スポーツに政治を持ちこんではいけないのかどうか

 スポーツに政治を持ちこむな。そう言われるのがあるが、いついかなるさいにもスポーツに政治を持ちこんではいけないのだろうか。このさいに、形式と実質や、原則と例外や、必要性と許容性や、一般と個別の状況の点から見てみたい。

 スポーツは純粋に政治から切り離されたものだとは言えそうにない。スポーツに政治が持ちこまれることは少なくない。スポーツには国の単位が使われることから、政治性がある。

 逆から見てみると、政治にスポーツが持ちこまれていることは多いから、政治にスポーツを持ちこむことはよくて、スポーツに政治を持ちこむことはいけないのは腑に落ちづらい。

 政治にスポーツが持ちこまれるのは、近代の主体を形づくるためなのがある。国家に都合のよい近代の主体を形づくるためにスポーツが用いられる。あるていど共通性をもった体をつくり上げて、他の人といっしょに労働や軍事の行動をすることができるようにする。労働や軍事の行動に適合する体をつくり上げて行く。標準化や規律化される。それぞれにちがいをもった固有の質ではなく量に還元されて、数量が重みをもち、数量としてだけ意味をもつ。他の人と歩調を合わせられないと労働や軍事の行動では使いものにならない。生産性や有用性の点ではそう評価づけされる。

 もともとスポーツには政治性があるのがあり、仮想の戦争のようなところがある。戦争をやる代わりにスポーツを行なう。ガス抜きの効果をもつ。戦争に政治が関わっていると言えるのなら、スポーツにも政治が関わっていると言えなくはない。

 政治は形式のものだから、政治を持ちこむのはいけないと言うさいには、形式の点を言っていることになる。形式を見るのではなくて、実質を見ることがいるのがあるから、そこを見て行くようにしたい。政治を持ちこんでいるからいけないとするのではなくて、どういう内容の意見を言っているのかの内容の意味あいの点を見て行く。

 スポーツが政治に関わることがいけないことであるのなら、原則としていけないことになるが、現実にそうだとは言えないものだろう。たとえばスポーツの団体が政治の意思をあらわしてもよいのがあるし、団体であろうと個人であろうと、政治を完全に抜きにして純粋にただたんにスポーツをやらないとならないという原則があるとは言えそうにない。

 かりにスポーツに政治が関わることが原則としていけないのだとしても、例外がおきてくるのがあるし、じっさいに例外はいくつもある。悪い例外としては、過去にスポーツに政治が関わることが行なわれたのがあり、ナチス・ドイツなどでは、国をよしとするためにスポーツが使われた。国の感情の象徴(ミランダ)や知の象徴(クレデンダ)をしめして強めるためにスポーツが用いられた。

 社会の中で不正義や差別に当たることがおきているさいに、それをよくないことだとして批判を行なう。批判を行なう機会として、多くの人にうったえることができる場があるのなら、それを活用するのは手だ。悪いことがおきていることを批判する必要性がそれなり以上に高いのなら、それをうったえることが許容されてもよいことがある。

 政治に関わることであったとしても、それが選手の競技を行なうさいの動機づけを高めることがあるから、その点での必要性があるのなら、許容されてもよいことだろう。政治に関わることが、選手が競技で成果を出すことに否定にはたらくのではなくて、肯定にはたらくことがあるから、かならずしも否定にはたらくとはかぎらない。じかにうったえるにせよ、うったえないにせよ、政治に関わることと競技とのあいだで相乗効果が生まれることがある。

 スポーツの一般とか政治の一般といっても、それぞれの個人が置かれている状況はまちまちだ。その状況をくみ入れないで、スポーツの一般とか政治の一般としてしまうと、それぞれの人が置かれている状況のちがいがとり落とされて捨象されてしまう。一般としてこうだと言うよりも、個別を見て行くようにしたほうがふさわしい。一般だと上から見ることになり、一般の枠組みを当てはめがちだ。個別だと下から見ることになりやすく、個別としてのそれぞれの人のもっている枠組みのちがいをすくい上げやすい。

 参照文献 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『新書で大学の教養科目をモノにする 政治学浅羽通明(あさばみちあき) 『ブリッジマンの技術』鎌田浩毅(ひろき)