国家や国家装置(警察)による個人への暴力と、恐怖の自由主義

 アメリカでは黒人(アフリカ系アメリカ人)が警察に殺される事件がたびたびおきている。テニス選手の大坂なおみ選手はそれにたいして抗議の意思を示していて、殺された複数の黒人の人の名前(固有名)をあらわしたマスクをつけて競技場にあらわれている。Black Lives Matter(黒人の命も大切だ)のうったえだ。

 香港では、中国の政府からにらまれている民主主義の活動家が逮捕されることがおきている。民主主義をよしとする活動家が香港の自立をうったえて中国の政府に批判をおこなう。それをさせないように中国の政府は、香港の民主主義の活動家を力で押さえつけている。

 アメリカと中国に共通することとして、どういったことが言えるだろうか。そこで言えることとして、恐怖の自由主義(liberalism of fear)があげられる。これは政治学者のジューディス・N・シュクラー氏が言ったことだ。

 国家の公が個人の私を力で押さえつけるさいに、個人の私は恐怖をいだく。国家の公が個人の私の生命をおびやかして、生命を失わせることがある。その残虐(public cruelty)をもっとも悪いことだと見なす。国家の公その他によってもたらされる恐怖から自由になることを目ざす。

 国家公その他による恐怖から個人は自由であることがいり、国家公は国家主義によってえこひいきをしてはならない。国家主義による特権化がおきないようにして行く。恐怖もなく特権化もない(without fear and favor)のがのぞましい。

 アメリカや中国やロシアなどの大国では、国家の公その他が個人の私に恐怖を与えていることが目だつ。個人の私が恐怖にさらされる。国家主義にとって都合の悪い個人が力で押さえつけられて、生命をおびやかされる。国家主義にとって都合のよいものを特権化することが行なわれている。普遍化することができない差別が行なわれている。

 日本でもまた国家の公が個人の私に恐怖をおこさせているのはいなめない。国家主義がよしとされている。それがさらに進んで行けば、中国の政府が香港にたいして行なっているのと同じようなことが日本でも行なわれることになるので、対岸の火事とは言えそうにない。戦前や戦時中の日本では、国家公が個人の私を強く押さえつけていた。個人の私の自由はなかった。

 戦前や戦時中の日本では国家の公が肥大化していって、個人の私を押しつぶした。日本の国は国のなりたちのはじめから個人の私の自由をよしとするあり方ではなかったとされる。そのあり方がいまにも引きつづいている。国家の公が個人の私の内面に入りこんで、個人の私に介入することが行なわれやすい。個人の私が許される範囲(他者危害の原理に反しない範囲)の中でどのようなことをよしとしてもよいのが近代国家(中性国家)の原則だが、日本の国は国のなりたちのはじめからその原則がとられず、いまにいたっている。

 アメリカや中国やロシアなどの大国や、日本においているのは、恐怖の自由主義をなして行くようにして、国家公が個人の私に恐怖をおこさせないようにすることだろう。ただ生きているだけなのにも関わらず、とつぜんに警察におそわれて殺されることがないようにして行く。そうした恐怖から個人が解放されるようにして行く。階層の差による不当で不平等なあつかいを改めて行く。

 国家公を批判することで個人の生の自由がうばわれる。そのことからくる恐怖から個人が解放されるようにして、個人の表現の自由を認めるようにして、国家公にたいする批判が自由に行なわれるようにして行きたい。

 国家主義がとられることによって、国家に都合のよいものがえこひいきされて特権化されるのは、個人のそれぞれを平等にあつかうことにはならない。国家に都合のよいものをとり立てて、都合の悪いものをわきに追いやるのではなく、都合の悪いものを排斥しないようにして行く。色々な声をすくい上げるようにする。そうして行くことで、恐怖の自由主義をなして行くことがいるが、アメリカや中国やロシアなどの大国や日本ではこれが欠けていることで社会の中がおかしくなっていて、悪い統治のあり方になっているのがある。

 参照文献 『正義 思考のフロンティア』大川正彦 『自由 思考のフロンティア』齋藤純一 『よくわかる法哲学・法思想 やわらかアカデミズム・〈わかる〉シリーズ』ミネルヴァ書房 『公私 一語の辞典』溝口雄三 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『ええ、政治ですが、それが何か? 自分のアタマで考える政治学入門』岡田憲治(けんじ)