政治にのぞむことがあるのなら、自分が政治家にならないといけないのか―自分が政治家になるべきなのか

 政治で、おかしいことがおきている。おかしいことを正して行く。こうしたことをのぞむといったようなことがもしも自分にあるのなら、自分が政治家になってそれをやればよい。そう言われるのがあるが、それは正しいことなのだろうか。政治に何かのぞむことがあるのなら、自分が政治家になってそれをやるべきなのだろうか。

 国民と政治家とを比べてみると、国民が上であり、政治家は下だ。政治家は国民の表象(representation)であり代理だ。政治家になるのは、国民の表象になることであり、下のものになることをあらわす。せっかく上である国民でいるのに、わざわざそれよりも下のものである政治家になるのは、必ずしもいることだとは言えそうにない。

 政治において何かを言うさいに、国民が言うのと、政治家が言うのとを比べてみたい。国民が言うほうが上であり、政治家が言うのは下に当たるものだろう。政治家が言うのは、その政治家がきちんとした政治家であればまだよいが、だめな政治家だとごまかしの語りになりやすい。

 日本の政治では、きちんとした政治家はほとんどいない。その多くはだめな政治家といってよいのがあり、ごまかしの語りにおちいっていることが多い。うたがうべきものなのが政治家であり、もしも自分が政治家になってしまったら、うたがわれるべきものになってしまう。距離をとるべきものであり、警戒するべきものなのが政治家だ。

 自分が国民のままでいて、政治家になっていないのなら、国民である自分と、政治家とが分かれているからとらえやすい。国民である自分が、政治家をうたがって行けばよい。それとはちがって、もしも自分が政治家になってしまったら、自分で自分をうたがって行かないとならない。うたがう人(自分)と、うたがわれる人(自分)とが、いっしょになってしまうから、ややわかりづらい。

 政治で自分がのぞむことと、自分が政治家になることとは、それぞれがちがう話なのがある。なぜちがう話なのかと言えば、それぞれの目的がちがうからだ。政治で自分がのぞむことは、それが目的となるものだけど、それとはちがう目的をもつことになるのが、自分が政治家になろうとすることだ。もしも自分が政治家になろうとするのなら、その目的を達するためには、政治で自分がのぞむことをあきらめることがいるようになる。自分が政治にのぞむことを目的として持ったままで、政治家になる目的も達せられることはあまりない。二律背反(trade-off)になりがちなものである。

 政治家を選ぶ、間接の民主主義の仕組みは、かたよりを持つ。日本の政治では、三バンといって、地盤(後援会)と看板(知名度)とかばん(財力)を持っていることがいるとされる。この三つをもともと持っている人は、それだけ政治家になるのに有利だ。世襲の政治家が多く生まれることになる。政治家になる機会がみんなに平等にあるとは言えず、形式の不平等になっている。

 どれくらいの票を得られるかで、政治家が選ばれる。これは量によるものであり、質はまたちがう。量の多さによるのが間接の民主主義だから、質をとり落としていることが多い。よほどうまく民主主義をやって行かないと、量の多さだけがものを言うあり方になりがちだ。質がなおざりになってしまう。

 いまの日本の国の政治のあり方では、右傾化がおきていて、排除がおきている。政治において何でも自由に好きなことを言えるようにはなっていない。たとえ自分が政治家になったとしても、政治において排除がおきていることを正して行くのは並たいていのことではない。そうとうにむずかしいことである。かんたんにできづらいのは、かりに自分が政治家になって、政治でおきている排除を改めようとすると、自分が排除されるおそれが高いからだ。政治家が自分で好きにものを言い、もしも禁忌(taboo)に触れてしまったら、その政治家は排除される見こみが高い。

 日本の国の政治で右傾化がおきているのは、排除を正すことができなくなっていることをしめす。いま政治家になっている人たちが排除を正すことができなくなっていて、それによって政治が右傾化していっている。政治家になったとしても、排除を正せるほどには有力感をもてず、無力感におちいらざるをえない。効力感をもてない。

 グローバル化がおきているのがあり、政治家が国を制御できなくなっているところがある。たとえ政治家になったとしても、国をうまく制御できるとは言えず、外からの圧などにはさからいづらい。日本は外からの圧であるアメリカからの要求に弱い。アメリカにはさからいづらい。従属のあり方だ。

 もともとがそれほどよいものではないが、いまはますますよくないものになってしまっているのが、日本の政治家だろう。中にはよい政治家もいるが、それは例外のごく少数にとどまる。グレシャムの法則がはたらいていて、悪貨が良貨を駆逐している。すぐれた政治家であるほど上の地位に行くのではなくて、悪い政治家であるほど上の地位に行きやすい。

 国家主義(nationalism)が強まっているのが日本の国の政治ではあり、だれがどれくらいのものを得られるのかのあり方がおかしくなっている。政治でよいことをやれば、たくさんよいものを得られるのではなくなっている。政治でよいことをやっても得られるものは少ないか、または無い。悪いことやよくないことをやると、得られるものが多い。

 よいものであればあるほど選ばれて、上の地位に行くのではなく、悪いものであればあるほど選ばれて、上の地位に行く。日本の国の政治ではそれがおきている。きびしく言えばそう言えるのがある。政治家として選ばれていなかったり、下の地位にいたりするのは、劣の階層(class)に当たるが、劣の階層であるほど、政治として正しい。政治において優の階層であるほど、政治として正しくない。そういったところがある。

 国の政治において、優の階層と劣の階層があるとすると、あまり目を向けられない劣の階層に目を向けるようにしたい。政治家として選ばれづらい、または選ばれないような劣の階層のところに、政治における正しさがある。そういったように見なしてみたい。議会の外にある劣の階層としては、権力を監視する報道機関などがある。議会の内や外の、劣の階層にあたる反対勢力(opposition)の重要さが高まっているのが、日本の国の政治にはあるのだと言える。

 参照文献 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『「野党」論 何のためにあるのか』吉田徹 『右傾化する日本政治』中野晃一 『グローバリゼーションとは何か 液状化する世界を読み解く』伊豫谷登士翁(いよたにとしお) 『政治家を疑え』高瀬淳一 『世襲議員 構造と問題点』稲井田茂 『脱構築 思考のフロンティア』守中高明