憲法の改正は、実現されないとならないことなのか―国の政治で何が実現されるべきなのか

 憲法の改正を、より踏みこんでなして行く。与党である自由民主党は、憲法改正実現本部を立ち上げて、憲法の改正に力を入れようとしている。自民党による憲法の改正への動きをどのように見られるだろうか。

 憲法の改正をじっさいに実現するのだとしているのが自民党だが、改めて見ると、国の政治において何を実現するのがよいことなのだろうか。実現するべきこととしては、国民の幸福がある。国民が個人として幸福になることを実現するべきだろう。幸福とは、経済学でいわれる効用(満足)だといちおうは見なしたい。世俗の功利主義である。世俗の功利主義は、自由主義(liberalism)によるものであり、他者に危害を加えること以外の個人の自由を認めるあり方だ。

 憲法の改正ではなくて、国民幸福実現本部といったようなものを自民党が立ち上げるのであれば、目ざすこととしてはそれほど悪くはないかもしれない。そこでめざされるのは、国民が個人として幸福になることであり、全体の効用の量を高めて行くことだ。集団主義ではなくて個人主義によるようにして行く。憲法十三条でいわれる個人の幸福追求権を守って行く。個人が何かのための手段や道具とされるのではなくて、個人それそのものが目的とされるようにして行く。人格主義(personalism)だ。

 自民党が目ざしているような憲法の改正の実現とはちがうものとしては、国民が自己の実現をできるようにして行く。いまの日本の憲法でいわれているような、自己の実現や自己の統治ができるようにして行く。憲法の改正を実現するよりも、国民が自己の実現ができたり自己の統治ができたりするほうがより重要なことだろう。

 いまの日本の国の政治では、国民の自己の実現や自己の統治(autogovernment)ができなくなっているところがある。自律性(autonomy)がなくなっていて、他律性(heteronomy)によるようになってしまっている。autonomy の auto は自分を意味して、nomy や government は統治を意味する。nomy は古代ギリシア語の nomos から来ていて、nomos は秩序や法をさす。hetero は他(他者)を意味する。

 他律性によるようになってしまっているために、集団主義が強まっていて、上からの情報の統制が行なわれている。そこを改めるようにして、個人を尊重するようにして、情報の統制をやめて情報の民主化をして行く。日本の国の政治ではそれが求められている。

 憲法の改正を実現して行くのよりも、国民が個人として自己の実現ができたり自己の統治ができたりするほうがより重要なことだろう。どのようなことを実現するべきなのかを自民党ははきちがえていて取りちがえている。

 日本の国の政治では右傾化がおきていて、集団主義国家主義(nationalism)が強まっているのがあるため、国民が個人として自己の実現や自己の統治をすることができづらくなっているのはいなめない。自民党憲法の改正にやっきになっていて、それを実現しようとしているのは、国民に自己の実現や自己の統治をさせないようにして、それらをさまたげようとしているのと同じ方向性のものだ。

 自民党が実現させようとしていることには、はきちがえや取りちがえがあり、ずれがある。憲法改正実現本部を立ち上げているところにそれが示されている。他律性の集団主義国家主義によるのではないようにして、国家の公をいたずらに肥大化するのではないようにして行きたい。自律性の個人主義によるようにして、個人の私を重んじるようにして行く。

 実現するべき方向性としては、大きくは集団主義ではなくて個人主義によるようにして、国家の公の肥大化ではなくて、個人の私を重要なものだとして行く。個人が自己の実現ができたり自己の統治ができたりするのを目ざす。憲法の改正の実現は、国の政治において何を実現するべきなのかがずれているのがあり、自民党はもっとちがうことの実現をいろいろに目ざしたほうがよりよいのだと見なしたい。

 憲法の改正の実現は、何が何でも絶対にそうしなければならないようなかくあるべきの当為(sollen)なのだとは言えそうにない。かくあるべきの当為では、どちらかといえば、憲法の改正よりも、憲法で言われている個人の尊重のような価値を重んじるべきだろう。

 かくあるの事実(is)でいえば、いまの憲法があることは事実だが、それをもってしてそこから自動でそれが改正されるべきであるほどの悪いものだとは言えないだろう。よい憲法なのかそれとも(改正されるべきほどの)悪い憲法なのかは価値についてのことだが、価値は人それぞれでとらえ方がちがうのがあり、いろいろによし悪しを言えるのがある。

 ゆいいつとして客観に言えるのは、価値はいちおう抜きにした上で、憲法が事実としてあることだ。憲法が事実としてあることは否定しがたい。憲法がよいとするにせよ悪いとするにせよ、そこには価値がからんできてしまい、客観ではなくて主観になるのがある。主観の色めがねつまり枠組み(framework)を通してものを見ることになる。

 憲法のことを、できるかぎり中立のものとして、その機能や構造を見て行くことができるが、(そこに正の含意をこめるにせよ負の含意をこめるにせよ)よし悪しを言うと主観のかたよりがおきてくる。

 憲法の内(text)とは別に、その外の文脈(context)の状況がどうなのかを見るのも欠かせない。外の状況では、いまの世界のあり方にはおかしいところがいろいろにあり、現実の世界のあり方(と日本の国のあり方)がきびしく批判されないとならないだろう。憲法の内と、その外の状況とは、相関する関係にあるといえる。外の状況を見てみると、そこが悪くなっていて、世界や日本の国にいろいろな悪や不正がはびこっているのは無視することができそうにない。

 参照文献 『超訳 日本国憲法池上彰(いけがみあきら) 『まっとう勝負!』橋下徹 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『公私 一語の辞典』溝口雄三 『右傾化する日本政治』中野晃一 『ブリッジマンの技術』鎌田浩毅(ひろき) 『功利主義入門』児玉聡(さとし) 『現代倫理学入門』加藤尚武