政治におけるよいものと悪いものを、動物たちを引き合いに出して見てみたい

 政治において、よいものと悪いものとがある。それを動物に見立てるとするとどういったものが当てはまるだろうか。よいものに当たるのには羊やねずみがいる。悪いものに当たるのにはオオカミや猫がいる。

 オオカミは強い自我である。強い自我をもつ主体が優となり、客体を劣に置く。主体は能動で客体は受動だ。客体は主体から一方的に(下位に当たるものとして)意味づけられるのにとどまる。そういうあり方とはちがい羊は弱い自我である。羊どうしはお互いに対等であり、おたがいの自由をよしとする。自由を否定するような、ほかのものよりも上に立つ超越の他者をこばむ。超越の他者によって動かされる他律(heteronomy)によるのではなくて、自律(autonomy)をよしとする。

 ひとつの国の中の政治において、悪いものであるオオカミや猫が上の地位にずっととどまりつづけてしまう。独裁主義や専制主義だ。悪いものであるオオカミや猫を上の地位から引きずり下ろす。猫であれば、だれが猫に鈴をかけられるのかがある。ねずみの集団においてそれが問われることになる。

 ねずみの集団がみんな尻ごみしてしまう。猫に鈴をかけるものがだれもいない。そうなると社会の矛盾が引きおこる。猫に鈴をかけるべきなのにもかかわらず、それが行なわれていないありさまだ。ねずみの集団の中にだれも猫に鈴をかけるやり手がいない。それどころか、猫をそんたくして服従したり同調したり順応したりすることがおきてくる。猫の奴隷やたいこ持ちになる。権威主義である。

 ひとつの国をこえて世界の政治に目を向けられるとすると、そのさいに悪いものであるオオカミや猫に当たるのにはどんなものがあるだろうか。世界の政治において悪いものであるオオカミや猫に当てはまるものとして、民主主義を否定するような政治をしている国があげられる。具体としていうとロシアや中国があげられる。ロシアや中国は民主主義を否定しているのがあり、悪いものであるオオカミや猫になぞらえることがなりたつ。

 世界の政治においてどうして悪いものであるオオカミや猫がいつづけてしまうのだろうか。そのわけとしては、ひとつの国が主権をもっていて、それが絶対化されてしまっていることがあげられる。国が主権をもっていることがわざわいしているのである。

 それぞれの国がお互いに味方と敵に分かれ合い、不信をもち合う。それぞれの国が自己保存に力を入れて行く。そのことによってそれぞれの国がお互いにオオカミや猫になってしまう。オオカミや猫どうしの争い合いがおきて、万人(各国)による万人(各国)の闘争が引きおこる。自然状態(natural state)つまり戦争状態になる。

 ひとつの国そのものは善であるよりも、むしろ悪であるオオカミや猫になりやすい。国は悪であるオオカミや猫になりやすいのがあり、それは国がその地域における暴力を独占していることによる。国は国家装置である軍隊を抱えもつ。

 国は悪であるオオカミや猫になりやすいのがあり、歴史において大きな失敗が引きおこされてきた。その大きな失敗の経験をくみ入れてつくられているのが近代の立憲主義による憲法だとされる。立憲主義によるようにすれば、よいものである羊やねずみのあり方が保たれやすい。よいものである羊やねずみのあり方は、自然状態つまり戦争状態から脱して社会状態(civil state)をなすものである。

 ひとつの国の中においても、またそれをこえた世界においても、政治では悪いものが力をもってしまっている。悪いものが力をもってしまい、よいものを否定する。動物でいうと、オオカミや猫が上の地位にいつづけるようになり、羊やねずみが排除される。猫に鈴をかけるにない手がいない。権威主義がおきてしまい、オオカミや猫の言うことをきいて、羊やねずみをいじめる。上から下への抑圧の移譲がおきる。その中でよいものである羊やねずみをどのように力づけることができるのかがあり、猫に鈴をかけることができるようになれば、民主主義を保つことがなりたつ。

 参照文献 『リヴァイアサン 近代国家の思想と歴史』長尾龍一現代思想を読む事典』今村仁司編 『爆笑問題のニッポンの教養四 人間は動物である。ただし… 社会心理学太田光(ひかり) 田中裕二(ゆうじ) 山岸俊男憲法という希望』木村草太(そうた)