ミャンマーの軍事政権は罪のない子どもにたいして排除の暴力をふるっているようだ

 ミャンマーでは、軍事政権の排除の暴力によって多くの罪のない子どもたちが殺されているという。とつぜんに家の中に入りこんできた軍人たちによって、家の中にいた七歳の子どもが殺されてしまったという。どうして殺されなければならなかったのかの理由は不明だとされている。

 ミャンマーでは国家装置である軍隊が子どもを含めた国民にたいして排除の暴力をふるっているのがあるが、それは許されることなのだろうか。罪のない子どもたちが国家装置である軍隊によって殺されることがあってよいのだろうか。そこで失われてしまっているのは、すべての個人が持っているものである基本の人権(fundamental human rights)を守る姿勢だろう。基本の人権を尊重することが行なわれていない。

 頭をかち割るのではなくて、数を割る。それが民主主義なのだと作家のエリアス・カネッティ氏は言う。ミャンマーの軍事政権が行なっていることは、民主主義の否定であり、頭をかち割ってしまっている。基本の人権を否定することを行なっている。

 正しいことのためなのであれば頭をかち割ることはやむをえないのだとしてしまうと、国民に排除の暴力がふるわれてしまう。たとえどのような思想をもつ人であったとしても、とにかく生きていることは最低限において認めるようにする。価値についてはとりあえずカッコに入れておいて、事実として生きていることを認めるようにして、生存を認めるようにして行く。民主主義ではそれが必要だ。

 国家の公が個人のもっている思想についてを評価づけしてしまうと、個人の内面に介入することになる。国家の公が個人の内面に入りこむのは、近代の中性国家の原則に反することになる。国家の公は価値については踏みこまないようにして、事実として個人が生きていることを認めるようにする。価値についてはそれぞれの個人の自由にまかせるようにして行く。

 国家の公のために個人がいるのではないから、国家の公のための手段や道具として個人があつかわれるのではないことがいる。個人の私がそれそのものが目的としてあつかわれるようにする。人格主義(personalism)によるあり方だ。

 人格主義においては個人の私はそれそのものが目的としてあつかわれることがいり、すべての個人が等しく尊重されることがいる。個人の私が自己実現と自己統治をなすために、有権者となって政治に参加して行く。投票の権利を行使したり自由に発言をしたり行動をしたりして行く。

 できるだけおだやかなかたちで数を割ることによって政治をなして行く。現実論としてはそれが大切なことだろう。国民の頭をかち割るようなことが政治において行なわれるよりは、まだしも数を割ることによって政治がなされたほうがよいのがあり、民主主義によって政治がなされることがのぞましい。

 公正さや適正さの中で数を割るようにして、それで政治のものごとを決めて行く。理想論としてはそれがよいが、現実の政治においては、公正さや適正さが欠けてしまい、効率性によって数を割り、ものごとを速い速度ですすめて行く。多数派の専制がおきがちだ。それでも国民の頭をかち割るようなことが行なわれていないのであれば、国家装置である国家の暴力が暴走しているとはいえないから、ぎりぎりの抑制はかかっているのがある。最悪の一線を越えているとは言えそうにない。政治においてはいかに抑制をかけて、権力を分散させるようにして、抑制と均衡(checks and balances)をかけられるかが大切になってくる。

 参照文献 『現代思想事典』清水幾太郎編 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『公私 一語の辞典』溝口雄三 『ええ、政治ですが、それが何か? 自分のアタマで考える政治学入門』岡田憲治(けんじ) 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫