野党による批判や反対の、個数についてを見てみる―適した個数はどれくらいか

 野党は批判や反対ばかりしているからだめだ。そう言われるのがあるが、そのことについてをどのように見なせるだろうか。それについてを、批判や反対の量の点から見てみたい。

 質はとりあえず置いておけるとすると、量については、〇と一と多の三つに分けられる。一と多は、〇ではない点で共通点をもつ。多は、一足す n(自然数)である。

 人間は神さまのような完ぺきな知性を持っているのではないから、合理性に限界をもつ。限定された合理性しかもっていないのが人間であり、人間のやることには何かしらの批判がなりたつ。非の打ちどころがないことはないから、どこかしらに非があるものであり、その非についてを批判できる。

 天国のようにすべての人が幸福になれるところであれば、わざわざ批判しなくてもよいから、批判が〇でもよいかもしれない。天国のようではないのが現実の社会だから、批判が〇でもよいとはならず、最低でも一つくらいは批判をすることがいる。

 量においては、一と多があるけど、多は一足す n だから、一の延長線上にある。質としてちがいがあるとはかぎらないから、一が二になり、二が三になりと連続して行くところがある。連続して行く中で、どこまでが許容できて、どこまでが許容できないのかはあいまいだ。

 ここまでの量なら許容できるが、ここから先は許容できないとして、げんみつに線を引くことができづらい。許容できる量の線を引くことにはあいまいさがあるから、修辞学でいわれる多義またはあいまいさの虚偽におちいる。

 どれくらいの量なら許容されるのかは、それがどれくらい必要性があるものなのかによるのがあり、批判や反対の必要性が関わってくる。どういった批判や反対が必要なのかは、あらかじめ事前に決めておくことはできづらい。どれくらいの量が必要なのかははじめからわかっていることではないから、具体の状況しだいで変わってくる。

 具体の状況をくみ入れてみると、うんと批判や反対がいることもあれば、それほど批判や反対をすることがいらないこともあるだろう。それぞれの人が置かれている立ち場がちがうから、ある人にとってはうんと批判や反対がいることもあれば、ちがう人にとってはそれほど批判や反対がいらないことがある。

 どれくらいの量が適切なのかと言えば、必要なだけの、または必要性があるだけの批判や反対が行なわれることがのぞましい。量の適切さのどあいは、必要性と相関するのがあるから、量が多いのは、必要性があること(高いこと)がそれだけいろいろにいっぱいあることをしめす。

 よいか悪いかであるよりは、量が多いすなわち必要性があることがいろいろにあり、そこから許容される(べき)範囲が広がっていることをあらわす。許容される範囲がどれくらいであれば適切なのかは、げんみつに線を引くことはできづらく、あいまいさをまぬがれない。具体の状況しだいで、必要性があるだけ許容されるのがよいと言えるだろう。

 参照文献 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『論理病をなおす! 処方箋としての詭弁』香西秀信