価値しか良しとされていない。

 どうあることが、国が正しいことになるのか。どうであれば、国が正しいことになるのか。国がどれくらい力をもつかはとりあえずわきに置いておいて、国の正しいあり方を見てみると、排他のあり方だと一番のぞましくない。

 力をもっている大人が悪いことをすることがしばしばあるように、国が悪いことをすることがしばしばある。大人だから正しいとはいえないように、国が正しいとも言えない。大人が言ったりやったりすることが正しくないことがしばしばあるように、国が言ったりやったりすることが正しくないことがしばしばある。

 国が正しくあるためには、排他ではないことがいる。包摂や多元性によることがいる。排他だと、一元の支配になってしまう。一強になる。一元ではなくて、二元または多元性になっていたほうが、国がまちがった方向につっ走って行きづらい。抑制と均衡(checks and balances)がかかりやすい。

 どういったあり方であれば、その国がよい統治(governance)のあり方になっているのかがある。いくら国が力をもっていて、防衛や軍事の力が高くても、統治のあり方が悪いと、国民のためにはならない。

 よい統治ができているかどうかが、国の正しさでは大切だ。排他で、たった一つだけの価値によっていて、かくあるべきの当為を上から押しつけるのだと、いちばん悪いあり方だ。

 いまの日本では、国が力をもっと持つべきだとはさかんに言われているけど、正しさや統治の点が見のがされている。正しさや統治の点が見落とされている。どういうふうにすれば正しくなってよい統治になるのかと言えば、包摂や多元性によるようにして、実在(sein)をしっかりとふまえるようにして行く。

 実在をしっかりとふまえるようにするのは、声の複数性によるようにすることである。声や言説の複数性をしっかりととるようにして、いろいろな声や、いろいろな言説を自由に言えるようにして行く。表現の自由(free speech、free expression)によるようにして、思想の自由市場(free market of ideas)によるようにして行く。表現や思想の自由が損なわれると、排他になってしまうから、国が危なくなるのが一つにはある。

 参照文献 『法哲学入門』長尾龍一 『増補 靖国史観 日本思想を読みなおす』小島毅(つよし) 『宗教多元主義を学ぶ人のために』間瀬啓允(ひろまさ)編 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『「表現の自由」入門』ナイジェル・ウォーバートン 森村進森村たまき訳 『目のつけどころ(が悪ければ、論理力も地頭力も、何の役にも立ちません。)』山田真哉(しんや) 『こうして組織は腐敗する 日本一やさしいガバナンス入門書』中島隆信