与党と野党のどちらがよいのかと、野党どうしではどこが一番よいのか―よい野党と、だめな野党

 与党と野党とでは、どちらのほうがよいのだろうか。どちらのほうがましなのだろうか。また、野党の中では、どの野党がよくて、どの野党が悪いのだろうか。

 与党と野党とを見てみると、それらが質として異なっていると言えるよりは、量のちがいにすぎないだろう。量が多ければ与党になり、量が少なければ野党になる。与党であればすごくよくなって、野党であればすごくだめになるとは言えそうにない。

 野党どうしについてを見てみると、階層(class)の差をとり上げることができる。優の階層と劣の階層の二つに分かれて、よい野党だとされるのは優の階層で、だめな野党だとされるのは劣の階層だ。立憲民主党日本共産党などは、なにかと劣の階層だとされがちだ。

 よい野党である優の階層のまずさとしては、与党である自由民主党に近づいていってしまう点だ。自民党のあり方に近づいていってしまうのは、日本の政治の全体のあり方として、自民党が優の階層で、野党が劣の階層だとされてしまっているのがあるからだ。優の階層になりたいがために、自民党のあり方に近づいていってしまう。

 劣の階層だとされる、野党である立憲民主党共産党にたいする見かたを変えて、脱構築(deconstruction)をして行きたい。優の階層と劣の階層を反転させて、優を優のままにしたり、劣を劣のままにしたりして固定化させない。優と劣のちがいを流動化させて行く。

 だめな野党なのであれば、それは劣の階層であることをあらわす。そこから脱して、優の階層を目ざして、そこへ成り上がろうとすると、自民党のようなあり方になってしまう。自民党のようなあり方になることは、その政党がだめになることをあらわす。劣から優へと引き上がって行くように見えても、じっさいには(優から)劣へと引き下がっていってしまう。

 だめだとされるところから脱して、そこから引き上がったり成り上がったりすることがいるのではない。そうではなくて、だめだとされているのを、自明だとはしないで、よさがあるのを見出して行く。だめだとするだけで、悪く見なすのを固定化させないで、流動化させて行く。

 だめな野党にたいして、それを客体(object)としてどのように見なすのかがある。だめな客体としてだけ野党を見なすのではなくて、それを脱構築するようにして、よいところがあるのを見いだす。それをやって行くことがいる。だめなのから、だめではないのへ引き上がったり成り上がったりしようとすると、かえってだめになってしまい、だめな自民党のあり方と同じになってしまう。なぜそうなってしまうのかといえば、日本の政治には科学のゆとりが欠けているからだ。

 参照文献 『「野党」論 何のためにあるのか』吉田徹 『脱構築 思考のフロンティア』守中高明 『逆説の法則』西成活裕(にしなりかつひろ) 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ)