安倍元首相の殺害と、手段の悪さ―適正な手段(権力者への批判)の実践の欠如と、努力の怠慢

 安倍晋三元首相が、殺されたという。

 安倍元首相が、拳銃でうたれて殺された事件についてを、どのように見なせるだろうか。

 主体と手段と争点の三つの点から見てみると、手段は違法なものだった。政治家を拳銃でうって殺すことは、手段として法で許されるものではない。だから手段は悪いものだった。

 よい手段と悪い手段を分けてみたい。よい手段は、法で許されるものだ。悪い手段は、他者の危害の原則に反するもので、他者に物理の危害を与えるものだ。

 安倍元首相はどのような政治家だったのかといえば、民主主義において、いてもよい政治家ではなかった。

 民主主義では、強い自我である、(動物でいうと)猫やオオカミの政治家はいてはならない。弱い自我である、ねずみや羊しかいてはならないのである。

 強い自我である猫やオオカミの政治家がいて、それにすがってしまうと、権威主義原理主義や独裁主義におちいる。日本の政治は、きびしく見れば、それらにおちいっている。

 民主主義ではやってもよい手段である、権力者への批判までもが、だめだとされていた。自由の気風が失われていて、自由の危機がおきていたので、とれる手段に制約がかかりまくっていた。

 自由の気風がきちんとあったとすれば、強い自我である猫やオオカミの政治家をやめさせることができた。猫やオオカミの政治家をさばくことができた。日本の政治では、それができなくなっていた。

 日本の政治では、右傾化がおきていて、自由の気風が失われていた。自由が危機におちいっていたので、強い自我である猫やオオカミの政治家がのさばりつづけていた。安倍元首相はその代表となる中心の政治家だった。

 あたかも、いることが既成事実であるかのようになっていたが、ほんとうだったら民主主義においてはいてはならなかった政治家だったのが安倍元首相だった。

 政治の責任をはたさず、説明の責任をはたさないままになっていて、猫の首に鈴がかけられないままになっていたのである。ねずみたちが、猫の首に鈴をかけられなくなっていたので、社会の矛盾がおきていた。

 軟着陸(soft landing)できていれば、ねずみたちが猫の首に鈴をかけることができた。軟着陸がうまくできていれば、強い自我である、猫やオオカミの政治家を、いなくさせることができた。それで、弱い自我のねずみや羊だけによって、民主主義をきちんとやるようにして行けた見こみがある。

 日本では、強い自我にすがるのが大きい。民主主義がこわれることがおきやすい。民主主義だったら良しとされるべき手段までもが、だめだとされてしまう。とれる手段がかぎられて、制約が強くかかってしまう。

 制約がかかっているのを超えて、悪い手段がとられたのが、安倍元首相が殺された事件だ。この事件では悪い手段がとられたが、制約の中で、良い手段をとることまでもがだめだとされてしまっているのがある。

 制約の中で、努力をして行く。そのことまでだめだとしてしまっているのが日本の政治ではあり、制約を強くかけすぎていて、民主主義がこわれている。制約の中での努力が行なわれていない。

 他者に暴力をふるうような、制約を超えるようなことをしてしまってはだめだが、それを超えないで、制約の中で努力することがなされていない。報道では、権力者をきびしく批判する努力が行なわれていない。

 荒い着陸(hard landing)になってしまったのが、安倍元首相が殺された事件だが、軟着陸をしようとする努力がなされなかったのがある。軟着陸をするようにして、猫の首に鈴をかけることが行なわれなかった。強い自我である、猫やオオカミの政治家(である安倍元首相など)が、いつづけてしまったために、民主主義がこわれている。そこに日本の政治の危なさがある。

 参照文献 『社会的ジレンマ 「環境破壊」から「いじめ」まで』山岸俊男 『十三歳からのテロ問題―リアルな「正義論」の話』加藤朗(あきら) 『民主主義の本質と価値 他一篇』ハンス・ケルゼン 長尾龍一、植田俊太郎訳 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之(いいだやすゆき) 『原理主義と民主主義』根岸毅(たけし) 『右傾化する日本政治』中野晃一 『「自由」の危機 息苦しさの正体』藤原辰史(ふじはらたつし)他 『政治的殺人 テロリズムの周辺』長尾龍一