選択的夫婦別姓と強制の同姓と強制の別姓とではどれがのぞましいのだろうか―集団主義ではなくて個人主義によって個人が幸福になるようであればよい

 すべての結婚した夫婦が同姓になる。すべての結婚した夫婦が別姓になる。すべての結婚した夫婦はそれぞれが同姓か別姓かを自由に選択できる。この三つのうちでどれがもっとものぞましいものなのだろうか。この三つがあるうちでいちばん最後の選択的夫婦別姓は、経済学でいわれるパレート改善にあたるものかもしれない。

 経済学でいわれるパレート改善は、だれも損する人が出ないで利益や効用が上がるようなものだとされる。だれかが損をするかわりに誰かが利益や効用を得るのではなくて、だれも損する人がおきないのだからのぞましいものだとされる。

 一般的に経済の取り引きはもしも取り引きをするどちらかの一方が損をすることがあらかじめわかっているのであれば行なわれづらい。取り引きが行なわれればどちらかが損をするのではなくて総合として利益や効用が増えるのでパレート改善になる。そこから取り引きの数ができるだけたくさんおきたほうがよいことになり、自由主義の市場の経済のしくみが肯定されることがみちびかれる。

 思想の点は置いておけるものとして、制度の活用の点では選択的夫婦別姓でとくに損をする人はいないだろうからパレート改善になる。同姓がよい人は同性にできるし、別姓がよい人は別姓にできる。みんなが一つのあり方に一律に強制されるのではない。

 与党である自由民主党は選択的夫婦別姓をなすことをしないままでいる。自民党の中の右派がそれに反対している。自民党そのものが党としてかたよりのある右派だが、その自民党の中の右派の声が中心化されることによって、自民党は選択的夫婦別姓をなすことを見送った。

 哲学者のカール・ポパー氏のいう反証主義で見てみられるとすると、自民党は選択的夫婦別姓をなすことを見送ることにしたが、自民党が党としてそう決めたことには可能性としてまちがいを含む。自民党が党として決めたことだからといってまったくまちがいを含んでいないのではない。そう見てみられるのがある。

 右派(右派の中の右派)の声が中心化されることによって自民党は選択的夫婦別姓をなすことをとり止めているが、そこに見うけられるのは家父長制の家族観のあり方だろう。家父長制の家族観を温存させたいがために選択的夫婦別姓をなすことを否定している。

 家父長制の家族観によって強制に同姓にさせられると家族への参与(commitment)が強まりがちだ。強制に女性が同姓にさせられると女性だけかたよって(不平等に)家族への参与が強まることになる。

 家父長制では家族はまとまっているべきだといったこうあるべきの価値が強まりがちだ。それは集団主義ではあったとしても個人主義によるとは言えそうにない。個人の幸福の点で家族が逆機能(dysfunction)にはたらくことがおきると個人主義においてはそぐわない。個人主義においては集団はできるだけほどけやすくてばらばらになりやすくてゆるいほうがよいだろう。そうであるほうが絶対によいとまでは言えないし、それぞれの人の好みがあることは否定できないが、(それがたとえ家族であれ国家であれ)集団のしばりや和が個人の幸福にたいして逆機能にはたらくことはできるだけ防ぎたい。

 家父長制の家族観は戦前や戦時中の天皇制とかかわっている。戦前や戦時中の天皇制では天皇は家における長である父親と同一視されていた。日本の国が一つの大きな家だと見なされて、その長である父親が天皇だとされていた。日本の国の中の一つひとつの家の長は家の中の父親だとされていたのである。

 戦前や戦時中では天皇は神だとされて絶対の価値をもつものだとされていた。それとかかわっているのが家父長制の家族観だから、戦前や戦時中の天皇を批判することと地つづきのものとして家父長制の家族観は批判されるべきだろう。

 いまの日本では天皇制への批判が禁忌(taboo)のようになっていてあまりおもて立って行なわれていない。そこについて表現の自由があるとは言いがたい。表現に規制がかかってしまっている。そしてそれをうながしてしまうのが家父長制の家族観を温存することだろう。選択的夫婦別姓をなすことをしないままだと家父長制の家族観が温存されてしまい、戦前や戦時中の天皇への批判が行なわれづらいままになる。過去の歴史をきちんと反省することにつながらない。

 戦前や戦時中の天皇制は多くの国民にいちじるしい不幸をもたらした。天皇が神だとされたことによって多くの国民が陶酔させられてまひさせられた。天皇や政治家とのあいだに適した距離感をもつことができなかったのである。政治家にたいしてはただたんによいものだと一面性によって美化して見なすのではなくて二面性によって見るようにして適した距離をとるようにしたい。

 国家主義(nationalism)によって陶酔やまひが引きおこる。政治の権力からの呼びかけにすなおにしたがう自発の服従の主体が形づくられる。戦前や戦時中の天皇制の日本では独裁主義や全体主義だったために反対勢力(opposition)がいることが許されなかった。反対勢力が欠ける中で国家の公が肥大化していって個人の私が押しつぶされて虚偽意識がどんどん高まっていった。

 戦前や戦時中の天皇制と地つづきのものとしてあるのが家父長制の家族観だから、それをそのままずっと延命させないようにして、選択的夫婦別姓をなすようにして行きたい。それで戦前や戦時中の天皇制について十分に批判が行なわれるようになってほしいものである。絶対に批判しなければならないとはいえないから、それぞれの人の自由ではあるものの、批判が行なわれなさすぎるのが現状だろう。

 参照文献 『家族はなぜうまくいかないのか 論理的思考で考える』中島隆信 『家族依存のパラドクス オープン・カウンセリングの現場から』斎藤学(さとる) 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之(いいだやすゆき) 『反証主義』小河原(こがわら)誠 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『近代天皇論 「神聖」か、「象徴」か』片山杜秀(もりひで) 島薗(しまぞの)進 『個人を幸福にしない日本の組織』太田肇(はじめ) 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『公私 一語の辞典』溝口雄三 『楽々政治学のススメ 小難しいばかりが政治学じゃない!』西川伸一 『ポリティカル・サイエンス事始め』伊藤光利